自分の感受性くらい

 忙しない毎日が続いた。「忙」という字は「心を亡くす」と書くが、字の通り、仕事で忙しくしていると何かを美しいと思う感情も、人の優しさを愛おしく思うことも、簡単に見失ってしまうような気がする。やっとのことで仕事を終えて家に帰ったところで、米を炊き、決して美味くも無いコンビニの惣菜をかきこみ、洗い物をして風呂に入って、だらだらとYouTubeを見ている隙に、既に夜は明日に向けて動き始めている。そうして何も果たしていない自分に嫌気が差し、時が過ぎていることすら忘れてしまおう、と自棄になって布団に潜り、無理やりに目を閉じても、夢の中でも時間やタスクに追われていることに気付く。何かを思い通りに忘れることはできない。忘れたいことより、忘れたくないことを増やさなければ、自分の心はいつの間にか乾き切ってしまうのではないか。よくよく考えてみれば、「忘」という字も「心を亡くす」と書くから不思議だ。


 幸せというのはきっと相対的なもので、人は自分の中だけで幸せを実感することはできない。だからこそ周りの人と語り合い、感情を共有することで幸せを見出せる、と信じて生きているが、ある特定のコミュニティで過ごす時間が長ければ長いほど、そこでの幸せのあり方が、いつしか自分の日々の幸福の全てへと成り変わってしまう恐れがある。仕事は自分の人生にとって二の次で、本当はもっと大事なことがある、と信じてはいるけれど、時間というものは本当に残酷で、そうして別の豊かさを信じる自分と比較して心を亡くした自分でいる時間の方が長くなると、いつの間にか自分の幸せのあり方全体が、心を亡くした自分の方に強く引き摺られてしまう。それでも自分では「心を亡くしている」とは気付かなくて、気付かないからこそ自分の中で、その力に抵抗するために必要な体力を捻出することすら、できなくなってしまう。というか、単純に疲れ果ててしまった。ここ最近はずっと、そんな感じだった。

 

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 先週の金曜の夜、ふと思い立って仕事終わりに一人で映画を観に行った。アンドリュー・ヘイ監督の『異人たち』という映画で、僕はその監督の作品をかねてから愛してやまないのだが、その日が公開初日だった。現実と非現実が往還し、生と死の境で描かれるその映画は、本当に素晴らしい作品だった。僕はその時、誇張でもなんでもなく「こんなに美しいものがこの世に存在しても良いのだろうか」と思った。エンドロールが終わって映画館を出て、駐車場から車を走らせながら眺める夜道は、いつもよりも明らかに美しく思えた。仕事で犯したミスや、苦手な人の顔など、すっかり忘れていた。というより、そんなことを思い出す暇も無いほどに、僕はその映画から受け取った美しさの中にその時、生きていた。

 今になって思えば、きっと僕はその映画自体の美しさに感動していたわけではなく、僕がその映画を見て「美しい」と思えた僕自身の心の方に、感動していたのではないだろうか。自分が「美しい」と思える映画に出会い、その後の自分の目に映るすべてが美しく思えるーーそんな瞬間を、そんな瞬間の中だけで生きていた学生時代とは明らかに異なる感触で、僕はその時、確かに生きることができた。先の表現に即して言えば、その時、僕の中の「美しさ」を感受できる僕が、心を亡くしていた今までの自分に打ち克ったのだ。素晴らしい作品は、いつもこうして僕の中の僕を、僕が「こうありたい」と思う僕の方に、力強く引っ張って行ってくれる。


 そうして僕自身が心を豊かにされたことと同じように、僕も誰かの心を豊かにする手助けができるのだろうか、と思う。昨日の夜、僕が好きな本の一節をお勧めした時に、すぐにそれを読んで、「すごい」とラインを送ってきてくれた人がいた。僕はそのラインを見た時に、なんだかすごく幸福な気持ちになった。僕にとっての幸せは、きっとこうして育まれていくのだろう。自分が思う美しさを、誰かが美しいと思ってくれた時、そこに幸せが芽生える。それだけを信じて生きていれば良いのかもしれない。


 そうやって思ったことも、忙しくしていたら簡単に忘れてしまうだろう。だから絶対に、心を亡くしてはいけないのだ。自分の感受性くらい、自分で守れ、ばかものよ。明日はなんとしても、定時で上がろう。