20230409-20230415

2023年4月9日(日)

 朝から車で狭山湖まで行った。天気も良く、日曜日にも関わらず人の少ない貯水池ダムの景色はすごく美しかった。やっぱり自然はいいなあ、と思った。それでもこれが人工物で、人々の生活があった村を湖の底に沈めることで成り立った場所である、ということを知った時、複雑な気持ちになった。

 僕が見ていた景色は、きっと本当の意味での「自然」では無い。どれだけ草木が生えていて、水辺があり、鳥や虫の声が聞こえていても、それが人工的に作られた場所であれば、それは突き詰めて考えると自然では無い。東京にいると、そうした人工的に作られた風景を「自然」と思って、やっぱり自然はいいなあ、と思ったりしてしまうのだが、それが錯誤であると気付いた時に感じる居た堪れなさは、常に付き纏っている。そこに陥るギリギリの線の上を、薄氷を踏むような思いで歩いているような気がする。過ごしやすさに配慮され、不快な部分を削ぎ落とした「自然」。視覚的に美しいものだけを並べた「自然」。人間の生活を支えるために作られた「自然」。そうした環境の中に身を置いていると、なんだか自分が節々で感じる感情の機微は、全て外部の圧力で作られたものであるような気がしてくる。

 思わなくてもいいことを、ずっと考え続けている。ただ狭山湖は美しかった、それだけで良いはずだったのに、いつも逆方向に向かう感情が矢のように飛んできて、こんなことを考えてしまう。これはきっと、「自然」では無い。出来る限り自然でありたい、と願いながら、僕は何かを自然に、素直に受け取ることができないが故に、自然であることすら叶わなくなってしまったみたいだ。

 けれどこうして文章を書くことで、自分の中で意味を成していなかったあれやこれやの感情が、自分の中にごく自然に堆積されていくような感覚もある。こうして色々と書いた後にあの時に見た狭山湖の景色を思い返すと、疑いようもなく澄み渡り、美しい「自然」の景色だった、と素直に思えてくる。僕は僕の中の自然を探すために、こうやって文章を書くことで、自分の中に生まれた疑念の声を濾過して「自然」を取り戻そうとしている、と、こじつければそういうことになるかもしれない。云々。

 

2023年4月10日(月)

 叙々苑に行って焼肉を食べる夢を見た。なぜそんな夢を見たのかはわからない。弁当以外で叙々苑を食べたことが無い自分だが、そこで食べた焼肉はなんとなくチープで、ここは本当に叙々苑だろうか?と連れ合いと疑い出し(連れ合いが誰だったかは覚えていない)、ネットの位置情報で検索してみると、叙々苑チェーンに新しくできた、プチプラ店舗だということがわかった。(そんな店があるのかもわからない。)

 せっかく叙々苑に来たのにこんなに安くてブヨブヨの肉を食べさせられるなんて、と悲嘆した僕と連れ合いは、「もうこんな所出よう」と小声で話し、なぜか店員の目を盗んで代金の支払いもせずに店を飛び出した。それから車がビュンビュンと行き交う国道沿いの大通りを、二人で全速力で走った。散り際の桜と強い日差しにやられて視界はぼやけていき、それ以降の記憶は無い。多分そこで、目が覚めたのだと思う。

 

 どうしてそんな夢を見たのか見当もつかない。一緒にいた連れ合いが誰だったのかもわからない。どうして支払いもせずに店を飛び出したのかもわからない。けれどいつも不思議なのだが、夢には妙な現実感があることだ。現実を生きているよりずっと、それが現実に起きたことだ、という手触りが、自分の中に残っているような気がする。自分が目にした何かしらの景色や、得ていた感情が夢に影響を与える、と聞いたことはあるけれど、こんな身も蓋もない物語が現実に思えるのも、不思議な話だ。

 夢に見たことを日記に書く、という行為も、考えてみれば不思議だ。なんとなく、現実と創作の狭間で揺蕩っているような感じがする。僕の身に起きたことや、頭で考えたことを書くのが「日記」だとすれば、先に書いたことは実際に見てもいないし考えてもいないのだから、日記とは呼べない。それでもなんだか、ただただ日記を書くことより「自分の思いを書けた」という手触りや実感が強くあって、そこから派生する言葉が、自分の中にどんどん生成されていく気がする。これが「書く」ということだ、という気が、なんとなくする。

 小説を書く、ということの本質は、もしかしたら夢の中にあるのかもしれない。

 

2023年4月11日(火)

 振休消化のため仕事を休んだ。朝から天気が良くて、洗濯機を3回まわして外に干した。洗濯機を回してから干すまでの間に、又吉直樹の「月と散文」を一編ずつ読んだ。こうして緩やかに過ぎていく時間の中で読書する時間を、ずっと求めていたような気がする。

 それからふらふらと車で買い物に出かけ、駐車料金を補うために買い物をした。「駐車料金を補うために」という理由を付けたら何でも買って良いわけではないのはわかっているけれど、それが理由になるから満たされる購買欲もある。色んな欲求を抱えざるを得ない僕たち人間は、それを正当化する理由を常に追い求めて生きているのだ。「2,000円以上購入で一時間無料」のところ、レジに映し出された金額は2,065円で、なんとなく自分の欲求を店員に曝け出してしまったような気がして急に恥ずかしくなり、そそくさと店を後にした。

 その後、大量に車に積み込んだ本とともに図書館に向かった。図書館に行っているのだから別に自分の本を持っていく必要も無いのだけれど、どうしても自分の本を持っていきたかった。必要か、不要か、と問われることの多い社会的な日常にすり減らされ、疲れ切った心や体を癒すためには、無駄だけれど自分にとっては意味がある、ということに精を燃やすのが一番だ。背負ったリュックの重みを感じながら、図書館の階段を一歩一歩踏みしめながら上る時間は、言いようもなく幸福だった。

 それからしばらく本を読み、夕焼けに急かされるように帰路に着いた。

 

 なんだかこうしてゆっくりと日記を書くことも、久しくできていなかった気がする。白状すると、昨日と一昨日の日記も、今日書いた。それは日記なのか、と問われると何も言い返せないけれど、一応その日に起きた出来事を書いているから許してほしい。

 やっぱり僕は、こうして日記を書いている時間が好きだ。ここで書かれたことが誰かにとって何か有益である、とは夢にも思わないけれど、僕自身がここで何かを書くことで救われていることだけは確かだ。僕はここで何かを書くことで、漠然とした時間の中にある自分の生活を、真っ直ぐな自分の目で見つめることができるような気がする。

 今日読んだパウル・クレーの日記の中に、こんな言葉が書いてあった。

 

 遊び。鏡なしで、また鏡に似たもので自分をかえりみることなく、自分の姿を描いてみよ。まさに自分に見える姿を。つまり、頭なしで。頭は自分には見えないのだから。

 ----W・ケルステン編『クレーの日記』より

 

2023年4月12日(水)

 仕事に行った。仕事のメールをたくさん返した達成感に喜びを感じながら帰り道にスマホを開いたら、ラインの通知がびっくりするぐらい溜まっていた。

 僕は返信が苦手なだけで、別に返信したくないわけではないのだ、と主張したところで誰からも信じてもらえないぐらい、僕は返信ができない。自分でも、その言い分は無理があるような気がする。なぜ返信できないのか自分でもよくわからないけど、みんなのことは好きだし、僕も好きでいてもらいたいのだから、ちゃんとすぐに返信すればいいのに。どうしてこんなに単純なことができないのだろうか、と、いつも自分で自分が嫌になる。

 またこんなことで落ち込みながら夜が過ぎていく。ラインの通知を知らせる真っ赤な数字は、まだスマホのホーム画面と脳裏の片隅で、僕を急かすように点灯し続けている。


2023年4月13日(木)

 仕事に行った。職場の先輩の息子さんの話を聞いて、抱えている悩みが僕の10年前とそっくりだな、と思った。

 けれど、それから10年も長く生きてきた僕が、その悩みに対してかけることのできる言葉など、何一つないような気がした。実感としては、僕は当時の僕のまま、何も変わらずに生きてきてしまったような気がする。

 それでも「生きてきた」ということだけで、認められる何かがあるだろうか。僕は僕なりに、経験の中で見つけてきたことがあるだろうか。それがきっとある、と確かに信じるためには、また10年、たくさん悩みながら生き続けなければいけないのかもしれない。そしてその先も、同じことの繰り返しかもしれない。

 遠い先に続く道程を、薄目で見遣るような夜。


2023年4月14日(金)

 良いように捉えればそれなりに前を向けるような出来事が、全然ポジティブに捉えられず、考え過ぎて落ち込むことの多い日々。けれど「考え過ぎてしまう」と誰かに口にすることだけは絶対にできない。それを口にしてしまったら、自分が考えられていないあれこれがまだ沢山ある、ということを、誰かから詰られてしまうような気がする。とここまで考えて、僕は結局人前でぼそぼそと、誰にも聞こえない声で何かを呟くだけの小心者に成り下がる。

 つまるところ、とことん考え抜けば前を向けるものだ、と心の底では信じているから日々何かを考え続けているわけで、それが外から見て良いことだとか、悪いことだとかいう価値判断は意味を成さない。僕は僕であるために何かを考えていて、誰かは誰かであるために、何かを考えたり、考えなかったりして生きている。それは人それぞれだし、状況や環境によっても変化するものだ。それは頭ではわかっているつもりだ。一応、それなりに良い年齢の大人なのだから。

 それでも誰かの言葉や行動に疑念を持ってしまうのは、僕が僕自身の思考や言動に対して、どこかで疑問を抱いているからなのかもしれない。自分が真っ直ぐに生きている、という自負さえあれば、誰かも同じように真っ直ぐに生きているのだ、ということを、強く肯定できるはずだ。それができないのは、自分が真っ直ぐに生きることができていない、あるいは、真っ直ぐに生きていると、自分で信じることができていない証拠ではないだろうか。

 けれど僕は、僕が「考え過ぎだ」ということを、ここでなら素直に書けるような気がする。行き場の無い感情を抱えた時も、それを書くことができた夜は自分を信じられる気がするし、書くことができなかった夜は、なんとなく自分を責め立ててしまうような気がする。そうであるとすれば、「真っ直ぐに生きる」ということが僕にとって、ここでこうして何かを書くことだ、と言うことはできるかもしれない。そこに自分だけで無く、近くにいる誰かの存在すらも照らすような光があると、信じる意味はあるかもしれない。

 なんだかいつも、同じ結論に落ち着いている気がする。明日も、何かを書きたい。この場所で、何かを書くことを通して、そう大きな声で叫んでみる。きっと、それだけで良いはずなのだ。

 

2023年4月15日(土)

 遅い時間に目が覚めた。カーテンを開けて外を見ると、静かな雨が降っていた。朝食にパンを食べた後、一度開けたカーテンをまた閉め、電気を消し、暗い部屋で映画「A GHOST STORY」を観た。

 僕はこの映画を何度観たのか、今となってはわからない。然るべきタイミングで、何度もこの映画と出会い直してきた。僕はその時々の感情に沿ってこの映画に触れ、その度に僕の胸の内には、幾つもの思いが生起された。それが自分でも気付かない内に澱のように溜まっていって、今の自分の思考や言動に、少なからず影響を与え続けているように思う。

 何度目かわからない映画鑑賞の後、今思うことは、この映画を愛しく思う気持ちは、誰かを愛する気持ちを大切に思うことと同義だ、ということだ。

 ルーニー・マーラ演じるMという女性は、最愛の恋人であるCを交通事故で亡くし、悲嘆に暮れる。しかしその悲哀の感情は、あからさまな言葉や、涙といった安易な形では表現されない。知人が自宅に持って来た大きなパイを手に持ってキッチンの隅に座りながら、彼女は延々と、それを口に運び続ける。5分以上もの間、音楽もかからず、そのシーンだけが長回しで画面上に映し出され続ける。どう考えても食べきることのできない量のパイを口に運び続けた結果、彼女は唐突に立ち上がり、勢い良くトイレに駆け込んで食べたパイを吐き出してしまう。そこでやっと、画面から静かな音楽が流れ始める。

 何かを表現することは、時間がかかることだ。そしてそれと同じように、誰かを愛することは、時間がかかることだ。僕はその単純な事実を、この映像を見るたびに強く思わされる。

 愛とは、一体何のために存在するのだろうか。誰かと出会い、別れる。その繰り返しの道の上に自分は立っていて、その時々で喜びを覚えたり、悲しみに沈んだりする。けれどいつかは、自分も死んでしまう。出会いや別れに抗えないことと同様に、自分の死から抗うことも、生物としてこの世界に屹立している限り、抗うことはできない。そう思うと、誰かを愛することなど無意味だ、と、世界を冷めた目で見つめることもできてしまう。その矛盾を代弁するように、映画の中で、ある男がパーティーの場で、こんな言葉を語っている。少し長いが、ここに引用してみたい。

 「小説家は物語を書き、作曲家は曲を作る。中でも交響曲は、神に関連した名作が多く残されている。では『第九』を作ったベートーヴェンが、ある日、神は存在しないと悟ったら? 人類を超越する存在がいると信じて捧げた曲が、意味を失うんだ。あるのは物理法則だけと思い知ることになる。

 神がいないなら、他の人のために作るしかない。誰でもいい。だが目的は愛ではなく、自分が存在した証しとして曲を作るんじゃ? それを、残された人が現代まで守り続けてきた。人は遺産を残そうとする。対象が全世界か、わずか数人かは関係なく、自分が消えた後も覚えていてもらうためにね。俺たちは先人が書いた本を読み、歌を歌うだろ? 子供は親や祖父母を覚えてる。誰にでも家族はあるし、ベートーヴェンには交響曲だ。彼の作った音楽は、今後も聴かれるだろう。

 だがそこから崩壊が始まっていくんだ。君は子供はいる? 君の子供も、いつかは死ぬ。皆必ず死ぬし、その子供たちも同じ。それを繰り返している間に大きな地殻変動が起きる。大陸プレートが動き、海面が上昇し、山脈は崩れ、人類の9割は滅亡する。一瞬でね。これは科学的事実さ。残された人類は高地へと移り住み、社会秩序が失われ、狩猟採集の生活に戻るんだ。

 だけどある時、その中の一人が、あの曲を口ずさむかも。(第九のメロディを口ずさむ)それが人々に希望を与える。そして絶滅寸前だった人類がその曲を聴いたおかげで、恐怖や空腹や憎悪以外の感情を取り戻して、再興を遂げる。文明も復活し、ハッピーエンドかと思いきや、それも続かない。いずれ地球は死ぬからだ。

 数十億年後に太陽が赤色巨星と化すと、地球は飲み込まれて消える運命にある。その頃までに人類は、別の惑星へ逃げてるかも。自分たちにとって大切な物と一緒にね。モナリザを見た者が、別の惑星の土を塗料に使い、新たな傑作を生み出すかも。だが、たとえ進化した人類が、何らかの形で交響曲を残しても、いずれ未来は壁に阻まれる。宇宙は膨張を続け、いずれ物質は消え去る。これまでに築き上げ、地球の裏側の見知らぬ者と共有し、別の未来人とも分け合うかもしれない物もだ。自分を大きな存在だと思わせてくれた全てが、完全に消え去るんだよ。この次元にある全原子が、崩壊する。そして粉々になった粒子が収縮に転じ、そして、小さな一点に収束して宇宙は終焉を迎える。

 だからいくら本を書こうと、いずれは燃える。人々の記憶に残ろうと歌を歌い、劇を演じて、夢の城を構えるのもいい。だがそれも最終的には無意味だ。柵を立てるべく地面に指を突っ込むのと、誰かとヤるのにさほど違いが無いようにね。」

 ケイシー・アフレック演じるCは、その男が意気揚々と自慢気に語るその言葉を、霊として見つめている。表情は読み取れず、彼がその時に何を思ったのかは、想像することしかできない。そこで何を思ったかどうかは、他でもない鑑賞者であるこちらの心に、完全に委ねられている。

 僕が今日、そのシーンを観た時に思ったのは、すごく単純なことで、「そんなこと言うなよ」ということだった。僕の中の僕が、強い語気で語り始める。

 「そんなこと言うなよ。意味があるとか、意味がないとか、そんなことを考える暇もなく、僕らは誰かを愛し、愛されて、それを何かの形で、この世界に残そうとし続けているんだ。その営みがあるから、突き詰めて考えれば結局は無意味なこの世界を生きていても、自分の生に何らかの意味がある、と思うことができるんじゃないか。何一つ意味がない、と思うことは、それ自体が無意味だ。

 僕ら人間は、思い出すことができる生き物だ。誰かが死んでしまった後でも、その人が見せた笑顔や、発した言葉は、自分が生きている限り、胸の内に残り続ける。たとえ思い出すことができなかったとしても、澱のように、それは自分の中に積み重なり続けていくんだ。それは疑いようもなく、今生きている自分にとっては、確実に意味のあることだ。

 死後の世界を想像することは、どう足掻いてもできない。それは誰一人、死後の世界を経験したことが無いからだ。だとすれば、先の男が語った言葉は今生きている自分にとって、何一つ意味を成すことは無い。そこに、新しい価値が生まれる可能性は無い。

 生きている限り、僕らは誰かを愛することができる。そこには無限の可能性がある。だからそれを斜に構えて遠ざけてしまう前に、目の前の誰かを大切に思う気持ちや、それを表現する心と、まっすぐに向き合わなければ。」

 

 誰かを失うことの怖さから、無理やり不感にしてしまった自分の心の全てを、この映画は根本から奮い立たせる。正直なところ、今までこの映画を見る度に僕は、先に引用した男の言葉がこの世の真理であるような気がなんとなくしていた。

 けれど今の僕がこの映画を見て強く思うのは、誰かを愛することの素晴らしさや、人間の営みの美しさだ。それは僕自身が、誰かを愛する気持ちを、大切に思えている証拠なのかもしれない。それはきっと他でもなく、傍にいてくれる人のおかげだ。そしてそれに対する感謝の思いを、ここで筆に力を込めて書くことに、きっと意味があるはずだと、今の僕は思う。

 作品に何度も触れることの愉しみは、ここにある。明日の僕は、何を見て、何を思うのだろうか。その一つ一つを愛しく思う気持ちを取り戻させてくれたこの映画に、深い賛辞と、愛情の意を捧げたい。