20230528-20230603

2023年5月28日(日)

 六本木にある21_21 DESIGN SIGHTに「The Original」という展示を見に行った。toogoodの作品が展示されている、と聞いたことがきっかけだったけれど、他の作品も日常目にする物でも新しい発見が多く、壁に書かれた充実した作品の説明文も相まって、得ることの多い展示だった。

 何かの起源を問う、遡るという姿勢は、デザインというものの本質を克明に照らし出す。もはやデザインだけがその創作物の価値と思われている物でも、その物が当初生み出される瞬間には作られる目的があり、作家自身の願いが込められている。そうした原点に触れることで、普段当たり前のように目にしている物がより愛おしくなったり、輝きを放つようになる。「豊かに生きる」ということは、何かそうした物の起源に目を向け、意を注ぐことから始まるのではないか。当たり前となっている景色をもう一度見つめ直し、その意味を問い直すこと。そうすることで世界はもっと鮮やかに、彩り豊かに生まれ変わるはずだ。

 そしてあらゆる創作物が既に生まれた後のこの世界に、自分自身が創作者として何かを生み落とすためには、そうした先人たちの願いの軌跡を見つめる姿勢が必要なのかもしれない。オリジナリティとは、決して無から何かを生み出すことではなく、既にそこにある物を見つめ直し、自分なりの捉え方で噛み砕き、再定義することなのかもしれない。

 そんな風に背筋を正される思いがした。良い展示だった。

 

2023年5月29日(月)

 仕事に行った。今日は父親の誕生日だった。おめでとう、とラインを送ると、疲れを感じやすくなった、と返信があった。その文面を見て、肩でも揉んでやりたい、と思ったが、当たり前のことながら、実際に会わなければ肩は揉んでやれない。

 連絡はいつでも取れるけれど、それは連絡を取れる、というだけだ、ということを、僕はどれだけ本当の意味で理解できているのだろうか。身の上に起きたことを電話で話したり、文字のやり取りをすることでなんとなく近しさを感じてしまうけれど、どれだけ連絡を取り合ったところで本当の距離は埋まらない。会わなければ意味が無い、というか、話をしているようでいて、本当は何一つ話すことなどできていないのかもしれない、と思う。会って初めて話せる、とそんな思いが去来してきて、なんだか急に寂しくなった。

 僕はラインで、「近々遊びに行くね」と打った。そうやって紋切り型みたいな言葉を送る前に、別に遠い距離でも無いのだから、会いに行けば良いのだ。けれどこうやって思ったことも、いつも簡単に忘れてしまう。日記に書けてよかった。

 

2023年5月30日(火)

 仕事に行った。

 職場でなんだか色々なことを考え込んでしまって、帰ったら何よりも先ず、抱いた思いの全てを日記に書き起こそう、と心に決めていたのだけれど、不思議なもので、こうして家に帰り着くと、書くべきことなんて何も無かったような気がしてくる。あんなに昼間から考え込んでいたはずなのに。

 「何かを考える」ということは偶発的なもので、いざ考えよう、と思っても考えられるものではない。どれだけ環境を整えたり、辛い経験をしたりしたとしても、考える時は考えるし、考えない時は考えない。体調でもなく、きっかけでもなく、それは本当に突然やってくる。思考自体が捉え所の無いものだから、それを然るべきタイミングで無理やり捕まえよう、と思っても土台無理な話だ。

 ただこうして書いていてなんとなく思うのは、思考とは、何かしらの「運動」を必要としている、ということだ。一歩前に進んだら、その一歩の移動により生まれる思いがある。今いる場所から移動した時に生まれる戸惑い、あるいは確信。それが、「考える」ことの端緒になる。そしてそうした実際の運動だけでなく、文章を書く、あるいは人と言葉を交わす場面においても同様で、自分が書いた言葉に導かれるようにして何かを考えたり、他人の言葉を聞いたことで自分の考えが照らし出されたりすることがある。と書いてみたところで、「無から生まれる考えは無い」というわけでもなく、たとえ無だったとしても、その「無」が何かしらの揺らぎを得て(空間に吹き込む風のようなイメージ。その空間には何も無いとしても、僕がそこにいれば、風を感じることができる)、運動した時には、そこに思考が生まれ、言葉が生まれる。風を孕む帆になれ。どこかから吹いてくる風を自身の肌で感じることさえできれば、自分という存在の舟を、前に漕ぎ進めることができるはずなのだ。

 ソファに横になり、背後に置かれたサーキュレーターの風を肌で感じながら、僕は今、日記を書いている。

 


 ここまで書いてきてふと思い出したのだが、僕は今日、仕事で送られてきたメールの返信文に悩み、思案しながら書いていたら、同僚から「いい感じの文章にまとめてもらえるからChat GPTを使うと良い」と言われた。その時はなんとなく不快な気持ちがしただけで、そういう考え方もあるよなあ、と思ってぼんやりと聞いていたけれど、こうして書けば書くほど(考えれば考えるほど)腹が立ってきた。

 Chat GPTを使えば、概要を入力するだけでそれを程良い体裁の文章にしたためてくれるらしい。要は頭で考える時間を効率化する、つまりは頭で考えなくて良い、ということだ。もちろんAIが作った文章は支離滅裂で多少の手直しは必要になるが、一から文章を書くよりは「考える」時間が削減できる。そうして生まれた余白の時間を、より良いことに使うことができる。らしい。

 「Chat GPTを使え」ということは、極論すれば、「考えるな」ということだ。「考えるな」ということは、「考えていることに意味が無い」と言われているのと同じだ。今日それを僕に言った人は、決してそこまで思って言っているわけでは無いのかもしれないが、僕がそうやって受け取った、ということは、つまりはそういうことなのだ。

 言葉は暴力だ。暴力である言葉をAIに委ねることが、僕は本当に怖い。人間が制御できない途轍もない圧力を持った機械に、上から押し潰されるような感覚がある。あるいはそれを操縦している自分が、誤って誰かを轢き殺してしまうような怖さがある。それが古い考え方だ、と詰られるのを承知の上で、僕はそれに警鐘を鳴らし続けたい。周りがどれだけ仕事が早くなろうと、別に良い。というか、よく考えれば端からそんなことに興味は無い。強いて言えば、早く帰りたいだけだ。早く帰って何をしたいか、と言えば、こうして文章を書き、何かを「考えたい」だけだ。

 そうやって思ったのであれば、何もこんな所で日記に愚痴を垂れ流すのではなく、その場で言えば良かったのだ、とも思う。けれど先に書いた通り、言葉は暴力だ。その場で何かを言ってしまった後には取り返しがつかない。言葉を発するには時間が必要だ。考えて書いて消して、を何度も繰り返すことでしか、本当に伝えたい思考には辿り着かない。というか、これも先に書いた通り、思考は捕まえることができない。延々滔々と、思考は続いていく。そして今考えたとしても、Chat GPTを信じている同僚からすれば、僕のこうした考え方は受け入れられない価値観であるかもしれない。だとすれば尚更、その時に僕は何も言わなくて良かった。ここまで考えながら書いてきて、そうした結論に辿り着き、僕は少しだけ安心した。

 別に安心を求めて毎日日記を書いているわけではない。けれど考えることの大切さ、それ自体を考えることができて本当に良かった。そしてこうやって書いていると、少しだけ、今日言われたことも許せるような気がする。というかもしかすると、その同僚もChat GPTの限界は承知の上で、「そんなに考え込まなくても良いよ」と優しい気持ちで掛けてくれた言葉であるような気が段々としてきた。

 多分、いや、考えれば考えるほどきっとそうだ。どうして今まで気付かなかったのだろう。きっと僕の思考が歪んでいるだけだ。不意に申し訳なさで、涙が出そうになった。

 

 こうした思いを箇条書きにしてChat GPTに書かせたら、より良い文章ができるのだろうか。だとしたら、素直に白旗を上げよう。完敗だ。

 

2023年5月31日(金)

 仕事に行けなかった。ぎっくり腰になった。

 朝起きて、身支度を済ませ、玄関の前の服を拾って出掛けようかと前に屈んだ途端、腰に激痛が走り、下肢に力が入らなくなってその場に倒れ込んだ。視界がスローモーションのように落ちていった。噂には聞いていたが、本当に動けない。腰から下が切断されてしまったような体感なのに、なぜか頭頂部までズキズキと痛い。20代でもこうしてなるものか、と思ってかろうじて動く右手でスマホを手繰り寄せ、調べると、ぎっくり腰になり易い性質として「運動不足の20代」「猫背の20代」「筋力の無い20代」と後ろ指をさされるような文句が並んでいて、さて、どうしたものか、と、状況に反して妙に冷静な頭でスマホを持つ親指を動かし、まずは職場に欠勤の連絡をした。

 何をしていても痛いので、できる限り痛くない姿勢を保とうと努めるのだが、そうやって固定していると少し動いただけで激痛が走る。一度寝ると容易に起き上がれない。トイレにも立てない。一挙手一投足に途轍もない労力と時間がかかるため、2メートル先が、2キロメートル先のように感じる。生活とはこんなに難しいものだったのだろうか。普段は意識していないけれど、「腰を入れる」という言葉があるように、人間は本当に腰を中心にして生活しているのだ。四肢は盤石でも、中心が揺らぐと身体全体が歪んで身動きが取れない。本当に困った。

 夕方、近くの整骨院に向かうため、死に物狂いで着替えて外出した。ゆっくり、ゆっくりと意識して歩いていても、途中で全身を撃ち抜くような痛みが走り、その都度立ち止まる。そこで深呼吸をして、また前にそろそろと歩みを進めるが、また痛みが走り、立ち止まる。周囲の人間が、早足で自分を追い抜いて行く。スーツを着たサラリーマン、制服を着た学生たち、ランドセルを背負った少年少女が前へ前へと、自分を置いて遠ざかって行く。

 その後ろ姿を見ながら、健全な身体を羨ましく思う気持ちと同時に、なんだか時間の経過が自分だけ緩やかになったようで、少しだけ快い気持ちになった。不思議なものだ。自分の境遇など追いやり、他人の足取りをいじらしそうに見つめている。今の自分には、時間という概念すらどうでもよかった。早く整骨院に行って、早く帰宅したところで、結局何もできないのだ。ただ歩くことだけが、眼前に大きな困難として立ちはだかっていた。それがどうしてか、少しだけ、救いだった。

 幾度も立ち止まりながら歩く道すがら、様々な景色が目に飛び込んできた。寂れたコインランドリーの看板、アパートの木目の壁、電線で羽根を休める雀たち。誰かが乗り捨てた古いオートバイ、電柱に貼られた飲食店のステッカー、優しい色合いの紫陽花。普段は見向きもせずに素通りしてしまう景色が、彩り鮮やかに映ったのが不思議だった。時間に追われて見落としていた世界の輝きを、ひとつひとつ拾い集めるような感慨だった。世界はこんなにも、新しい発見に満ち溢れていたのだ。唐突に、萩原朔太郎の「猫町」という小説のことを思い出した。

 それでもやっぱり腰は痛い。腰が痛いと、本もまともに読めない。新しい発見もあった気がするけれど、やっぱり健康第一だ。結局整骨院に行っても、状況はあまり改善しなかった気がする。家に帰ってレトルトカレーを食し、だらだらと横になって時間を貪り、不貞腐れるようにして寝た。

 


2023年6月1日(木)

 ぎっくり腰生活2日目。午前中だけ在宅勤務をした。長時間机に向かっていると腰が固まってしまうため、何度も場所を移動して仕事をした。少しだけ痛みは軽減した気がするけれど、油断は禁物で、少し無理をすると電気が通ったような強烈な痛みが走る。「痛みが走る」という表現は、本当に適切な表現だと思う。身体を一瞬にして痛みが駆け抜けて行って、踏み荒らされた余韻だけが内に残る。その時は一瞬なのに、長く尾を引く痛みが、鈍く身体に残り続ける。精神的にもかなり苦痛だ。

 ぎっくり腰の対処法について検索して調べると、色々な情報が出てきてどれが正しいのかわからない。冷やした方が良い、という意見もあれば、温めた方が良い、という意見もある。ストレッチした方が良い、とも書いてあるし、ストレッチは絶対にするな、とも書いてある。どれだけ調べても、何が今の自分にとって適切かどうかが永遠にわからない。情報過多とはこのことで、正しさを主張した数々の文言に不意に目眩がした。ストレスも良くない、とも書いてあり、こんな情報に触れること自体がストレスだ、と思ってスマホをベッドに投げ捨てた。

 いつからか本当にスマホに依存してしまったようで、事あるごとにスマホで何かを調べてしまう。効率のために生まれたスマホに、時間が奪われて行く。それが悔しい、けれどやめられない。やめようと思ってもやめられないのが、依存の極致だ。薬物依存、アルコール依存、様々な依存の形があるけれど、スマホ依存もまた、現代人の生活を脅かす大きな問題だ、と変に納得しながら、自分がその一人であることを棚に上げていた。

 そうやって考えたことを、日記に書こう、と思ったところで、手元にスマホが無い。そうか、さっきベッドの上に投げ捨てたからだ、と気付き、床を這いつくばりながらベッドに向かい、やっとの思いでスマホを手に取った。何をしているのだろうか、と惨めな思いで、日記を書いた。

 


2023年6月2日(金)

 ぎっくり腰生活3日目。今日も午前中だけ仕事をして、午後はベッドでラジオを聴いたり、スマホで動画を見たりして安静に過ごした。あんなに時間を求めていたのに、こうして時間が空くとどうしてか、やりたかったことが何もできない。僕がやりたいことは押し並べて、腰が悪くてもできるはずなのだ。もっと精神性を高めるような何かに打ち込みたい、と思えば思うほど、怠惰に引き摺り込まれていく。何もかも腰痛のせいにすれば良いか、と思ってしまう自分が嫌だった。

 外は台風が来ていて、雨風が窓を叩きつけていた。低気圧のためか、昨日以上に腰が痛んだ。僕は偏頭痛持ちだが、昔から天気が悪い時に頭が痛くなるのが不思議だった。直接的に身体を痛めつけるわけでは無いのに、内側で血管が広がり、自律神経が乱れていく。痛いことは嫌だが、不思議となんとなく、その働きには昔から奥深さを感じていたことを思い出した。低気圧で調子が悪い、と口にしている人は、なんとなく信用できるような気がした。目に見えているものが全てでは無い。目に見えないものこそを見なければ、と、環境が語りかけているような気がする。何を言っているのだろうか。

 夜までずっと、風雨は止まなかった。沢山の物が沈黙した部屋に、風と雨の音だけが鳴り響いていた。明日はもう少し楽になるだろうか。楽になったら曲を書きたい、と、少しだけ思った。

 

2023年6月3日(土)

 ぎっくり腰生活4日目。

 一日中本を読んで過ごした。色々な本を読んだ。いつだったか、病に伏して動けなくなった時はプルーストの「失われた時を求めて」を読破しよう、と思ったことがあり、今こそその時ではないか、と思ったりもしたが、結局プルースト以外にも読みたい本や、読まなければいけない本はたくさんあり、そうした本をひとつひとつ消化するようにして日を過ごした。朝は雨が降っていたが、昼前には上がって、夕方には陽が照って夏のような暑さだった。一日は長いようで短かったけれど、短いようで長かった、のかもしれなかった。

 何かを書きながら何かを考えたい、といった主旨のことを数日前に書いたけれど、何かを読みながら何かを考える、という境もある。そしてそれらは、「考える」ということに帰結する点において、同じようなことだと思う。僕は本を読む時にも、何かを書くことと同じように、自分の頭で何かを考えたい。というか、否応なく考えてしまう。今日も古井由吉の『野川』を読みながら、そこに書かれた文字を目で追っていくのと同時に、頭の中で全然別のことを考えていたような気がする。けれど別にそれは「読めていない」というわけでは無くて、本来「何かを読むこと」というのは「何かを考えること」である、という確信に近い実感がある。だからこそ僕は、読みながら何かを考えることができるような本が好きだ。「行間を読む」と言うとなんだか、そこに書かれなかった、本来書かれるべきであった何かを読む、という感じがしてしまうが、それとも違っていて、その本の内容と全然違うことを余白に落書きするような感覚、とでも言えば良いだろうか。素晴らしい本には、そこに書かれた言葉をきっかけとして、何かを考えることのできる余白の土壌がある。その場所にこそ、読むことの本質があるような気がする。あくまで僕にとっては。

 それは決して本に限らず、映画や、美術においてもそうだ。僕はそうした何かに触れながら、自分の頭で何かを考えたい。考えたい欲求が強い、と言うと、そんなに考えられているのか、お前は浅薄な人間だ、と詰られてしまうかもしれない、とか考えてしまうぐらいには、考えたい欲求が強い。それはもしかすると人と会話している場面においても同じなのかもしれず、僕はよく「人の話全然聞いてないよね」と言われるのだが、それは人の話を聞きながら何かを考えたい、考えてしまうからで、それは別に話を聞いていないわけではない、と言ったところで、話を聞いていないと言われているということは、話は全然頭に入っていないのかもしれない。そうやって考えていくと、僕は読書においても、何かを読んでいるようでいて、全然何も読めていないのかもしれない。悲しい哉。

 考えたい人と、考えたくない人がいる。それはこれまでの人生経験を通して、なんとなくわかってきた。「大自然の中で何も考えずに寝転びたい」と言っている人がよくいるが、僕からしてみれば「大自然の中でゆっくり何かを考えたい」のであって、それは根本の欲求が異なる。だから分かり合えないのは当然で、そうした違いが文化・芸術の受け取り方においても顕れてくる。何も考えたくない人はわかりやすいものを好むし、何かを考えたい人はわかりにくいものを好む。あるいは、何も考えたくない人はわかりにくいものに触れてもそれをわかりやすい形に変換しようとするし、何かを考えたい人はわかりやすいものに触れてもそれをわかりにくい形に変換しようとする。こうやって書いていても、僕はどんどんわかりにくく書いている気がするがそれは良いとして、何が言いたいかというと、そうした根本の欲求が違う人と分かり合うことはすごく難しい。考えたい人は、考えたくない人が受容する作品を馬鹿にしたがるし、考えたくない人は、考える人が受容する作品を忌み嫌う。とは言え、そこで二分化されて、それぞれが排他的になってしまうのもなんだか悲しいような気がする。

 僕はそこで排他的にならないために、「想像力を持って相手のことを考える」ということが必要だ、と思い続けていた。考えたい人には考えたい人なりの良さがあって、考えたくない人には考えたくない人なりの良さがある。自分が「考える」ということを大切に思う気持ちと同様に、「考えない」ことを大切にしている人がいる、という想像力を持って相手のことを「考え」てはじめて、何かを考えたくない人と分かり合うことができるような気がしていた。

 けれど不思議なことに、日々色々な人と出会い、話をしていると、何かを考えているようには思えないのに、排他的にならない、という人に出会ったりする。僕はそうした人に、理屈では説明できないある種の美しさと憧憬を感じる。そうした人には、経験の中で育まれた優しさみたいなものが備わっている。そのことを、そうした人たちは全く意識していない、と思う。考えなくても、当たり前のようにそれらができている。「考えるな、感じろ」という金言があり、それは理屈で考えるより直観的に信じた方向に動け、ということだと思うが、それは自分にはできない。そうしてしまうと、自分は自分の考えに固執し、排他的になってしまうような気がする。自分にできないからこそ、そうした豊かさや度量が当たり前のように備わっている人が、僕から見れば羨ましい。

 だけどそうやって考えていくと、考えたい人も、考えたくない人も、同じ場所を目指すことはできる、ような気がしていて、畢竟するに僕が何か作品を生み出すことにおいて目指す場所は、そこにあるような気がしてくる。わかる人にわかれば良い、はすごく閉鎖的だ。そうした芸術には新しい価値観を受け入れる度量が無いし、何より芸術は受け取り手の様々な価値観によってこそ育つ。「考えたい人」と「考えたくない人」が出会うことのできる場所。それこそが僕が目指すべき場所だ、と思うのは、そうした懐の深い、素晴らしい作品に僕自身が助けられてきたからだ。

 僕が目指しているその場所は、一体どこにあるのだろうか。「愛」とか、「優しさ」とか、そういった漠然とした言葉でしか今は考えられないけれど、そこに辿り着くために、僕はこれからも考え続けていきたい、と思う。