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 言葉が言葉を呼ぶように文章を書く、書いてみる、書いてみようと思う、そう思っている、今、何を書こうか、何を書くべきなのかわからない、今、今が過ぎていく、過ぎていく度に今が過去になる、だから過去になる前に今を繋ぎ止めようとする、掴み取ろうとする、けれど、掴み取ろうと思った所で今を全て掴み取ることはできない、そう諦めた瞬間に言葉にならない全てが、言葉にできなかった全てのこととして僕の胸に何らかの意味を与える、与えられる、与えてくれるのは誰だ、誰でも良い、僕が今、言葉にできなかった全てのことに何らかの意味を与えてくれる誰か、それは自分では無いことだけは確かにわかる、わかる、というのは本当にわかっていることなのか、わからない、わからないからこそ考える、わからないことを考えるということが考えていることになるのかもわからないままとりあえず考えているように考えるように何かを、書く、書く、フリック入力を止めないようにとにかく書く、書いているのではなく指を動かしているだけなのか、それすらもわからない、考える間もなく指を動かすことだけに意味がある、運動を続ける、止まってはいけない、走り続けることだけが生きていることだと歌っている誰かがいた、例えばもしそれが本当ならば、運動を続けなければいけない、けれど僕は今、眠りたい、深く、どこまでも深く、深い井戸の底で誰の声も、何の音も聞こえないような暗い場所で深く、深く眠りたい、そうしたい、何かをしたい、と思っていることが本当にやりたいことなのか、何かをしたいと思えること自体に価値があるのであれば何かをすること自体には別にさしたる意味もない、意味なんて何一つない人生を今、生きている内に、また今が今、過ぎていく、今が過去になる、過去になった言葉を見返す暇もなく今がどんどんフリック入力で刻まれていく、刻まれ続けている、本当に刻まれているのかわからないほどスマホの画面は鮮明すぎる、と思いながらも文字は文字としてここにある、フリック入力を覚えたのはいつ頃だったのか、もはや記憶がおぼつかない、けれど記憶がおぼつかなくたって僕はフリック入力ができる、というのはつまり、何かをわかることが運動を続けることなのではなく、何もわからなくたって運動を続けることはできる、と考えれば生きているうちに何一つわからなくたって生きていくことはできる、それでも、わかりたい、わかりたい、という欲求は僕が僕のために思っていることだ、と思っていたけれど実際はきっと違う、わかりたいのではなくてわかったことを誰かに伝えようともがいているだけだ、けれどきっと誰にも伝わらない、それでも声を出す、声を出せば聞こえるかもしれない、そう思って文章を書いている、わけではない、きっとそういうわけではない、僕はあなたに読んで欲しくて文章を書いている、というのは僕の欲求なのか、はたまた欲求にもならないような単なる運動に過ぎないのか、そこには考える余地なんてあるのか、考えることなんて本当にできるのか、わからない、けれどとにかくあなたに向かって何かを書くこの指のフリック入力を止めることは誰にもできない、僕にもできない、止まらない、止まりたい、それは「死にたい」ということでは決してない、僕は生きたい、そう信じている、けれど少しばかり疲れていて、ただ深く、眠りたい、眠りたい、と思ってきっとまた今日も眠りにつく、そうして朝が来て、世界が美しい朝の光に包まれて、またフリック入力で何かを書き続けて、書き続けた先に見える山かどうかもわからない山の頂に、そこで一番美しく咲く花のようなあなたが僕の言葉を読んでいると想像することさえできればきっと、僕はこうして何かを書き続ける意味がある、わけでは決してなく、ただそう願って書き続ける、生き続ける、ということだけがここにある、きっとある、あってほしい、と願う、それが本当に、僕がやりたいことなのだろうか。

 10分のタイマーが鳴る。