20230305-20230311

2023年3月5日(日)

 朝から髪を切りに行った。それからカフェに行って、昨日古本屋で買った中平卓馬篠山紀信の「決闘写真論」を少し読んだ。今ちょうどこれが読みたい、というような本だった。いつ読んでもそう思うのかもしれなかった。

 なんだか一人で過ごしていると気持ちが沈んでいくような気がして、家に帰ってから掃除をした。掃除機をかけながら、ダイアンのラジオをずっと聴いていた。ダイアンは面白い。ダイアンの面白さについて語りたい、と思ったけれど、ダイアンは語るまでもなくもう既に面白いのだから、僕が何かを語ったところで何も意味を成さないと思った。けれどダイアンが面白い、ということのそれ自体は、部屋で鬱屈した感情を抱えながら掃除機をかけている僕にとって、確かな意味があった。その事実が本当にすばらしい、と思った。気付いたら部屋もきれいになって、心も幾分か整理されたような気がした。

 こうした時に、やはり何事も整理されて晴れやかな状態が望ましい、と思うのだけれど、それはどういうことなのだろうか。部屋の乱れは心の乱れ、とよく言われるが、これはつまるところ、部屋を散らかった状態のまま放置していると、そうしてしまっている自分に対する自己肯定感が下がっていくからだと思う。それはやっぱり、部屋を綺麗な状態に保つことが「善」とされている、というか、部屋を散らかしてしまうことは自身の怠惰の表出だから「悪」とされている、あるいは自分でそう思ってしまう、ということだ。この価値観、善悪の判断は、結構万人誰にとっても納得のいく考え方だと思う。

 けれどその一方で、何かが散らかったままの状態を、そのまま受け入れることができれば、と思う気持ちもどこかで湧いてくる。「善」と「悪」で割り切れない部分に、愛情を持ち続けていたい。それは考えてみれば、絵画を見ている時によく感じることかもしれない。全体に統一感があって、隅々まで趣向が行き届き整理された作品よりも、雑多で、傷や汚れ、曖昧な部分が多い絵画の方が見ていて安心感がある、というか、人間の感情ってそんなにきれいに整理できないよな、と思わせてくれる作品の方が、結果的に自分の気持ちを整えてくれるような気がする。本にしてもそうだ。何一つ傷のない、ぴかぴかの新品の本よりも、誰かが線を引いていたり、手垢の跡がついていたり、なんならページが欠け落ちていたりする本の方が、その部分に対する自身の想像力の余地も含めて、より豊かな読書体験になるような気がする。いつか作家の堀江敏幸が似たようなことを言っていたが、隅々まで曇りなく、透き通った窓から見える景色よりも、少し結露していたり、曇りのある窓から眺める景色の方を、自分としては大切に思っていたい。

 立川談志は、「落語は人間の業の肯定だ」と言った。僕はそれ以上に、芸術は人間に対する圧倒的な肯定だ、と思う。それは数々の芸術作品に触れて感じたことだ。人間のどんな状態も受け入れてくれる芸術の度量から学ぶことは多い。僕はそういう意味で、整理整頓された部屋だけでなく、散らかった状態の部屋も愛せるような心の度量を、これからも持ち続けていきたい。

 とはいえ、部屋が綺麗な今の状態に、少なからず心の安寧を感じていることも確かだ。なんだかこの文章を書きながら、ずっと自分の感情があっちこっちに飛び回っている気がする。きれいに整理された部屋で、こうして全然収拾がつかずに散らかったままの文章を書いてしまった僕は、いったいどこに向かおうとしているのだろうか。

 

2023年3月6日(月)

 仕事に行った。少しだけ落ち着いた、と思っていたら、まだまだ仕事がたくさんあった。いらいらしてしまって、いらいらしてしまったことを後悔した。息抜きしなきゃ、と思って、何も考えずに風呂に入った。それでも湯船に浸かりながら、「何も考えないようにしよう」ということを、ずっと考えてしまっていたような気がする。

 

 最近、何かを書き始めると際限無く書き続けてしまって、どんどん時間が圧迫されていく。それでも、何かを書く時間を求めて生きているのだから、何かを書く時間で削られてしまった時間のことを悔やむ必要はないはずだ。それでも何かを書いた後に、ああ、もうこんな時間だ、と溜息をつくことが多いのも確かだ。

 ちょうど読んでいた大竹伸朗の「既にそこにあるもの」というエッセイ本の中で、大竹伸朗が「自分には絵の時間がある」いう主旨のことを語っていた。キャンバスの前に向かって何かを描けた時、そこには「ある時間を生きた」という実感が生まれるけれど、何も描くことができなかった、あるいは納得のいくものが作れなかった時は、時間が流れた実感が生まれない、という話だ。大竹伸朗はこの世界で普遍とされている時間の軸を生きながら、それとは別に、絵を描いていることで生まれる時間の中を、往来するように生きているらしい。高名な画家を例に出して自分の感覚を語ることは僭越極まりないが、僕自身も何かを作っている時、同じような感覚になることがあるような気がする。

 夢中になる、と単純に言えばそういうことになるのかもしれないが、何かを作っている時に自分の中で流れている時間は、一秒が一秒であり、一分が一秒を六十回繰り返したものである、という単純な時の集積とは全く異質のものであるような気がする。僕は何かを書いている時、その時間を通して何かを考えている、あるいは何かを思い出していることは間違いないが、「何かを書く」という行為の風浪に身を委ねているような感覚がある。そこで時間が流れているか、流れていないかということは全く意味を成さず、ただ行為の中を揺蕩っている感覚、と言えば良いだろうか。何かを作ることに耽り、失敗したり、逆に納得のいくものができたと一喜一憂している間に窓の外で小鳥がベランダの柵に止まって、それから飛び立つまでの時間が流れようと、外が暗くなっていようと、近くの小学校から5時のチャイムが鳴ろうと、どうしようもなく腹が減っていようと、僕が何かを作る時間の流れに対しては何一つ意味を持たない。というか、それに意味を感じてしまった時点で、何かを作ることはできなくなってしまう、という感じがする。今こうやって書いていて、自分でもそれがどういうことなのかよくわからない。

 自分でもよくわからないことをこうして書いている間に流れた時間は、僕が普通に家事をしたり仕事をしたりしている時間以上に濃密だったり、逆に希薄だったりする。それが僕を悩ませる時もあるし、逆にそれがものすごく、自分にとっての救いになったりもする。それはやはり、「何かを書くことができた」という自分の実感に依拠しているらしい。自分がどう感じていようと関係なく無情に流れ続けていく時間の中で、何かを書くことができた、あるいは考え抜くことができたと思えた瞬間の感慨には、何物にも替え難い喜びがある。

 

 もうこんな時間だ、と、いま思った。この瞬間に、僕は何も書くことができなくなる。僕は手を止める。その瞬間にも、素知らぬ顔をして時計の針は進み続けていく。時計の針に追われるような生活を送りながらも、自分の手でその針を静止してみたり、無理やりその針を逆に巻き戻してみたりするような生活を、僕は心のどこかで求めているのかもしれない。だからきっと、書き続けるしかないのだ。

 

2023年3月7日(火)
 家で仕事をした。書きたくて、書きたくて震えていた。


2023年3月8日(水)
 仕事に行った。震える手で書き始めた文章は見るも無残で、一度記した思いをくしゃくしゃに丸めて捨てた。


2023年3月9日(木)
 仕事に行って、夜は職場の飲み会に行った。
 楽しいとか、楽しくないとか、やりたいとか、やりたくないとか、本当はそれぐらい単純で自由なはずの人生が、どうしてこんなにも狭苦しく感じるのだろうか。置かれた場所でかろうじて見出せる限られた選択肢の中から、自分の内に蓄積された過去の経験というフィルターを通して、その時に見合った選択を一つ一つ繰り返す。それが誰かにとっては適切な選択ではなかったり、腹の立つ選択だったりする。ちがう人間なのだからそんなの当たり前だ。けれどそれが当たり前とされない環境の中で、びくびくしながら選び取った行動によって生まれた些細な感情の機微が、日々僕を苦しめ、悩ませる。その事実を、俯瞰で見るような傲慢さを失ってしまったら、僕は生きる希望をなくしてしまうかもしれない。
 そうなってはいけない、と、ここで強く断言したい。どれだけ毎日嘘をついていても、書くことにおいてだけは、絶対に嘘はつきたくない。聞いてるか、自分。自分の感情だけは、絶対に誰にも渡すな。


2023年3月10日(金)
 仕事に行った。夜は四日分の日記を書いた。少しだけ強くなれたような気がした。

 

2023年3月11日(土)

 朝からバンドのミーティングをしたり、電車で買い物に出かけたり、本を読んだり、忙しなくしていた。

 仕事で毎日忙しない生活を送りながら、仕事以外の時間でもこうして忙しなく過ごしていると、時々急に、あれ、これで良いのだろうか、と不安に思う瞬間がある。普段そんなことを考える暇もないから、そうやって思う時はいつも少しだけ心に余裕ができた時なのだけれど、その間隙を埋めるようにして不安な気持ちが胸の中に巣食い始める。できることならば毎日適度な距離感で自分を見つめながら、同じ時間に起きて、同じ時間に寝て、丁寧な日々を送りたい。けれどそれが叶わない現状を前にして、僕は僕が何をしたいのか、とか、何のためにこれをやっているのか、とか、そんな意味も無い感情に囚われてしまうことがある。

 何かに自分なりの意味や目的を持って取り組むことは、きっとその何かを果たすために大切なことだ。けれど僕が本当に探し求めているのは、そうした意味を超えた「生活」の確かな実感なのかもしれない。日々生活する、ただそれだけの中に生まれる自身の心の機微を、一つ一つ自分の手でなぞり、それを自分なりの言葉に変えていくような営為に身を委ねることができれば、生はどれだけ愛しく思えるだろうか。

 まずは手始めに、写経でもしてみようか。そんなことを考えていたような、別に考えてもいなかったような、土曜日の夜。