20230115-20230121

2023年1月15日(日)

 車で高円寺まで行って、気になっていた古着屋に足を運んだけれど、何も買わなかった。傘を差すか差さないか迷うぐらいの雨が、ずっと降り続いていた。晴れていた方が良かったけれど、土砂降りよりはまだマシだった。無理やりこじつけて言えば、人生もこんな感じだろうか。理想を言い出せば切りがないけれど、何か幸福とは言えない状況に置かれた時に、最悪の状況を想定してみればそれよりはまだ救いがあるな、と考えたり、不幸中の幸いと言える何かを見つけたりして、置かれた状況をやり過ごしていく。身近な例で言えば、長期休暇の後の出勤日は絶望的なほどに苦しいが、連勤の後に一日だけ与えられた休日は、奇跡のように心が躍るものだ。そう考えれば僕にとっては、微妙に降り続く雨の中で、傘を差すか、あるいは差さないか、それを問題にするぐらいの心の余裕を日々の生活で持ち続けることができていさえすれば、それで十分なのかもしれない。

 

 チャールズ・ブコウスキー「死をポケットに入れて」を読んだ。70歳前後の著者が、死に至る直前まで書き続けた日記がまとめられたもので、そこには日々の生活における著者の感慨や内面吐露が、痛いほど溢れ出していた。詩作に関する鋭い洞察については言うまでもないが、趣味の競馬に対する異常なほどの愛憎や、競馬場を行き交う人々に関する緻密な描写は狂気的にすら感じられる。著者は夜の暗い部屋でセーターを羽織ってパソコンの前に座り、様々なことに思いを馳せながらこう書き綴る。

 

 つまるところ、このわたしにはいまいましい我が競馬場があるのだ。競馬場についてならいつでも書くことができる。どこにともなくぽっかりとあいた、あのわけのわからない虚な穴のことなら。わたしは自分自身を生贄にしようと、時間を断ち切り、無用の存在にしてしまおうと、そこに出かけていくのだ。時間を潰さなければならない。待っている間は。完璧な時間があるとすれば、それはこのマシーンに向き合っている時間だ。しかし完璧な時間を手に入れるためには、不十分な時間を過ごさなければならない。二時間を活かすために、十時間は潰さなければならないのだ。用心しなければならないのは、すべての時間を潰してはだめだということだ。すべての歳月を。

            ーーチャールズ・ブコウスキー「死をポケットに入れて」

 

 読めば読むほど、競馬場に行く自分を無理やり正当化したような文章にしか思えないが、ブコウスキーはこの文章を書きながら、自分が過ごしている人生の時間について考えようと努めていることだけは確かだ。音も無く近付いてくる死に向かって一方向にただ進んでいくように思える時間の中で、何が完璧な時間で、何が不十分な時間なのか。夜にパソコンに向かい、言葉を拾い集めるように文章を書き綴っている時間を「完璧な時間」と称する著者の態度からは、長い歳月を詩人として生き永らえてきたことに対する圧倒的な自負を感じる。

 僕らは何をしていても、常に「完璧な時間」を求めがちだ。怠惰に過ごしてしまった時間や、やりたくもない仕事をこなしている時間は、できれば避けて生きていたい。けれどそうした時間の果てに「完璧な時間」があるのだと思うことで、人生のあらゆる時間を、もう少し広い心で捉え直すことができるのかもしれない。忌々しいように思える時間すらも、たとえ叶わないとしても、飛び立つための長い助走として認識することができるかもしれない。そしてそうやって捉え直した時間を過ごすことで、著者が別の章で息巻いて叫んでいたように、僕らは少しだけ「立派に」なれるのかもしれない。

 

 明日からまた仕事だが、天気予報を見ると、雨が降るか降らないか、また微妙な空模様の一日になるらしい。傘を持って行こうか、それとも、明日は傘は持って行かなくて良いだろうか。

 

2023年1月16日(月)

 傘を持って仕事に行った。ずっとお腹が痛かった。よく考えてみると、今年に入ってからほとんどの時間に身体のどこかしらに不調があって、それが常態化しているみたいだった。だからか、何をしていてもあと一歩の気力がついてこない。文章を書くにしても、曲を作るにしても、そのために必要な粘り強さが全然湧いてこない。何を創作するにも、その「あと一歩」の努力が一番重要なのだ。何かに取り組む前に、まずは体調を治す努力をしなければいけないのかもしれない。健康第一、とはよく言ったものだ。

 

 夜はバンドのミーティングがZOOMであって、今年一年の目標をメンバーそれぞれが発表した。明確に数値化された目標や、それに至るまでの効率的な手段を一つ一つのタスクに落とし込んで考えてくれているメンバーとは裏腹に、僕は「やりたいことを、めっちゃやる」という何とも漠然とした曖昧な目標を伝えたのだが、みんな僕の意図するところを汲み取ってくれたみたいだった。こうして受け入れてくれるメンバーがいるからこそ、僕は誰にも負けないぐらい、やりたいことをめっちゃやろう、と思った。

 

2023年1月17日(火)

 病院に行って整腸剤をもらってきた。何故だかわからないが、本当に恥ずかしいことについこの前まで「整腸剤」のことをずっと「成長剤」だと思って生きていた。どう考えても馬鹿馬鹿しい間違いだ。それでも、人は言葉を漠然と音調だけで捉えて、認識したつもりになっていることが少なくないのではないか、という、言い訳がましいことを思った。こうして文字として打ち込むまでは本当の意味を掴んでいない言葉が、この世にはたくさんあるのかもしれない。そう思うと、自分が認識しているつもりでいる世界が、ひどく不確かで曖昧なもののように思えてくる。

 

 堀江敏幸「その姿の消し方」を少し読んで、その後に古井由吉「私のエッセイズム」を暫く読んだ。どれだけ時間を費やしても、まだまだ読書の時間が足りない。思索や知見に富み、表現に対して真摯に向き合う二人の文章を読んでいると、自分は厚顔無恥にこうしてここに何かを書き続けていて良いのだろうか、と思ってしまう。自分なりに時間を捻出してやっているつもりだが、それでも全然足りないし、到底及びようもない。他にも良い音楽を聴くたびに、良い映画を見るたびに、良い絵画に触れるたびに、心地良い感動と同じかそれ以上に自分自身の未熟を痛切に感じてしまうが、そうやって感じる一つ一つが自分の生きる活力になっていることも確かだ。けれど僕はそれを「趣味」だと言いたくないし、趣味ではないと胸を張って言えるぐらい、たくさん苦しみ続けなければいけないのかもしれない。

 「成長剤」なるものがあるのであれば、一刻も早く飲ませてほしい。

 

2023年1月18日(水)

 仕事に行った。今日は始業が遅い日だった。たくさん寝れる、と思っていたら、少し夜更かしをしてしまって起き上がるのがひどく億劫だった。その時に僕は何だかすごく悲しい気持ちになったのだけれど、それでも家を出ると、いつもより日が高くまで昇っていて、少しだけ気温も暖かくて、それだけで時間がゆっくりと、静かに流れているような気がした。日差しの中を歩いているとどんどん気持ちが明るくなる気がした。そうしてゆっくり仕事に向かったら始業時間ギリギリになって、なんだかまた悲しい気持ちになったりした。

 

 家に帰って色々して、その後に保坂和志「ハレルヤ」を読んだ。僕はこの小説を読んでいる間、途中まで時間を忘れていた。どこかのタイミングで急に手が乾燥していることに気づいて、ソファから起き上がって仕事用のリュックからハンドクリームを取り出した時に部屋の壁にかけられている時計をパッと見た。そうして初めて、「時間が経っている」ということを思った。

 猫に流れている時間と、人間に流れている時間の話を、保坂和志はずっとしていた。そしてそこには優劣とか、上下関係なんていうものが存在しない、といった主旨のことも語っていた。僕が「時間が経っている」と思ったのは、手が乾燥していると気づいて、ハンドクリームを塗るためにソファから起き上がって、時計を見たからだ。時計が無かったら僕は時間が過ぎていることを気にしなかったかもしれないし、ハンドクリームが無かったら別に手が乾燥していてもそこから動かず本を読み続けていたかもしれない。そうした色々なものが無ければもっと時間というものは曖昧で捉え難いものであったはずで、その分何かに悩まされる量も、楽しむ量も、悲しむ量も、自ずと減っていくような気がする。

 昨日の次に今日が来て、その次に明日が来る。それを知っているから、というより、それに半ば縛り付けられるようにして、その間隙を埋めるように僕たちは色々なことをして、色々なことを思う。時間の概念が無い、あるいは死の概念が無い猫たちにとってはそれが無いだけで、それが人より劣っているということにも繋がらないし、人の方が裕福である、ということにもならない。もしかしたら猫たちの方が幸せかもしれない。いや、幸せという概念すら無い、あるいはあるのか、はたまた別の形としてあるのか、それを知ろうともしていないように人間の目から見ると思える猫たちの態度それ自体が、何か世界を肯定する大きな力になり得るのかもしれない。この本で書かれていたことを僕なりの解釈でまとめると、そんな感じだろうか。

 「世界を説明するための入口がおれにとっては猫だ」と保坂和志は言った。それは多分本当だ。世界を説明するための入口となる猫と、世界を説明するための言葉と出会った保坂和志は、あくまで僕の目から見れば、紛れもなく幸福に思える。僕は猫を飼っていないけれど、僕は僕なりに、僕の世界を説明するための入口と、僕の世界を説明するための言葉を、こうして本を読みながら、あるいはこうして文章を書きながら、これからも探し続けたい。

 

2023年1月19日(木)

 もはやいつの振替なのかわからなくなってしまった振休を使って、運転免許の更新に行った。近場の警察署で簡単に手続きできるものだと思っていたら、警察署では日付を決めてから改めて足を運ばなければならないらしく、それも平日昼間しか行けないとのことで、いつ仕事の休みを取れるかもわからないのにどうやって先の予定を決めれば良いんだ?という何に対してなのかわからない怒りを沸々と感じた末、いっそのこと免許センターまで行って即日で発行してもらおう、と思って、体調は少し悪かったが朝から車で免許センターまで出掛けた。免許センターは早朝から多くの人が並んでいて、同じ日の同じ時間にこんなに多くの人が免許の更新に来ることになる理由が僕にはわからなかった。同じ県民の免許保持率からその確率を割り出してみたいような気持ちになったが、面倒だったのでやめた。

 2時間の講義を終えた後、新しい免許証を携えて免許センターの近くの図書館に行った。図書館は平日にも関わらず多くの人たちがいたが、そこにいる人たちは、基本的に本を読むためではない別の理由でそこにいるみたいに思えた。勉強をしている高校生、スマホを弄る大学生、眠っている老人、併設のカフェで談笑する婦人たち。僕はそれを見て、みんなが本を読むためだけにここに居ればいいのに、と悲観的に思う一方で、僕以外の人たちがみんな本を読む以外の理由でここにいる、ということに、少なからず奇妙な安心感を感じていた。うまく説明できないけれど、僕はこの場所で本来求められている「本を読む」という行為にひたむきに耽ることで、この施設の風景の一部になれるような気がした。それは、僕がそうすることによって図書館という施設自体が(それは図書館員のことではなく、図書館という空間自体に宿っている魂、みたいな何かが)僕の存在を強く求めているように僕が感じていたからだ。僕がいなければ、この空間は「学習スペース」とか「団欒スペース」みたいな別なものになってしまうような気がしたが、僕がいることで、図書館が図書館たり得ている、そんな奇妙な自負があった。僕の中で、僕と図書館はその時、本という媒介を通して相補的な愛で結ばれていて、その愛によって互いに融け合い、一つの風景になる。僕は図書館にいる他の人たちが読書以外の何かをしているがために、何一つそれらの風景に対して嫉妬心を感じず、自分と図書館の間にだけ存在する愛や優しさを誰にも邪魔されずに与え合うことができた。

 何だかすごく気持ち悪いことを書いてしまったかもしれない。

 

 保坂和志「こことよそ」を読んだ。僕はこの作品が「こことよそ」というタイトルである理由が明確にはわからなかった。けれど、この作品で描かれている、友人の死を巡る随想に触れた僕の中には、「生」と「死」についての何かしらの手触りが残った。その手触りは、うまく言葉で説明ができない。「それは言葉の次元ではない」と保坂和志は書いた。「ここ」が「生」で、「よそ」が「死」である、と単純に思うことはできるが、僕が「ここ」で感じている何かしらの手触りが言葉で説明できない、ということは、僕は「ここ」にいながら、僕が発そうとしている言葉自体は既に「よそ」にいる。あるいは、言葉を探す主体である僕自身も、「ここ」にいるように思っているだけで、既に「よそ」にいるのかもしれない。僕はこの作品を読みながら「こことよそ」の境界が段々わからなくなっていった。ただその一方で、それはわからない、それは言葉の次元では無い、と最後に言ってもらえたことに究極の包容力を感じ、安堵のため息をつきながら読み終えた本を閉じた。言葉の限界に触れることができる作品は、そう多くはない。しかし言葉には限界があるということに気づくことこそが、矛盾しているようにも思えるが、読書の醍醐味なのかもしれない。


 夜にまた熱を出した。もう二週間ほど、低く鈍重な体調不良が続いている。自分の身体の中で何が起きているのかわからなかったが、確実に何かが起きてしまっていることだけはわかった。そろそろ本腰を入れて病院に行かなければいけないかもしれない。ソファに横たわりながら、壁にかけた時計を見続けた。秒針は、思っているよりも何倍も速いスピードで進み続けているみたいだった。僕は、まだ時間に置いていかれるのが怖かった。

 

 

2023年1月20日(金)

 病院に行くために仕事を休んだ。病院に行っても、詳しいことは分からなかった。分からないことはもどかしいが、分からないことはきっと沢山あるのだから、分からなくても頑張って生きていくしかない。本を読んだり、誰かと話をしたりする時間が救いだった。

 

2023年1月21日(土)

 今日は誕生日だった。気付いたら27歳だ。もう27歳だ、という気もするし、まだ27歳か、という気もする。けれど不思議なことに、年々歳を重ねていく焦りは、10代後半や20代前半の方が大きかった気がする。若い内に早く何かを成し遂げなければ、とか、あのミュージシャンはもうこの歳には死んでいた、とか、そういう焦りは、全く無いと言えば嘘になるけれど、漠然とした未来に対する不安を抱えていたあの頃の自分に比べれば少ない。

 それが良いことなのか悪いことなのか、それはわからないけれど、そういうこと以上に、今生きている自分の時間の一秒一秒を、大切に思って生きていたい。それは僕の時間であると同時に、一緒に同じ時間を過ごしている誰かの時間でもある。誰かと一緒に時間を過ごしている時に、僕はそういうことは思わない。僕の時間が誰かの時間でもあるということに気付くのは、大抵一人になった時だ。それは情けないことなのかもしれない。

 それでも僕の時間を、同じように大切に思ってくれる誰かがいるから、その誰かの時間のためにも、僕は僕自身の時間を大切にしたいと思う。それが誰かの時間を大切に思うことと同じことであるならば、それ以上に幸せなことは何一つ無い。だから今日もこうして、誰かが僕の時間を大切にしてくれていることと、僕が僕自身の時間を大切にしていることと、僕が誰かの時間を大切にしている証として、文章を書くことができてよかった。そしてそうして書かれたこれらの文章が、これを読む誰かにとって、自身の時間を大切にすることに繋がっていると信じて、明日も書こうと思う。