20230416-20230422

2023年4月16日(日)

 昼から出掛け、暖かな日差しを浴びながらふらふらと散策し、髪を切った後、観たかった映画を観るために電車で池袋まで向かった。

 人混みがこんなにも苦手になってしまったのは、コロナの影響もあるだろうか。それか、人が少ない場所に引っ越してしまったことで、都会の混雑への耐性を失ってしまったのだろうか。乗り換えの新宿駅は意味がわからないほど多くの人がいて、僕はヘッドホンでAnalogfishの音楽を聴きながら、黄色い線の外側を俯きがちに歩いた。人の流れに沿って歩いていないと人にぶつかってしまうのに、人と歩調を合わせようとすればするほど、前を行く人の呼吸が、自分の呼吸に侵入してくるような怖さがあった。それはみんな一緒のはずなのに、みんな同じような恐怖を抱えている、とは、何故かどうしても思えなかった。ヘッドホンから流れる下岡晃の優しい歌声だけが、僕の味方だった。

 池袋の映画館・新文芸坐は、風俗店が立ち並ぶ騒がしい通りに面したパチンコ屋の上階にある。僕は大学時代から何度もここに足を運んで、たくさんの映画を目に焼き付けてきた。醜さと悪臭の立ちこめる喧騒の中にぽつんと存在する、オアシスのような場所だ、と思う。この場所を無くさないためにも、またこの場所に足を運ばなければ、という妙な使命感が、ここに来るといつも胸に宿る。


 極力周囲に人の少ない端の席を選んで、映画「WANDA」を観た。主演・監督・脚本の全てを担ったのはバーバラ・ローデンという女性で、「WANDA」は、彼女の監督デビュー作にして、夭折前の遺作だった。上手く行かない現実と、どこにも行けない焦燥に背突かれた逃避行。誰かを信じようと思う度に間違え、無自覚に傷付けられる。社会に適応して生きていくことが極度に下手なワンダが最後に見せた表情に、無味乾燥とした現実社会へと自分を引き戻す銃口を突き付けられたような感覚を覚えた客は、僕以外にもたくさん居たことだろう。

 映画を通じてワンダの生を追いながら、僕は少なからずワンダの抱えていた息苦しさや、生き辛さを共有できたような気持ちになったのだが、そこでいつも立ちはだかるのが「性」の問題だ。この映画について僕が殊更に何かを語ろうとすると、自分の性に対する意識を語らざるを得ないような気がする。それを避けたい、と思ってしまうのは、僕がまだ、確かさを持ってそれについて語ることのできない、知識や経験の不足を心のどこかで感じているからかもしれない。

 それでも僕はこの映画を観ながら、随所で何か粘着質な汚物に触れたような居心地の悪さを覚えたのは事実だ。それは「搾取する側」に成り果てた男性を象徴するような登場人物の在り方に、同じ男性として生きている自分が照射されてしまうことへの苛立ち、と言ったら良いだろうか。僕は別段、自分の性に対して違和の感覚を抱いたことはないけれど、いつもそこには、一筋縄では行かない複雑な思いがある。

 できる限りフラットで、性差の無い社会を翹望したとしても、男性の僕があまり不安を感じずに夜道を歩くことができる一方で、周囲に人影の見えない夜道を怯えながら歩かざるを得ない女性たちがいる。その時点で自分が「男性である」ことの特権を保持してしまっているとすれば、こうした映画を観る度に、それがひどく罪深いことのように思わされる。そしてこうして書いてしまうと、何をわかったように語っているんだ、と、自分を詰るもう一人の自分も、否応無く立ち現れてくるのを、無視することもできない。

 いつだって搾取されてしまうのは、弱い側の人間だ。そしてその「弱さ」とは、決して精神性や知性的な面での弱さでは無く、搾取する側の固定観念によって無意味に規定された、空虚な「弱さ」だ。それはどれだけジェンダーレスやダイバーシティが叫ばれる現代を生きていても、この映画が作られた当時と今で何一つ変わっていないのではないか、と、強く思わされる。ではどうしたら良いのか?と、内省的に考えるためのヒントが、こうした映画には、幾つも散りばめられているように、僕は思う。性について考えることは難しい。けれど、それを考え続ける意味は、絶対にあるはずだ。

 素晴らしい映画はいつも、生き辛さを抱えた僕たちの味方だ。それは、性別や年齢や国籍といった何かに依るものでは、決して無いはずだ。ある一人の人間が真正面から現実と向き合い、苦心して生み出した物語であればあるほどそうだろう。そうした意味でこの「WANDA」は、怠惰な日常の景色を描きながらも、作家が映画という媒体と向き合う強い覚悟を感じさせるような映画だった。少なくとも僕の目には、そう映った。

 僕はワンダのような「美しい」人間でありたい、と強く思う。豊かな冒険心に溢れ、高い精神性を持った、一人の人間でありたい。その思いには性差は無く、何かしらの特権性の影が入り込む隙は、どこにも無いように思えた。そして、そう信じていたかった。そうした感情を抱くことができた点に於いて、僕にとってこの映画を観た時間は、確実に意味のある時間だったと思う。


 そんなことを考えながら、ネオンがひしめき嬌声のこだまする池袋の裏通りを、足早に肩をすくめながら歩いた。行きと同じかそれ以上に、吐き気を催すような道程だった。それでも、誰彼構わず道行く男性に声を掛けていた黒服の男が、何故か僕にだけ声を掛けなかったのは、僕の頑なな表情に「WANDA」という映画の魂が受け継がれていた証拠だ、と自負する気持ちは、果たして僕の驕りなのだろうか。

 

2023年4月18日(月)

 仕事に行った。もう2日前のことだ。今となって振り返れば、何かあったような気もするし、何も無かったような気もする。こんな日々を繰り返して、僕は一体どこに向かっているのだろうか。「人生は旅だ」と言うのであれば、日々、何か新しい発見を繰り返さなければいけないはずなのに。

 

2023年4月19日(火)

 溜まっている振休消化で、休みを取った。ウィンドウショッピングをして、あれが欲しいな、これが欲しいな、と何度も目を奪われながら、色々な理由で諦めて、結局最終的に購入したのは職場に持っていくためのお弁当箱と、部屋の空気を循環させるためのサーキュレーターだった。

 極端な人生を歩んでいるつもりで、結局中心から外れられない弱さが自分にはあると思う。あれこれと頭の中では理想を追い求めながら、最終的にはいつも周囲の目を気にして、極端な方向へと足を踏み出せないでいる。考えてみればずっとそうだった。自分の信条を固く貫き、周りの反対を押し切ってでも何かを果たした偉人たちの姿を羨ましく見つめながら、僕はいつも、社会という壁に囲まれ、そこに波風の立てぬようそっと息をひそめて暮らしているような実感がある。

 けれど、それだけでは満たされぬ感情の炎がいつも自分の胸の中で燃え続けていることは、この日記を書いている限り、きっと確かだ。それがごく一部の人を除き、周囲の人間には受け取られていないことが、時々すごく悔しい。自分が感情を表に出さないようにしているのだから、それは至極当たり前なはずなのに。

 夜、とある理由でネットの「性格診断」なるものをやってみた。結果は「仲介者型」というタイプで、クリエイティブな人間に多い性格タイプらしかった。何だか自分が理想としている人間像とほとんどの項目が合致していて、普段「性格診断なんてものに自分がわかってたまるか」と思ってしまう屈折した僕でも、今日だけは、よくぞわかってくれた、みたいな気持ちになった。

 そして、そうした感情を抱いてしまったことが、後から急に恥ずかしくなった。


2023年4月20日(水)

 朝から弁当箱に食材を詰め、職場に向かった。家に帰ってすぐに弁当箱を洗い、残り物の夕食を済ませ、明日の昼食の準備をした。サーキュレーターの導入で効率的に乾くようになった洗濯物を丁寧に畳み、風呂を洗って、ゆっくりと湯船に浸かった。気付いたらもう、こんな時間だ。

 すごく人間らしい生活をしているような気がした。従来の怠惰な暮らしを考えれば、自己肯定感も少なからず上がっているし、きっとこの生活を続ければ金銭的にも安定して、身体の不調も少なくなるだろう。けれどこうして寝る直前になると、本当にこれでいいのだろうか、と自分に横槍を刺すような思いが湧き上がってくるから不思議だ。

 その複雑な感情に折り合いをつけるように、今日も日記を書いた。

 

2023年4月20日(木)

 芸術への底知れない衝動。これは行き場の無い感情が抑圧され、茫漠の中に押し込められた日々に対する反動なのかも知れない。猛吹雪の中を一人、黙々と歩き続けるような日々。それに見向きもせずに平然と進み続ける世界の片隅で、寒さに打ちひしがれ、どこにも辿り着けずに足を止めてしまう自分が、不意に現れては、やがて消える。

 かつて芸術を志し、報われた者たちと、報われなかった者たちがいる。報われた者は、累々と打ち捨てられた、報われなかった者たちの屍の上で生きている。僕は報われた者だけが放つ光に目を眩ませながら、自分の中に残された微かな光に思いを馳せ、行く末よりも明日、明日よりも今日、といった思いで、目の前に積み上げられたタスクをただ平然とこなすことで、今をやり過ごしている。

 「決してこんなことのために生きているのではないのだ」と強く思う一方で、こんなことでしか生きられない自分がいる。きっと視野を広げれば、どこにでも道は開けているのだ。僕が自ら下を向いて、それらの道を見ないようにしているだけだ。どうしたら確と前を向いて、僕にとって大切なものを、真っ直ぐと見据えることができるだろうか。


 カーステレオから聴こえる下岡晃の力強い歌声で、僕は目を覚ます。

 

 スペースシャトルが落ちた 煙を出して

 テキサスの原っぱのど真ん中


 強い風によって全てを奪い去られた荒野の上で、僕は裸で立ち竦んでいる。僕に目を向ける者など誰もいないのだから、裸で十分だ。誰にの耳にも届かないのだから、思い切り叫んでしまえば良いのだ。大事なことは、ただひたむきに、荒野に木を育てるような思いを胸に、日々を生き続けることなのかもしれない。決して枯らさず、時間をかけて。ただそれが一番難しいのだ、ということも、頭のどこかではわかっていた。

 

2023年4月21日(金)

 それはそれでまあ良いか、と思える日と、際限無く悲観に傾いてしまう日の違いは一体なんだろうか。自分の日記を読み返せば読み返すほど、なんて情緒が不安定なんだ、と自分で呆れる瞬間もあるけれど、常に背後で一定の暗さが待ち構えている実感は拭い去れない。

 それでもなんとなく、今日は下では無く前を向いていた気がする。それだけで良い日だった。

 

2023年4月22日(土)

 北野武の映画を見た夢を見た。実際に見るよりよほど現実的で、艶かしい手触りがあったから不思議だ。見ているものを本当は見ていなくて、見ていないものを見ている、そんな境があるような気がした。何を言っているのだろうか。

 目覚めて枕元に目を遣るとスマホが置いてあり、もしかすると実際に映像を見ていたのか、はたまたやっぱり夢だったのか、それすらもよくわからなくなった。深酒の余韻が残る身体に鞭打ってベッドから起き上がり、雑然とした心を整えるように部屋の片付けをした。

 それから読書をしたり作曲をしたりして、夕方から出掛けた。僕は本屋で、本の背表紙を眺めている時間が好きだ。背表紙には、その本の覚悟が表れている。色やデザインだけで無く、文字のフォント一つをとっても、本によって千差万別だ。本は結局、誰かの手元に渡れば本棚に並べられるもので、そう考えると表紙よりも背表紙の佇まいが一番重要なのだ、と思う。

 それでも近頃、本屋に好きな背表紙の本が減ったなあと思う。目立つことが主眼に置かれた装丁、気を引くためだけの著名人によるキャッチコピー。美しい背表紙とは、そうした装飾に依らず内容から滲み出してくるものだ、と思うが、結局そうした考えも古くさい考えなのかもしれない。まだこんな齢だが、自分はきっと七面倒臭い老人になるだろう。

 けれど好きなものを好きだ、と思う気持ちは、詰られることは無いはずだ。僕は本屋で美しい背表紙の本に囲まれている瞬間に、恍惚と高揚を感じる。そうした場を失わないために、自分が今できることは、一体なんだろうか。