20230423-20230429

2023年4月23日(日)

 昼前から出掛け、買い物をした。外は晴れていて、窓を開けて車を走らせていると優しい気持ちになれた。ずっと星野源の曲をカーステレオで聴いていた。

 家に帰って、明日からの忙しない日々に向けていくつか作り置きの料理を作った。料理をしている時間はなんだか幸福だ。僕はこんなに料理が好きになるとは思わなかった。生活が苦手だ、と言いながら、それなりにちゃんとした生活を送ることができている(ような気がする)自分に、まだ慣れない。いつか唐突に、何かのきっかけで大きく破綻してしまうような危うさがあるような気がする。別にそんなことを思わなくても良いのに。

 夜は久々に、桜井晴也「僕たちが語られる時間」を読んだ。何度読んでも、そこに書かれているはずの何かを、しっかりと掴むことができない。それを自分の言葉に置き換えることなんて、到底できる気がしない。この小説は、そうした言葉で説明され得る次元を超えている、ような気すらする。素晴らしい小説だ。

 それでも、「そこには何かが書かれているはずだ」という少なからず前向きな思いが、僕を読書に向かわせる。保坂和志を読む時も、古井由吉を読む時も、僕は同じ思いの芽生えを自分の内に感じる。その思いの芽生えこそが、言葉では説明できないレベルで、自分の創作の原動力になっている気がする。

 坂本龍一は、読書から受けたインスピレーションについて問われた時に、「ありません。読書は土壌のように心の下地になっているので、直接の影響関係はありません」ときっぱりと答えた。僕はその言葉を聞いて、彼のその言葉こそが、彼の心を育てた読書の全てを物語っているのだと思った。

 何かについて語ることは、きっと、何かについて語らない、ということで初めて成し得るのだ。そしてそれを語らない、ということを語る、ということの中に、何か新しい意味が芽生える瞬間があると信じる気持ちを持ち続けていさえすれば、僕たちは自分ではない誰かに対して、もっと優しくなれるのかもしれない。

 

2023年4月24日(月)

 仕事に行った。夜は古井由吉「半自叙伝」を読んだ。言葉に重さと軽さがあるのだとすれば、古井由吉の書く言葉は簡単に持ち上げることができないほど重く、びくともしない根強さがある。その根強さがどこから来るものなのか、その絡繰を知るために、これからも彼の本を読み続けなければ、と思った。

 


2023年4月25日(火)

 仕事に行った。夜は熊谷とミーティングをした。何かきっかけがあれば無限にアイディアが出てくるが、きっかけの無い場所に何かを打ち立てるのはひどく難儀だ。なんだか最近、創作をする上で、ずっとそのことに悩み続けているような気がする。

 僕は0から1を作り上げているのではなく、0.5ぐらいから始めて1を作っているのかもしれなかった。もっと言えば、既に9ぐらいあるところから始めているにも関わらず、0から作り上げた気になっていることも多々あるのかもしれなかった。その「既にあるもの」は、ほとんどが外的な要因によるものだ。そうやって考え始めると、結局数字では何も表すことはできないように思う。

 大切なのは、数字では表すことのできない実感を確かなものとして自分の内で感じ取ることなのかもしれない。そのためにはとにかく長い時間をかけて、創作と向き合い続けることが必要なような気がするが、今日もこんな時間になってしまった。やれやれ、と思いながら、溜まっていた家事を適当に片付けて床に就いた。

 


2023年4月26日(水)

 仕事に行った。難しい問題に頭を悩ませているうちに、ただ時間が過ぎて行った。正解を見つけることよりも、正解を見つけようとするその姿勢自体が大事だ、と信じていながらも、正解を見つけなければ家に帰ることができないのだ、という事実に板挟みになることがよくある。僕は家に帰りたいから手っ取り早く正解を見つけて推し進めたが、結局その答えは間違っていたみたいだった。あーあ、と思いながら、帰った。

 


2023年4月27日(木)

 仕事に行った。夜は職場の後輩と飲みに行った。別にそこまで年齢の差は無いとは言え自分が最年長の飲み会は初めてで、会計のレシートを店員に渡された時にしばし考え耽ってしまった自分が嫌だった。格好良くありたいけれど格好悪くもありたかったし、優しくありたいけれど自分勝手でもありたかった。いくつもの感情が交差して互いを抑制し合っているのは、弱さと思われるけれど、強さでもあるかもしれないよ、とそんな話を酔いに任せて吐き出してしまったような気もして、それがまた恥ずかしくなった。

 一筋縄では行かない感情に右往左往しながら、金曜日を前にまだ人の少ない夜道を、酔いどれの足取りでふらふらと歩いて帰った。

 

2023年4月28日(金)

 休みを取って、朝から文章を書いたり、作曲をしたりした。何時間か頑張ったつもりでも、進んだのはほんの少しだった。それが悔しい、と思ったけれど、結局の所何かを作るという行為は、時間がかかることなのかもしれない。それは読書や芸術鑑賞においても同様の話で、時間をかけて作品に向き合ったり、何度も作品と出会い直すことで自分の中に蓄積される経験や感慨がある。だから時間をかけて最終的にあまり進まなかった、としても、「時間をかけた」ということ自体に価値や意味があると信じていなければ、続けていくことなど不可能だ、と思った。だから今日は、少なからず時間をかけることができた自分を褒めていたい。

 夜は映画館に行って、竹中直人監督の「零落」を観た。浅野いにお原作の漫画を僕は読んでいないけれど、表現者としての薄汚れた自尊心を傷つけられながら、目も当てられぬほど「零落」して行く主人公のその落ち方に自己を投影しながら観てしまい、俗に言えば「ぶっ刺さる」という表現になるだろうか、それが一番適切な表現に思えるほど自分の中に、その作品を観たことの意味が残り続けるような映画体験だった。

 表現者であろうとすること、あるいは表現者でありたいと願うことは、常に「零落」する危うさを孕んでいる。落ちていくことを半ば肯定し、それ故に作品に説得力を持たせる作家は数多いし、自堕落な生活を「芸の肥やし」として納得することも表現者にとっては容易い。僕も一端の表現者であることを夢見て、それに奮闘する青春の日々を送ってきた気がするけれど、そうした日々での感慨の果てに出会う自己の姿は、いつも「零落」と隣り合わせであったように思う。表現者として過度でありたい、と願うたびに、いわゆる「普通」でありきたりな日々を送る自分への自己否定感が少なからずあって、何か世界や社会に対して穿った見方でアプローチできないだろうか、と思考を巡らすことそれ自体が、自分の生活を自堕落なものに変えてしまった時期も、これまでの人生で何度も経験してきたように思う。

 小綺麗な生活よりも過度に傾いた生活を作品世界に投影している作品の方が純でひたむきなものとして受け取られるのは、そこにある一定の「暗さ」があるからだ、と思っていた。それはあらゆる芸術作品が人間を愉しませるために作られていて、その受け取り手である人間それぞれが、自分で意識できているかいまいかは関係なく、押し並べて皆自己の中に「暗い」部分を抱えた存在であると思うからだ。常に「明るい」人間などおらず、皆それぞれが、自分にできないことに悩む瞬間や、自分を卑下する暗い感情を携えながら生きている。だからそうした感情への慰みや、救済の手段としての芸術作品の中には、「暗さ」が無ければ嘘だ、と思って、自分の中に光の当たらない影の部分を見出そうと躍起になり、どんどん自堕落な生活に向かって行ってしまうのは、表現者が作品に対して純粋であればあるほど、避けられないことなのかもしれない、と思う。

 けれど僕がこの映画を観て思ったのは、そうした「暗さ」にばかり執着して自堕落な生活を送ることが作品に価値を与えるわけではない、ということだ。「暗さ」があるということは「明るさ」もあり、その表裏の関係が担保する「深さ」が、作品世界には求められているはずなのだ。「明るさ」だけでは生きていけないのと同様に、人間は「暗さ」だけでも生きていくことはできない。人間はそうした「深さ」をそれぞれが持っているのであって、内の中にあるそうした深度を作品世界に克明に描き出すために、作家は「暗さ」だけでなく「明るさ」も知っていなければいけないのも考えてみれば当たり前の話だ。そうした絶妙なバランスの「明るさ」と「暗さ」を、作品という容れ物に不足無く存分に注ぎ込むために必要となる「深さ」が、そのまま作品の価値、と呼べるのでは無いだろうか。

 

 この作品は、僕に「明るさ」の大切さを気付かせてくれた意味で、僕にとって深い芸術体験になった。原作の浅野いにおや、監督の竹中直人は、どうやってこうした深さに辿り着くことができたのだろうか。きっとそこにはたくさんの芸術体験や、自身の人生でのあらゆる経験があるはずだ。僕は今朝、創作がほとんど進まなかったことに悔しさを感じたけれど、そうした一つ一つの感慨に時間をかけて向き合うことが、自分の作品という容れ物に深さを与える唯一の手段であると信じてこれからも生きていきたい、と大真面目に考えながら、主題歌のドレスコーズをカーステレオで流し、暗い夜道を走って帰った。

 

2023年4月29日(土)

 色々な事情があってスポーツ観戦をはしごした。昔は大好きだったのに、ここ最近は全然スポーツ観戦をしていないなあ、と思う。今では当たり前のものとして定着した自分の生活が、実はいつからか、何かのきっかけで変わってしまったものだ、と気付く瞬間は、普通に生活していると数少ない。球場で打球の行方を追いながら、こうした生活が当たり前の人もいるのだ、という、すごく当たり前のことを考えていた。

 何を理想として生きているかは、人によって違うのだ。そしてその理想は、決して生まれ持ったものではなくて、それぞれの人生の中で自分で選択していくものだ。僕は別に、仕事をしながらこうして毎日日記を書いたり、曲を作ったりする人生を選ぶ必要なんてなかったはずなのだ。それなのにいつからかそうなってしまって、その生活の中で悩んだり、壁にぶつかったりしてもがいている。もがく必要も無いのに、ただもがいている。悩む必要なんて無いのに、ただ悩んでいる。それが時々、阿呆らしく思えてしまう。


 そんなことを考えながら、帰り道にヘッドホンでサニーデイ・サービスの歌を聴いた。曽我部恵一の歌詞と優しい歌声は、僕のこころの柔らかい部分をそっと、けれど力強く抱きしめてくれた。いろいろ思ったけれど、結局僕はどこかのタイミングで、音楽に救われるしかなかったのかもしれない。帰り道だけ追い風に感じられた春の強風に背中を押されながら、家に着いたら少しだけでも曲を書こう、と思った。