雲ひとつない青空の向こうに

 二度寝から目覚めて、カーテンを開ける。あたたかく穏やかな光が室内に入り込み、僕はその光の中で、自分がいま夢と現実のあいだに立っていることを自覚し、いつまでも夢の中にいたい、という思いと、早く現実に戻らなければ、と焦る思いの両方に蓋をする。今日は待ちに待った休みだ。別にどちらに振り切る必要もない。毎週土曜日のゴミ回収の時刻はもう過ぎてしまったらしい。外は、雲ひとつない青空が広がっている。

 雲ひとつない青空の向こうに、それでもこの世界のどこかで、今も当たり前のように沢山の雲が存在していることに気付くことはできるのだろうか。自分が見えている世界の向こう側で、見えていない世界が確かに存在する、と気付くことはひどく難しい。それは僕らが常に、僕らが確かに見ることのできる、手触りを持った世界を媒介として物を考えているからだ。見えていない物のことは、考えられない。つまり、何かを考える自分にとって、見えていない物は、存在していないことと同義なのかもしれない。けれど、見えていない物を見ようとする、あるいは、見えていない物が「見えていない」ということに気付くことさえできれば、自分が見えている世界はゆっくりと可能性に向かって開かれ、広がり始めていく。

 ピカソの絵がどうして美しいのか。それを考えている内に既に、僕らは想像力に向かって歩き始めている。ピカソの絵は、その絵がただそこにあるから美しいのではなく、僕らがその絵を見て、想像力に向かって歩き始めることの中にこそ、美しさは存在する。歩き始めたところで、どこにも辿り着くことはできない。想像力にはきっと、際限が無い。それでもただ歩く、という行為の中に、美しさを感じることができれば、僕らはもっと豊かになれるのだ、と思う。

 森山直太朗の「生きてることが辛いなら」を聴く。生きてることが辛いなら、くたばる喜びとっておけ、と森山直太朗は歌っている。死にたくないから生きているのだ、とずっと思っていた。けれど、死ぬために生きているのだ、と思えた方が、生きていることはより豊かなのかもしれない。あるいはもしかすると、生きていることこそ死んでいることで、死んでいることこそ生きていること、なのかもしれない。「正しさ」なんてない。「真理」なんてものはどこにも存在しない。僕はただ、そのあいだに目を凝らしたい。目を凝らす必要などなくても、じっと目を凝らし続けたい。

 雲ひとつない青空の下で、降り頻る雨のような思いを抱えている僕に、数々の言葉が、傘を差し出してくれる。風邪をひいていないことをありがたく思う。今日もどこかに出掛けて、僕の見えていない世界の断片を、自分の目で見に行くことができるのだ。それができる限り、僕らはまだきっと、大丈夫だ。