20230702-20230708

2023年7月2日(日)

 朝起きて、洗濯をしてから暫く作曲をして、昼過ぎから出かけた。外は肌がじりじりと焼けるほどに暑かったけれど、朝から色々なことができたからか、暑さすらも少しだけ快く感じた。

 インテリア用品店に行って、風で洗濯物が動かないようにするために物干し竿に付けるフックを買った。家に帰ってからそれを一つ一つ丁寧に物干し竿に取り付けて、乾き切っていないいくつかの洗濯物をそれに掛けてみると、適度な距離感を保ったままそれらの洗濯物が風に揺れ、たなびいていた。僕はそれを眺めながら、何とも言えず幸福な気持ちになった。

 幸せとは、きっと思いもよらず近くにあるものだ。それを見つけられるか、見つけられないかは、自分自身の心の目に委ねられているのだ。良い休日だった。

 

2023年7月3日(月)

 仕事に行った。

 僕が好きなことを同じように好きでいてくれる人と、同じようには好きでいてくれない人がいる。それはすごく当たり前のことなのだから、好きなものが近しくない人同士でも互いを尊重し合う心持ちが大切だ、と思うけれど、限られた人生の時間の中で何を選択して生きていくか、と考えた時に、誰かが好きで自分が好きではないことに時間をかけることに苦痛を感じてしまう場面が、僕はしばしばある。

 みんなある程度はそうしたことに堪えながら社会生活を送っているのだ、と言われればそれまでなのだけれど、僕は自分がしたいことに向かうエネルギーが人に比べて強すぎるのかもしれない。なんだか良いように言っているけれど、要は人に比べて我が儘だ。それは自分でも自認している性質なのだが、一応それをひた隠そうとする社会性も持ち合わせているつもりではいて、その上である程度我が儘でいないと自分が大切にしている何かを守ることができない、と感じる場面があまりに多い。もっと沢山の本が読みたいし、良い映画を観たい。沢山作曲がしたいし、文章を書きたい。お金の使い所で言えば、もっと服を買いたい。そう考えると、人の悪口で盛り上がるような飲み会に行っている時間も金銭的余裕も、僕には無い。

 ただこうして書いている一方で、結局素晴らしい作品を生み出すことのできる人は、どのような状況に置かれてもそれを創作に還元することができるのだ、と思う気持ちもある。そして何のために本を読んだり、映画を観たりしているのか、と問われれば、僕はよく、自分とは異なる知見に出会って自分自身と深く向き合うためだ、と答える。もしそれが本当であるとすれば、行きたくない飲み会に行ってそれが「嫌だ」と思うことを通してこそ、自分の本質に出会うことができる、と信じることもできるだろう。それができないのであれば、ただ怠惰に面倒なことから逃げているだけだ。面倒だと思うことの中に、もしかしたら自分を成長させてくれる何かが隠されているのかもしれない。

 思うままに書き連ねていたら、なんとなく行きたくない飲み会に行くことも悪くないような気がしてきた。というか無理矢理、それをポジティブに捉えようとする文章を書いていたような気がする。結局何事も、真理に近づく近道などない。誰かが好きで自分が好きではないことに時間をかける、そんな自分のあり方を自分で許容する度量を持つために、僕は今日こうして日記を書く必要があった、のかもしれない。とはいえ、考え過ぎて疲れた。

 

2023年7月4日(火)

 仕事に行った。

 帰りにポッドキャストで、「ラジオ版 学問ノススメ」の堀江敏幸さんの回を聴いた。もう何度聴いたかわからない。何をしていても気が付いたら再生していて、もはや語られている内容を暗唱できるぐらいにまでなってしまった。

 語られていることは全て示唆に富んでいて、隅々まで際限の無い優しさで充溢している。どうしてだろう。こんな語り口で何か言葉を紡ぎ出すことができたら、と、ラジオから流れる穏やかな口調を耳にするたび、また流麗で繊細な彼の文章に触れるたびに、心苦しい気持ちにもなる。

 僕は自分勝手で、我が儘だ。そう実感することが、最近すごく多い。他人に合わせる姿勢を見せているようでいて、結局は自分で自分のあり方を固持できない弱さの原因を他人になすり付けているだけだ。それは結局の所、優しさではない。「優しいね」と言ってくれる人は、その人の視線のそれ自体がきっと優しいのだ。だからこそ僕は、もっと沢山の作品に触れて、色々な人と話をして、自分自身を真っ直ぐに見つめていかなければいけないのかもしれない。そうやって、背筋を正される思いがする。そしてそれと同時に、焦って正解やゴールを導き出そうとする自分を落ち着かせてくれる懐の深さも、彼の言葉からは感じられる。だから僕は何度も、あらゆる人生の選択に迷うたび、このラジオを聴いてしまうのかもしれない。

 「これまでで一番思い出に残る先生は誰ですか」という質問に対し、堀江さんは、別に何度も会っていない人でも先生になることはあり得る、例えば何度も繰り返し観た映画や、読んだ本について、「これが先生だ」という言い方をしても良いのではないか、という趣旨のことを仰っていた。僕はそれを何度も聴いて、いつもこのラジオこそが僕にとっての「先生」なのではないか、と思い続けてきた。面と向かって話をしたことはないけれど、こうして離れた場所で声を聴いているだけで、彼の語る言葉は僕の中に、澱のように積もり続けている。本にしてもそうだ。僕はそうやって今まで助けられてきたし、これからもきっと、助けられながら生きていくのだろう。

 ラジオや本に触れて自分が受け取った誰かの言葉を、僕は僕なりの言葉で、誰かに受け渡すことができるのだろうか。自分が何を運んでいるのかーーそんなことはわかるはずがない。けれどわからないなりに、何かを運んでいるという実感を確かに感じながら、運び続けるという行為の中にこそきっと意味があるのだ。そうやって信じてみても良いのかもしれない。

 昨日はあんなに雷鳴が轟いていたのに、今日の夜は嘘みたいに静かだ。それはもしかすると、僕の心の持ちようなのかもしれない。

 

2023年7月5日(水)

 仕事に行った。それから夜は職場の人たちと飲みに行った。楽しかったけれど、21時過ぎに一軒目のラストオーダーが来て、それから二軒目に行こうか、という話になり、右に行けば二軒目、左に行けば駅、という道の分岐に立たされた時に僕はちゃんと左を選んだ。そこで左を選ぶ、ということを今までの僕は「逃げ」だと思っていたけれど、そこで右を選ぶという受動的な姿勢こそが逃げだ、という考え方に少しずつ変わってきた。そこで右を選ぶ人は、あくまで能動的に右を選ぶべきなのだ。だから僕はそれを頭で考えて、「ちゃんと」左を選ぶことができてよかった。

 けれど今考えてみると、酒を飲んだらいずれにせよ「ちゃんと」考えることなどできなくなるのだから、別に僕が左を選んだことが良かったかどうかなんて考えること自体が間違っているのかもしれなかった。酒を飲む、ということはきっと「間違える」ことと表裏一体で、みんな間違えるために酒を飲んでいるのかもしれない。だとすれば僕はちゃんと酒を飲むことができていなかったのかもしれない、なんてことをうだうだ考えている今、自分がちゃんと考えられている、という確証を持つことなんて本当にできるのだろうか。

 

2023年7月6日(木)

 仕事に行った。遅くまで、と言っても20時過ぎぐらいまで仕事をして、家に帰ってから明日の出張の支度をした。支度をしながら、普通のサラリーマンみたいだなあ、と考えていた。普通のサラリーマンなのだから普通のサラリーマンみたいなことをしていることは仕方のないことなのだけれど、なんだかそれが急に悔しくなって、機内に持ち込むバッグの中に文庫本を一つ忍ばせてみた。それだけで僕は満足した。

 これがもしKindleだったら、僕はきっと満足することはできなかっただろう。物を大切にするということ、あるいは何かを好きでいることとは、とどのつまりこういうことなのだろう、とぼんやりと思った。

 

2023年7月7日(金)

 出張で松山に行った。夜は先輩と道後温泉に行って、それからたくさん酒を飲んだ。坊ちゃんビールとマドンナビール、という名称のビールがあって、マドンナビールってなんだ?と言われたから夏目漱石の坊ちゃんに出てくるヒロインの名前ですよ、と答えたら、よっ、文学部!と言われて、少しだけ嬉しかったけれど、こんな所で少しだけ嬉しくなるために本を読んでいるわけでは無いのだから、それで少しだけ嬉しくなってしまった自分が後からすごく情けなく思えた。

 

2023年7月8日(土)

 仕事は昼からだったから、それまで愛媛県立美術館でコレクション展をみた。展示会場に来ていたのは僕だけで、座っている監視員がずっと僕のことだけを見続けていた。僕は展示作品を見ながらずっとその監視員の視線を感じ続けていて、もしそこにある作品が作者と作品の間ではなく、僕と作品の間の視線の間にこそ立ち上がるものなのだとすれば、作品を見ている僕、を見ている監視員の視線、の間に広がっている空間に立ち上がるものは一体何なのだろうか、とか考え始めると、全然作品に集中できなくなってしまった。美術館にはある程度人が居た方が良いかもしれない。

 仕事が終わって、飛行機で東京まで帰った。窓側の席だったから窓の外がよく見えた。外は曇り空で、飛行機は雲の上や下を交差するように飛んでいた。僕は飛行機に乗ったり新幹線に乗ったりする時、自分がそこにいる、という実感をうまく掴むことができない。だから少しだけ不安になる。それは自分がそこにいることができている仕組みを、自分の頭でよく理解できていないからなのだと思う。それはきっと人間関係においても同じで、社会の中で今自分が誰かと話しているのはどうしてなのだろうか、ということの仕組みを手触りを持って知ることでしか、自分の立ち位置を明確に見ることはできない。別に明確に見る必要など無いのかもしれないけれど、明確に見ることでしか解消できない不安があって、その不安を取り除いてこそ本当のコミュニケーションが成り立つのであれば、ちゃんと仕組みを理解して明確に見る、ということに努めた方が良いことは確かだ。

 僕は自分の理解が及ばない場所にいることが怖い。だから飛行機が怖いのだ、と思った瞬間に、少しだけ何かを理解できたような気がして、不安が薄れたような気がした。着陸体勢に入った時に窓の外に見えた夜景は綺麗だったけれど、あの光り輝く一つ一つの窓の向こうで何か凄惨なことが起きている可能性もあるのだし、もしそうだとすれば夜景が綺麗だ、と思った僕の考え方はすごく浅はかで、阿呆らしいもののように感じられた。そう考えるとやっぱり、明確に見る必要のないものもあるのかもしれない、と考えていたら飛行機が大きな音を立てて着陸し、ベルト着用サインが消え、また当たり前のような日常に帰ってきてしまった。