20230122-20230128

2023年1月22日(日)

 朝起きたら、身体がすごく軽かった。きちんと休んでいる成果だと思った。「きちんと休む」というのは、意外と難しいことだ。身体を休めているつもりでも、ずっと寝たまま本を読んだり、YouTubeを見たりして過ごしていると、頭や目が徐々に強張り、その強張りが身体全体にも及ぶ。思考の疲れが、身体の節々に滲んでくる。無理をしない程度に近所を散歩したり、過度ではない家事をしたりしている方が、意外と身体も休まっているということもある。食事もしばらく気をつけていて、毎日うどんを食べたり、脂の少ない鶏肉を食べたり、温かいお茶を飲んだりしていたら、少しく胃腸の調子も良くなってきた気がする。和食は偉大だ。こうして体調の変化を実感すると、逆にこの生活から離れることが怖くなってしまう。また口一杯にハンバーガーを頬張ったり、ビールをジョッキで飲んだりできるのだろうか。きっとそんな心配は無用だし、まだそんなことを考え始める年齢でもないことはわかっているのだけれど。

 

 ルイ・ガレル監督・主演の「パリの恋人たち」を見た。「フランス流、大人のラブストーリー」と映画の説明欄で謳われていたが、どこが「大人」なのか、見ている間ずっとわからなかった。大人とは何なのだろうか。誰かの存在を強く求めたり、逆にひどく疎ましく思ったり、そうして誰かに一心に自分の情を捧げることは、そのアプローチの仕方は経験や価値観で変化するとはいえ、年齢を重ねても気持ちの面で大方変わることはないのではないか。自分という存在は確固として揺らぐことがない、と信じていても、結局人と関係する中で誰もが日々変化してしまう。その自身の変化に耐えきれず、誰かに強く当たってしまったり、深く傷つけてしまったりする。それが嫌になって一人でいることを選んだとしても、結局誰かとの出会いを心のどこかで求めてしまう。自分の未熟さや経験の浅さを棚に上げて、あくまで自分の実感に則して言えば、そうした繰り返しが人生だ、という気が何となくしている。それでも、その繰り返しの一部だと自覚しながらも、情熱的な愛に突き動かされる瞬間はどれだけ月日を重ねてもきっとある。それは決して「大人な」恋愛ではないかもしれないけれど、そこで育まれる何かは、誰が何と言おうとその人にとって美しい。いや、あるいはその人にとって美しくないとしても、その愛が生まれたということは、それだけでただ美しい。そう信じていたい。それと同じように、この映画が美しかったか、美しくなかったか、そういうことを問題にする前に、この映画が生まれたということだけで美しい、という心の持ち方があっても良いのかもしれない。

 

 夜はYouTube平野啓一郎の基調講演「文学は何の役に立つのか?」を聞いた。昨今の世情を踏まえて文学の意義を問い直す、素晴らしい講演だったけれど、なんだかすごく疲れてしまって、三笘のかっこいいゴールをYouTubeで見た。三笘のシュートはすごくかっこよかった。三笘がかっこいいのは、真剣にサッカーをしていて、真剣にゴールに向かっているからだ。僕も何かに真剣に向き合おう、と思って、その後に古井由吉の対談集成「連れ連れに文学を語る」に収められている養老孟司との対談を読んだ。読んでいる間、僕はピッチのあらゆるスペースに目を光らせる三笘みたいに、眉間に皺を寄せ続けた。ちょうど45分ぐらいの時間、僕はそうして文字を追い続けた。対談が終わり、脳内で試合終了の笛が鳴り響く。読み終えた本を閉じ、僕は悠然と天を仰ぐ。難しくて全然わからなかった。

 

2023年1月23日(月)

 朝起きたら首を寝違えていた。いや、厳密に言うと目が覚めた瞬間に、首を寝違えた。それは寝違えたと言うのだろうか。痛めた理由は明白で、昨日枕を新調したからだ。新しい枕で眠ることを楽しみにしていた昨日の自分と、起きた時に絶望している今の自分の気持ちの落差は、自分のことながら不憫に思えて仕方なかった。鬱屈した気持ちで机の前に座り、パソコンを開いた。


 家で仕事を終え、熱を測ったらまた微熱だった。体温計を見て何もかも嫌になって、首を安静にするためソファに横たわりながら「孤独のグルメ」を何話か見た。松重豊扮する井之頭五郎がただ飯を食っているだけのドラマが、なぜこんなに胸を打つのだろう。そして登場する料理はことごとく、美味しそうだ。仕事で不憫な出来事に遭遇するたびに井之頭五郎が独語する、「やれやれ」という声を聞いていたら、僕が首を寝違えたことも、微妙な体調不良が続いていることも、自分が落ち込んでもしょうがないことのような気がした。どう足掻いても防ぎようがないことはきっとたくさんあって、それにいちいち胸を痛めていたら、心が持たない。それよりも「飯が美味い」という、ただそれだけで良いのかもしれない。そう思って、いつもより多めに食材を買ってきて夕飯を食べた。それらはすごく、美味しかった。


 気付いたら熱は引いていて、首の痛みも幾分か和らいだ気がした。スマホでネットニュースを見ると、見る者の不安を煽るように「今季最強寒波」の文字が踊っている。明日からまた、一段と寒くなるらしい。やれやれ。

 

2023年1月24日(火)

 仕事に行った。久々に忙しなく仕事に耽った。食い入るようにパソコンの画面を見つめていたら、限界まで負荷の掛けられた機器が熱を帯びるように、夕方ぐらいに身体全体に微熱を感じた。残った仕事を急いで片付けて退勤し、真っ暗になった夜道に出ると、少し火照った体を冷ますようなひんやりとした空気の中、ヘッドライトの向こうで雪が降り始めていた。

 僕は雪が好きだ。積もった雪ももちろん好きだけれど、それより今まさに降っている雪、が美しい。雪の美しさのことを考えていると、その性質とは裏腹に、なぜかあたたかい気持ちになってくる。布団から起き上がるのも億劫な朝、眠い目を擦りながらカーテンを開けた時に窓の向こうで降っている雪は格別だ。それは雪が、空からゆっくりと降ってくるからかもしれない。空から降ってくるものの中で、ゆっくりと降ってくるものは雪だけだ。雨や霰が地面に叩きつけるように降ってくるのに対し、雪は風に揺られながら、曇天の空からゆっくりと舞い降りてきて、音も無く地面に積もっていく。そうした景色を窓越しにじっと眺めていると、自分の生きている世界に流れている時間が緩やかになったような感覚になる。いつもはけたたましい騒音が鳴り響く車道も、甲高い笑い声のひしめく通りも、束の間雪に音を吸い込まれ、静けさを取り戻す(単純に人や車の往来が少ないからかもしれない)。そう考えてみると、僕は雪が好きというより、雪の降った町、が好きなのかもしれない。いずれにせよ、雪を見るとあたたかい気持ちになることは確かだ。

 ニュースを見ると、雪による電車の立ち往生で帰宅困難者が出ていたり、凍結によるスリップ事故が多発しているらしい。僕は雪の美しい面ばかりを見ていて、残酷な一面に遭遇したことはこれまでの人生でまだない。それはすごく幸運なことなのだろうと思う。何事にも良い面と悪い面がある、と知った時、僕らはそれを見て、一体何を思えば良いのだろうか。

 

2023年1月25日(水)

 身体が芯から凍てつくような寒さで目が覚めた。昨日雪のことを書いたからか、何だか外には雪が積もっているような気がしてカーテンを開けて見たけれど、雪は積もっていないどころか見る影もなく、空は突き抜けるように晴れ渡っていた。澄んだ空気の先で早朝の陽光が美しい山並みを照らしていて、僕は暖房のスイッチを入れ、部屋が暖まるまで窓越しにその景色を眺めた。これはこれで素晴らしい。僕はただ、冬の朝が好きなだけかもしれない。ようやく部屋が暖まってきたところでまた眠気がやってきて、もそもそと布団に潜り起きているのか眠っているのかわからないような時間を過ごしているといつの間にか始業の十五分前になっていて、身支度もせずにパソコンを開き、準備万端といった表情を取り繕って出勤の連絡を入れた。

 家で仕事を終えてもう一度窓の外を見ると、あたりは既に真っ暗だった。いつも思うのだけれど、平日の時間の中で仕事以外の何かを書こうとすると、眠い朝に見た景色のことや、疲れ果てた夜に絞り出したような感慨にどうしても限られてしまう。一日はそれなりに長いはずなのに、一番活動的に生きている時間についての記述だけがすっぽりと抜けてしまう。それは勿体無いような気もするが、だからこそ逆に限られた時間のあれこれをじっくりと見つめて、書けることがあるのかもしれない。ゆっくりと静かに流れていく時間の中で何かを書くのが良いのか、数分単位で切り詰められた時間の中で急き立てられるように何かを書くのが良いのか、それはわからないけれど、どちらにせよポジティブな面を信じて日常を見つめていくしかない。時々、疲れてしまうことはあるけれど。

 

 友人のブログで、僕の書いた歌が紹介されていた。それがすごく、嬉しかった。友人は言葉に対してどこまでも貪欲で、何かを思ったらそれを言語の構造のレベルにまで深めて考えてしまうような男だ。彼の文章には、僕の言葉には無い強さがある。僕が周囲の目を気にしながら、誰にも聞き取れないほどの声でボソボソと呟いているのに対し、彼の言葉からは大講堂の教壇に立ち、腑抜けた生徒の一人一人を更生させてしまうようなエネルギーがみなぎっている。こうした友人がいることは、本当に心強い。時に世情に流され、言葉が上滑りしていくような現状を是と捉えざるを得ない場面に遭遇してしまう社会の中で、彼のように「それは否だ」と地に両足をつけて叫んでくれる人は絶対に必要だ。効率重視の風潮に背突かれながら言葉について深く考えるには、時間があまりに足りない。けれど、そんな時代だからこそ言葉について真剣に向き合う必要があるのだ、と、頭をぶん殴られるような気持ちになることが、時々ある。

 何だか褒め過ぎてしまったようだ。よく考えたら、そんなにすごいやつでもないかもしれない。次に会った時は、思いっきりぶん殴り返してやりたい。

 

2023年1月26日(木)

 仕事に行った。朝からずっと眠かった。うつらうつらと仕事をしていたら、同僚の先輩から「忘れっぽいね」と言われた。言われてみると確かに、仕事を始めてからか、どんどん自分の物忘れを実感する場面が増えた。最近は兎にも角にも、覚えなくてはいけないことが沢山ある。「忘れたくないこと」より、「忘れてはいけないこと」ばかりが、日に日に脳内を埋め尽くしていく。もし記憶に容量があるのだとしたら、本当は僕は「忘れてはいけないこと」より、「忘れたくないこと」の記憶を増やす日々を送っていたい、とつくづく思う。きっとみんな同じだ。

 僕は「記憶」というものがよくわからない。何かを覚えるということがどういうことなのか、考えてみてもよくわからない。それを脳科学的に解析している人はすごい。少しだけ気になって調べてみたけれど、神経系の回路とか、パターンの認識とか、難しいことが書いてあってよくわからない。というか、そもそもそれを読んだこと自体が、僕の中で「記憶」にならない。興味の無いことは覚えられず、興味があることは覚えられる、と単純に理解することは容易だけれど、そう簡単な問題でもない気がする。ではどういうことかと言うと、何かを覚える時、僕はその記憶を、自分の中で何かしらの手触りを持ったものに変えて知覚することでしか、それを脳内に留めておくことができない、というような気がしている。

 その「何かしらの手触り」には、いろいろな形がある。たとえば僕は先に、先輩から「忘れっぽいね」と言われた、と書いた。僕はこうして日記を書き始めるまで、そうやって言われたことをずっと忘れていた、と思う。最初の一文を書き始めて、「眠かった」ということを思い出して、そこでやっと初めて先輩から「忘れっぽいね」と言われたことが、記憶として甦った、あるいは、新たに生成された、とでも言えば良いだろうか。日記を書くという能動的な行為の中で、忘れていたことを思い出したり、思ってもいなかったことを思い始めたりしている。そうして初めて、僕の中に記憶が、手触りを持った実感として残る。僕がここで文章を書き始めなければ、今書いてきたようなことは僕の中で何一つ思い出されることもなく、考えられることもなく、ただただ死んでいってしまうだけだったような気がする。

 こうして文章を書いたり、誰かと話したりする時間を通して、そうした記憶を自分の中に生起させることを、僕はどこかで望んでいるのかもしれない。いや、別に僕は「忘れっぽいね」と言われたことを記憶に甦らせたいわけではない。結局僕が言いたいのは、何かが記憶になるためには、それを自分なりのフィルターを通して見つめ直さなければいけない、ということで、そうした行程を無視して何かを自分の中に留め、この先の人生に活かしていくことはできないのではないか、ということだ。過ぎていく時間を確かな手触りを持って捉え直しながら生きていくために、僕はこれからも、こうして何かを考えながら文章を書く時間や、逆に何も考えずに誰かと話す時間の一秒一秒を、大切に思っていたい。

 


 夜はバンドのミーティングがあった。始まってすぐに小竹が仕事に呼ばれ、ZOOMの向こうで別のパソコンに向かって仕事の打ち合わせを始めた。僕と熊谷はそれから二時間ぐらいの間小竹を待ちながら、すごく真剣に、なんでもない話をしていた。僕は何故だか、ゆっくりと通り過ぎていったその時間に人生の素顔を見たような気がした。そう伝えたら、熊谷も同じことを言っていた。可哀想だから、小竹にも見せてやりたい。

 

2023年1月27日(金)

 家で仕事をした。定時で上がって髪を切りに行った。1ヶ月前にかけたパーマがもう落ち始めていて、なんでですかね、と美容師に聞いたら、うーん、いろいろな理由がありますね、と言われた。きっといろいろな理由があるのだろう、と思って、それ以上聞くのはやめた。美容室を出ると、傘を差すか差さないか迷うぐらいの、雨か雪かわからないぐらいの、雨か雪が降っていた。僕は傘を差したり、差さなかったりしながら、駅に向かった。

 いろいろな本を読みながら電車に乗って、世界堂に行っていろいろな物を買ってきた。それから家に帰って、いろいろなことをした。気付いたら時間が過ぎていて、いろいろなことを思ったはずなのに、こんな日記になってしまった。まあ、いろいろな日があっても良いか、と思った。

 

2023年1月28日(土)

 朝からバンドメンバーとラジオの収録をした。夜に公開するラジオを朝録っていたから、朝なのに夜みたいな気持ちになった。収録が終わって窓の外を見てみると、まだ全然朝だった。

 

 今日もまた世界堂に行って、MV撮影のための画材を購入した。昨日失敗した分の補充だ。家に帰ってから日が暮れ始めるまで、ずっと制作をしていた。

 何かを作るたびに、いつもどこまで作品に対して真摯に、手を抜かずに向き合えば良いものか、わからなくなる。時間に限りがある場合は、ある程度のところで手を抜く、あるいは自分の執着心に対して折り合いをつけることが否が応でもできるが、時間がしっかり与えられている場合、それはもう自分の体力や、集中力との戦いになる。当たり前のことだけれど、集中して取り組まなければ良い作品はできないし、眠い目を擦りながらうつらうつらと創作したものは大抵駄作になる。僕は天才ではないから、日々呼吸するように何か新しい価値のあるものを生み出せるわけでもなく、何かを作るにはやっぱりそれ相応の体力が必要になる。今日は最後の最後まで粘ったつもりだけれど、実際に出来上がったものを見たらまだまだ粘りが足りない、と思うかもしれない。毎回その繰り返しだ。追いかけても追いかけても、簡単に理想には手が届かない。

 けれどだからこそ、追いかけ続ける意味があるし、そうした時間は疑いようもなく楽しい。そう考えると、どこまで頑張れば良いか、なんて考える必要もないのかもしれない。ただ自分の求める理想を追い続けて、置かれた状況と環境の中ででき得る限りの努力を一つ一つ積み上げていく。そうした先に生まれた新たな理想と向き合いながら、また自分の限界を一歩ずつでも更新していく。それが何かに繋がっていると信じて、これからもやっていくしかない。こうしたことに気付けたことも、今日僕が創作を頑張った証かもしれない。今日は少しだけ、自分を褒めることができてよかった。