「現実を超えた現実」と出会い続けるために

 現実以上の手触りを持った現実がここにある。

 濱口竜介の『ハッピーアワー』『親密さ』といった初期の作品群を観た時に抱いたのは、無理に言葉にしようとすればそんな感慨だった。無駄な説明は排され、登場人物たちが「ただそこに存在している」ことが、スクリーンを通して眼前に立ち現れ続ける。当たり前のことだが自分はその映像を「見ている」だけであって、そこで描かれている世界は、自分が実人生として生きている世界とは別のものだ。それは疑いようもないにせよ、優れた映画作品を見ていると、「映画の世界に入り込む」「登場人物の心情に共感する」といった短絡的な表現では事足りぬ、どこか「現実を超えた現実」に映画を通して立ち会っているような、奇妙な感覚を覚えることがある。

 映画という言語を用いて何を描き得るのか。それは恐らく映画を撮る人間にとって逃れることのできない最大の命題で、きっと他の形式の表現者においても同じことだ。言葉を用いて「言葉では表現できない何か」を生み出そうとするのが小説家で、絵画を用いて「絵画では表現できない何か」を生み出そうとするのが画家である、と僕は思う。映画に関して言えば、カメラを通して切り取る世界を通じて、切り取られた現実を超えた何か、を生み出そうとするのが映画作家である、と言えるだろうか。もちろんそれは作家自身の努力だけで叶えられることでは無く、受け取り手がそれを汲み取ろうとする姿勢、あるいは安直な答えを求めず、不明瞭なまま何かを見続ける忍耐力を持ち続けなければ、果たされないことだ。その関係性の中にこそ作品が生まれる、のであれば、作家の語りがどれだけ優れていても、受け取り手にその度量が無ければ作品の持つ力は瓦解してしまう。優れた作品が世に送り出されるためには、作家の能力が優れていることと同時に、それを観る人たちそれぞれが、優れた受け取り手である必要があるのだ、と少なからず思う。

 近年、そうした相互の関係性に限界を感じているのか、過度に説明的な作品があまりに多くなってきたように思う。登場人物がそこで何を思い、どんな行動を取ったか。あるいは過去にどんな事件があって、それが現在にどんな影響を及ぼしているのか。そうした因果関係を明確にしなければ、短絡的に答えだけを求める受け取り手は納得しない。だからこそ安易な内心語の描写に走ったり、過去の回想シーンをこれでもかと多用するような作品が、どんどんと増えてきたように思う。

 確かに「納得+共感=感動」という単純な図式だけが作品の価値とされる時代に、受け取り手の度量を信じて作品を生み出し続けることは、並大抵の努力で果たすことはできないだろう。第一、お金にならない。映画を撮るためにはお金がかかるし、作品として世に送り出す以上、多数の観客に劇場に足を運んでもらう必要がある。だから作品に「わかりやすさ」が求められる昨今の風潮は、止むを得ないことなのかもしれない。しかし受け取り手としては、そうした世の流れに対して少なからず淋しさや、苛立ちを感じてしまうのも事実だ。わからないのであれば、わからないなりにこちらが考えたい。現実世界を生きていてもわからないことが沢山あるのに、そう簡単に何もかもがわかってしまう映画の、何が面白いのだろうか。そうした不満と鬱憤が積み重なり、自分を満たしてくれる作品との出会いを求める日々が続いていた。

 杉田協士監督の『彼方のうた』は、そうした「現実を超えた現実」を映画の中に生み出すことを愚直に追い求め、観客を信じ続けた、稀有な作品だったように思う。

 冒頭からラストまで、会話は少なく、強調的な音楽も流れない。主人公含め、登場人物の誰もが何を考えているのか、説明的な描写はほとんど無い。こうしたらああするだろう、という行動原理が通用する箇所もほとんど無く、それらを演者の表情から読み取ることもできない。また物語構造的なストーリーもあまり感じられず、ただ幾つかの謎がそれを観る自分の内に生起しただけで、その謎が伏線として回収されることもなく、奇妙な浮遊感を抱えさせられたまま、物語は終わりへと向かっていく。

 目の前で繰り広げられているこれは、一体何なのか。自分は今、何を目撃しているのだろうか。それでも理由もわからない深い悲しみや、人生に対する諦念のようなものが、目の前の人物や風景を通して自分の中にゆっくりと芽生え始めているのを感じながら、エンドロールが終わり、映画館の照明が灯り出した瞬間にハッと気付く。そうか、自分は今、映画を観ていたのだ、と。

 「こんな映画を観たことがない」と興奮気味に電話をかけてきた友人のことを不意に思い出す。映画を観た今、僕も全く同じことを思っている。誰かにこの感動を伝えたい、と思い、こうして文章を書き始めたは良いが、しかしこの感慨を、どのように言葉にしたら良いのか、今もって判然としていない。この映画はこの映画としてしか存在していなくて、他のどのような言語で説明しようとしても、それはなんだか無意味なことのように思える。それがきっと、この映画の素晴らしい所なのだ、と思う。先に書いた表現に即して言えば、この映画には、映画として描かれる現実を超えた、より手触りを持った現実があった。

 どのようにしてこんな未曾有の作品を作り得たのか、その真髄を知りたくて仕方ない気持ちになり、僕はそれから監督のインタビュー記事やパンフレット内の文章を読み漁った。しかしそこでも、制作過程のことはあまり詳らかにはされていなかった。ただ監督の話を読み進めている内に、監督自身があまり明確に、物語の答えを持って作っていない、ということだけはなんとなくわかった。この映画を作り始めたのも、本当に日常の些細な出来事がきっかけだったらしい。ある人物の訃報に触れ、またその流れで偶然、映画内でも用いられているモーリス・ラヴェルピアノ曲「亡き王女のためのパヴァーヌ」を聴き、そこから物語が想起された、とのことだが、それもきっと無理やり因果関係に押し込めた、単純化された説明に過ぎない。こうやったからこういう作品ができる、ということなどない。それはこの作品が、身をもって体現していることのように思う。作品は「作品」としてただそこにあり、それはどんな説明や、理由付けにも置き換えられないものだ。きっと杉田監督の中で生まれた色々な思いが、色々な体験を通じて、この作品に結実したのだろう。そうやって大雑把に解釈することしかできない。

 だとすれば、ここで僕がこの映画について何かを語ることにも、きっと意味は無い。そしてこの作品を、誰かに薦める方法も思いつかない。本当に、観なければ、何もわからないのだ。そんな映画が、今の日本で撮られ続けることはきっと難しい。けれどそれを愚直に続けることこそが、映画を含めた芸術作品にとって一番大切なことなのだと思うし、だからこそ、この不条理な現実の中で芸術作品が必要とされる所以なのだ、と僕は今強く思う。

 そうした希望を抱かせてくれたこの作品に、僕は深い敬意を示したい。また、この作品を薦めてくれた友人に感謝したい。コマーシャリズムや効率性に偏った現実を生きていても、まだ、そうした現実を超えた現実に出会う可能性が残されているのだ。そしてそれを力強く追い求めている人たちが、まだ沢山いるのだ。そうした種を絶やさず、「現実を超えた現実」とこれからも出会い続けるために、自分には一体、何ができるのだろうか。

 杉田協士監督が「ひとつの歌」という作品を撮るきっかけになったという、東直子さんの短歌作品を、最後に引用したい。

 

またいつか はるかかなたですれちがう 誰かの歌を 僕が歌った