20230430-20230506

2023年4月30日(日)

 朝から友人と落ち合って、アーティゾン美術館に「DUMB TYPE 2022:remap」を見に行った。それから手早く昼食を取って新宿に移動し、109シネマズプレミアム新宿で「Ryuichi Sakamoto:Playing the piano 2022+」を見た。どちらも素晴らしい作品で、心の底から芸術を信じ、愛していなければ持ち得ない圧倒的なエネルギーがそこにはあった。僕はそうした大きな力に五感を通して触れて、自分は果たして芸術に対して、ここまで真摯に向き合うことができているのだろうか、と自問せざるを得なかった。

 それからしばらく古本屋を巡ったりして散歩をし、同じように芸術を愛して止まない友人と飯の美味い店で酒を酌み交わした。そこで滔々と話した内容や、彼が僕に宛てて書いてくれた手紙の内容はこんなブログでは安売りしたくないけれど、そうした時間を通して僕が思ったことは、僕がこうして毎日日記を書いている以上に大切なことがきっとあるはずなのだ、ということだった。日々色々なことを後回しにしたり、誰かからの誘いを断ったりして日記を書く。自分の殻に閉じこもって曲を作ったり、本を読んだり、映画を見たりする。それが一番自分にとって夢や目標への近道だ、と疑いも無く信じていたけれど、何かこうした一日を共に過ごした気心の知れた友人と語り合う言葉の中で生まれる感慨は、他では得られない貴重な財産なのだ、と思う。そこに何かしらの芸術体験が無かったとしても、そこで生まれる何かは、きっと僕にとってすごく意味のあることなのだ。そうした時間を大切にする、ということの大切さに、今さらかも知れないけれど気付くことができて良かった。

 

2023年5月1日(月)

 仕事に行った。ずっと頭の片隅で、昨日見た、ピアノを弾く坂本龍一の表情がはっきりと浮かび続けていた。僕は僕の人生を通して、最期にあんな表情で何かに打ち込む姿を見せることができるだろうか。諦めるにはまだ早いけれど、職場で腑抜けた表情でパソコンを見続ける自分は、何かそうしたバイタリティとはかけ離れ過ぎているような気がした。

 今日は何を書こうか。

 帰り道にコンビニに立ち寄り、唐揚げ棒を買った。家に帰ってレジ袋を開けると、どうしたものか、買ったはずの唐揚げ棒がそこには無い。きっと店員が入れ忘れたのだろう、僕はコンビニに戻ってそれを店員に説明し、申し訳ありません、と謝られながら、唐揚げ棒をもらった。

 店員の表情を見る限り、彼女は僕が唐揚げ棒を買っていたことを覚えていなかった。それでも彼女は申し訳ありません、と言って、唐揚げ棒を僕に渡してくれた。それに対して僕は、身に覚えの無いことに対して謝らせてしまった申し訳なさと、それを証明する事実がどこにもない自分の不甲斐なさをなんだか痛切に感じて、唐揚げ棒を受け取った後になぜか、すみません、と呟いて、コンビニを出た。

 今考えてみると、僕がすみません、なんて言う必要はどこにも無かったはずだ。それなのにどうして、すみません、なんて言ってしまうんだろう。僕が呟いた「すみません」という言葉は、一見相手を傷つけないための優しさのようでいて、本当の意味での優しさでは無いはずだ。僕がすみません、と言ったら、その店員はもっと申し訳ない気持ちになるだろう。店員なのだからその辺はちゃんとしてくれなきゃ困る、という思いももちろんあるけれど、こうして誰かが「僕が唐揚げ棒を買った」ということによって申し訳なさを感じたり、傷ついたりしてしまうことが、なんだか苦しい。いや、苦しい、というより、そうしたことで自分や相手の心に波風が立つことが、とにかく面倒だ、と言った方が正確かも知れない。極力誰にも何も思わせず、自分自身も何も思わずに、平坦な日常を生きていたい。それで結局、いつも小さい声で最後に「すみません」と呟いてしまう。


 僕は坂本龍一のように、自分の熱情に真っ直ぐに作品を生み出し、誰かの心を芯から震わせる表現者になりたい。それなのに日常を見たらこんな有様だ。やっぱり理想とはかけ離れすぎている。それでもこんな日常を書くしか方法が無いから、今日も心の赴くままにここに書き殴った。

 こんな日記を書いてしまって、すみません。

 

2023年5月2日(火)

 仕事に行った。今晩から山梨に住んでいる友人の家に遊びに行くことになっていたから、定時で上がってすぐに帰宅し、急いで支度をして家を出た。列車に揺られながら、久々に会う友人と何を話そうか、考えていた。

 友人と駅で落ち合い、車で送ってもらって彼の実家で夕飯を食べた。それから適当な映画を垂れ流しながら、お互いに積もらせた話を切り崩し、酒を酌み交わした。と、言いたい所だが、友人はしばらく会わないうちに一度病気になっていて、酒を飲むことができなくなってしまっていた。僕は一人、申し訳なく思いながら少しだけ缶ビールを飲んだ。

 いつまでも何かが当たり前であることはあり得ないのだ、という単純な事実に胸を揺さぶられながらも、明日の旅路に二人で胸を高鳴らせ、早めの時間に床に就いた。


2023年5月3日(水)

 早起きをして、友人のお母さんに作っていただいた朝食で腹を満たし、まだ早朝の空気が残る中出発した。友人の車の助手席から眺める山梨の景色はとても美しかった。不思議なことだけれど、この土地に来るたびに、僕はこの土地の「におい」を強く感じる。それは嗅覚を刺激するにおいだけでなく、視覚的だったり、聴覚的な部分も含めた、五感で感じる「におい」だ。それはどこの土地に行っても思うことだが、山梨のそうしたにおいに少なからず居心地の良さを感じるのは、いつ来ても温かく迎えてくれる友人と、ご両親の優しさのおかげかもしれない。

 まず最初の目的地は、八ヶ岳の美しい自然の中に佇む中村キース・ヘリング美術館だった。キース・ヘリングの作品は至る所で見慣れていて、今まで注視して見たことがなかったけれど、一つ一つの作品をじっくりと見ると実はすごく精緻で、趣向の凝らされた作品だということがわかった。キース・ヘリングの描く人型の絵はすごく簡素で、一見誰にでも描くことができるような気がしてしまうが、どんなポーズを取っている人の絵を見ても「キース・ヘリングの絵だ」とわかる点が不思議で、そしてそれこそが彼の絵の魅力だった。単純でわかりやすい表現で誰かの胸を打つ作品を生み出すことが、もしかすると一番難しいことなのかも知れない。

 それから車で長い距離を走って県内を縦断し、河口湖に行って富士山を見た。僕は近くで富士山を見たことが今まで無かったような気がするが、近くで見た富士山は、当たり前のことながらすごく大きかった。けれど、「大きいな」と思っただけで不思議とそれ以上の感情が一切湧かず、長い距離を走ってくれた友人に申し訳ないな、と思いながら隣の友人を見ると、彼もすごく退屈そうな顔をしていてなんとなく安心し、帰ろうか、と話して、ゆっくりと遠回りしながら彼の家に戻った。

 道中の車で過ごす長い時間の中で、たくさんの音楽を聴いた。僕が勧めて彼が気に入ってくれた音楽もたくさんあったし、彼が聴いていて僕が夢中になった音楽もたくさんあった。道中では疲れて聴き流してしまったけれど、今思えば、それは本当に素晴らしいことだった。

 彼の家に戻ってしばらくだらだらと過ごし、彼のお母さんが作ってくれた夕飯を食べた。お母さんは、自然の味が一番美味しいんだよ、と言っていた。そして僕はそれをいただきながら、自然の味が一番美味しいな、と思った。お腹一杯になるまで優しさをいただき、両手一杯に手土産までいただいてしまった。駅で彼と別れ、幸福な気持ちで列車に揺られて自宅に帰った。良い二日間だった。

 


 先にも書いた車中、Def techの「My way」がカーステレオから流れた瞬間があった。僕はそれを聴きながら、この人たちはこの一曲で人生が変えたんだなあ、俺もこんな曲が作りたい、と言った。すると彼はハンドルを握って前を見据えたまま、お前ならできる気がするけどな、と呟いた。

 彼がそのことを今、覚えているかはわからない。けれど、僕は日記を書いている今、そのことを鮮明に思い出した。もしかすると僕はその言葉に、これから先も救われ続けるのかも知れない。少なくとも今、僕はその言葉に強く背中を押されていて、なんだかもう、それだけで良いような気がする。

 互いに元気で、また会いたい。

 

2023年5月4日(木)

 ぐっすりと寝て起きて、朝から作曲をした。ちょっとだけ進んだ。ちょっとだけ進んだだけでも良かった、と思うことにした。

 それから高円寺に行って古着屋を回り、一目惚れした半袖のジャケットを買った。服を探している時間は楽しい。服を買うことは、もっと楽しい。もっと楽しくなりたいから、もっと服を買わなくてはいけない。もっと服を買うためには、もっと働かなければいけない。もっと働くためには、と考えたところで、結局答えはひとつだ。情けない。けれど、そうした色んなことを抜きにしても、服を買うことは楽しい。だからまあいいか。


 そうやって色々楽しんだ後で、どうしようもなく心が苦しくなってしまう出来事があった。それは自分ではない他の人に起きてしまったことだったけれど、自分ではない他の人に起きてしまったこと、ではないような気がするぐらい、心が苦しくなった。

 僕はその出来事に対して、自分に何ができるのかわからなかった。自分のせいなのかも本当の所はわからなかったけれど、自分のせいであるような気がしていた。でも僕のせいじゃない、と言ってくれる優しさと、僕のせいだと思わないでほしい、という優しさをその人が持っている、ということも十分わかっていたから、自分のせいじゃない、と思うことにした。

 けれどそれを忘れてはいけない、と思って今、日記に書いた。それくらいしかできなかった。けれどこうして書いてみて、何かを言葉にすることは、結局何一つ意味がないのかもしれないな、と思ったりした。


2023年5月5日(金)

 朝から古本市に行った。日差しが強く、暑さにやられそうだったけれど、本を見ている時間は疑いようもなく楽しかった。

 いつも不思議に思うのだけれど、僕は「穏やかに過ごす」ために、自ら進んで穏やかではない環境に足を伸ばしている、ような感じがする。本をゆっくり読みたいがためにわざわざ炎天下の中で本を探したりするし、ゆっくり映画を見たいがために、わざわざ車で長い距離を移動したりする。本を読みたいのであれば家にはたくさんの本があるし図書館もあるし、映画を見たいのであればサブスクで事足りる。けれどそうやって「穏やかに過ごす」ために自分の足を使ったり、労力を費やしている時間の中にこそ、不思議な魅力や楽しさを感じるから不思議だ。僕はきっと、そうやってこれからも生きていくんだろうなあ、と思った。


2023年5月6日(土)

 朝からバンドのミーティングをして、それから北野武の映画「その男、凶暴につき」をみた。面白かった。

 限られた時間で追われるように過ごす日々の中で、何かをしたことの「意味」を、探す癖がついてしまっているような気がする。けれどもしかしたら、何かをした意味、なんていうものを、探す必要など無いのかもしれない。僕が今日この映画を見た意味は、と問うまでもなく、僕は今日この映画を見た、それは事実としてあって、きっとそれによって僕の中に何かが生まれているはずだ、というのは割に前向きな考え方だけど、別にそうやって前向きに捉えられないとしても、それはそれで、きっと良いはずなのだ。

 そうやって思えたことが、今日この映画を見た「意味」なのかもしれない。と考えたところで、あれ、結局意味見つけてるじゃん。云々。