20230924-20230930

2023年9月24日(日)

 たっぷりと寝て目覚め、ラジオを聴きながら溜まった洗濯物を干した。ベランダで柔らかな日差しと涼やかな風を浴びながら、そうか、これで良いのだ、と思った。夢も希望も、自尊心も要らない。ただ健康に、日々の生活の一つ一つを愛おしく思う気持ちだけ持ち合わせていれば、生きていくことなんて、さほど難しいことではないのかもしれない。けれどきっと、そうやって日々を愛おしく思うことが何より一番、難しいのだけれど。

 雑貨屋でコーヒーミル、洋菓子店で木苺のジャム、本屋で三冊の本を購入した。そうして穏やかに流れる時間の中で、連れ合いと色々な話をした。それだけで、亡くしていた心を取り戻したような気持ちになった。

 幸せを実感することは難しい、けれどこうして書き連ねていくと、ただ朴訥と日々を送ることこそが自分の幸せなのかもしれない、と信じても良いような気がしてくる。

 家に帰ってから、坂本龍一の書評をまとめた本『坂本図書』を読んだ。音楽に身を投じた彼は、言葉や、他の芸術に対してもとことん貪欲だった。彼が癌との闘病中、NHKのスタジオで収録したピアノソロの映像を以前映画館で見たが、僕の目に映る彼の指先に宿っていた魂の片鱗は、そうしたひたむきな貪欲さの向こう側にしか存在しないのだ、と、この本を読みながら強く思った。

 何があっても芸術を信じ、何があっても芸術を辞めない。そのために今できること、それだけを考えながら、生きていきたい。いや、生きていかなければならない。

 

2023年9月25日(月)

 仕事に行った。木曜日にお休みをもらえた。嬉しかったことは、それぐらいだった。

 

2023年9月26日(火)

 仕事に行った。朝は職場の駐車場で、昼も職場の駐車場で坂本龍一の『坂本図書』を読み耽り、帰り道の車内と、帰った後の風呂場では蓮實重彦三島由紀夫賞を受賞した時の会見音声を聴き、そして夕飯を食べながら、批評家の柄谷行人夏目漱石について語った古いインタビューの音声を聴いた。なんだかもう、頭がおかしくなりそう。

 文学好きの友達が「最近の小説が読めなくなった」と語っていたのを不意に思い出して、うんうん、わかるな、と思いながら、同時にどうしてそう思ってしまうのか、よくわからなくなった。

 芸術における「新しさ」とは、一体なんなのだろうか。

 漱石は、小説を書き始めた当初から新聞に連載という形で小説を書き続けていて、今となっては、彼の著作を読む自分たちの目から見ると明らかに漱石は「小説家」だな、と思うけれど、漱石にとっては自分が「新聞屋」だ、という認識の方が強かったらしい。これは、もしかすると、とても重要なことなのかもしれない。というのも、「新聞」という同時代の報道・批判物としてのメディアに書かれた著作であるならば、それらは何か、その時代にとっての新しさ、更新されていく歴史の最先端のものとして、当時、書かれたはずなのだ。

 時代が進むに連れ、世間の価値観はどんどん変化し、古いものは淘汰されていく。例えば今の時代で「悪」と言われているハラスメント問題や、多様性、といった数々の問題は、過去の作品を読めば当たり前のこととして描かれているし、それを疑う登場人物もいない。それを今の時代に読むことは時代錯誤であるような気もするし、そこから得た知見を元に現代を生きることは、少なからず危険なあり方だ、とも思う。それなのに僕やその友人は、今の時代に書かれた小説の方が「読めない」と思ってしまうことがあるし、過去の小説やそこに描かれる人々の生活の方にこそ、親近感を抱いてしまうことがある。それは一体、どうしてなのだろうか。

 「文学とは、人間に対する圧倒的な肯定だ」と高橋源一郎は言った。「本を読む意義は、『正気でいる』ためだ」と平野啓一郎は言った。僕はそれらの言葉が正しいと思う、そして、それはいつの時代に書かれた文学についても、いつの時代に読む人にとっても同じことだ。人がなぜ遠く隔たった時代に書かれた小説を読んだり、古い映画を見たりするのか、と言えば、そこには時代や世間の流れによって揺らぐことのない、何らかの本質、というか、人間として生きる確固たる所以が内包されているからだ。ハラスメントや、多様性といった問題が社会的に取り沙汰されることを前にして、「なぜそれらが取り沙汰されるのか」を問う姿勢、と言えば良いだろうか。そうした「そもそも」を疑う姿勢や、逆に受け入れる懐の広さを持ち合わせていなければ、いつの時代を生きていても本当の意味で芸術を体験することはできないし、素晴らしい芸術を生み出すことも、きっとできないのではないか、と思う。それは突き詰めれば、人間として「生きる」ことの意味を問うことにも、きっと繋がっていく。

 そこにあるのはきっと、俗な意味での「深さ」では無い。そもそも言葉や芸術には、深いも浅いも無いはずだ。あるとすれば、そこに至るまでの道筋の長さや、得てきた知見の蓄積、あるいは、そこで何かを思考し続ける我慢強さだけだ、と思う。そうして何かを得るためには、年代を問わず沢山の本を読む必要があるし、沢山の芸術に触れる必要があるのだろう。そんな単純なことを、過去の先人たちの話を見聞きしながら、いつの時代も変わらない真理として、強く思う。だったら今、自分のやるべきことは明白だ。

 何かを読んだり見たりした経験によって、自分の中からあらわれる言葉が変わっていく。僕はすごく、影響されやすい人間だ。こうして毎日書いている日記を読み返すたびに、いつも情けなく思う。「芸術に狂いたい」と強く願っていたら、本当にもう、狂ってしまったのかもしれない。

 あるいはもしかすると、こっちの方が「正気」なのだろうか? わからないけれど、今日もこうして一日が終わる。

 

2023年9月27日(水)

 仕事に行った。

 昨日仕事を休んでいた後輩から、「あのメールがそのまま残っていて、正直イラッとしました(笑)」と言われて、ごめん、と思い、何も言えなくなった。もちろん昨日は仕事に行っていたし、自分がそのメールを返しても良かったのだが、正直時間が無くて、というか普通に面倒臭くて、放置していた。だからそうやって言われても仕方なく、というかそうやって正直に言ってもらった方がありがたい、と常日頃伝えているからこれが一番理想的なのだが、家に帰ってからもなぜかその言葉が頭から離れない。

 自分が何かをするから、その分誰かに何かをしてもらう。仕事というのは結局そういうもので、全員が一定の時間で仕事を終えられるように互いが互いの状況を慮って、ちょうど良い妥協点を探していく。ちょっと仕事量がオーバーしたら残業代が出るし、仕事の出来不出来はあれ、そこは管理職がうまい具合に適性を判断して配置していくから文句は言えない。それは割と、平等な仕組みだと思う。サラリーマンとして、一部の人を除いて押し並べてみんな仕事は面倒臭いのだから、そうやって妥協点を探しながら、うまい具合に適度に評価されながら、人から気に入られるように隙間を縫ってやっていくのが、きっと一番良い。

 けれど今日、なんとなく思ったのは、自分が本当にしたいのはこういう仕事なのだろうか、ということだ。自分が何かプラスをしたら、その分何らかの形でマイナスをもらい、全員がちょうど良いバランスに落ち着く、という仕事を今しているが、本当は「自分がとことんプラスを過剰に積み重ねていって、そこから何の見返りが無くとも、ただやりたくてプラスしてしまう」みたいな仕事がしたい。「プラマイゼロ」を目指すのでは無く、「過剰にプラスを積み重ねていく」ような仕事。それは仕事だけでなく、愛とか、情とか、そういうものについても、自分は同じあり方を求めている。ただのないものねだりだろうか。

 自分はかなり過剰な人間だ、という実感がある。面倒臭いことは本当に面倒臭い、けれどやりたいことは、とことんやり切りたい。人生にバランスなどいらない、といつも思っているのにも関わらず、こうしてバランスを保つような仕事をしていることが、自分に過度な負荷を与えているような気がして仕方無い。とは言え、みんな同じか、だから自分だけが我が儘を言ってられないよな、という無駄な想像力が邪魔をする。そんなリミッターなど取っ払って、真っ直ぐにプラスだけを積み重ねたい。けれどリミッターを外してしまったら、ここに居続けることはできない。そんな葛藤が、不意に湧いてきてしまった。

 今日は本当は、吉祥寺の映画館にジョン・カサヴェテスを見に行こうと思っていた。けれど行けなかった、というか、行かなかった。まあ残業代が入るし、やらなきゃいけない仕事が残っているし、良いか、と思って仕事をしていたけれど、本当はすぐにでも職場から飛び出すべきだったのかもしれない。そうして仕事をクビになり、家賃が払えずに路頭に迷うような荒療治をしなければ、きっと僕は変わることができない。それはそれで、そんな経験をすることが面倒臭い。ああ、もう、八方塞がり。

 なんだか無性に、太宰が読みたい。

 

2023年9月28日(木)

 仕事の休みを取って、朝から映画館に『エドワード・ヤンの恋愛時代』を観に行った。外は雲一つなく晴れ渡っていて、「絶好の映画日和だな」と思ったのだけれど、よく考えると、雨が降っている方が映画日和だよな、と思った。だから結局、僕にとっては365日、映画日和。

 なぜ映画が美しいのか、と言えば、そこに映画にしか生み出すことのできない、映画によってしか人間の心や記憶に喚起されない「何か」があるからだ。けれどそうした「何か」によって、ある美しさを観客個人の中に立ち上がらせるためには、途轍もない努力と経験、細部への徹底的なこだわりが必要になる。それは例えばストーリーの面白さとか、共感性とか、画面映えする俳優を使ったり、といった、薄っぺらな部分を用いるだけでは絶対に叶えられない。人生を賭けて映画を愛し、全身全霊で映画を信じる者が撮った映画こそが、そうした美しさを湛えることができる。エドワード・ヤンはそうした意味で、完璧な映画監督だった、と、彼の映画を見た今、思う。

 まず、細部へのこだわり方が尋常ではない。例を挙げれば、登場人物が、テレビ番組の撮影現場の楽屋で会話をするシーン。手元にT.G.I Fridaysカップが置かれているのだが(後にこのT.G.I Fridaysがこの映画にとって途轍もなく重要なカタルシスを起こすことになるが、それは置いておく)、そのカップの文字が、何故か逆さまに映っている。そこで鑑賞者の我々は、今見ている画面が、楽屋の鏡に映された景色であることを悟らされる。

 どうしてその場面が鏡越しに描かれたのか。それについてはもちろん色々な仕掛けが考えられるのだが、時代背景について考えると、この映画が描かれた当時は台湾が民主化され、経済発展を遂げている最中の時期だった。そうした時期の人間模様を、敢えて「逆側から」映し出すことで、煌びやかに見える現実の裏側にある、暗部を見せつけられたような錯覚を受けたのは、自分だけではないだろう。現にその場面で登場人物は声を荒げて口論しており、何か経済発展によって失われてしまった情や、手触りのある優しさといったものへの懐古、また、現代的な流行り物へのアンチテーゼのようなものが、そのカットの撮影方法によって、顕れているような気がした。

 そして最も重要な点として、この映画はそうした撮影方法の巧みさを駆使し、徹底的に人間関係の「距離」の問題を描いていたように思う。これはフィルムアート社から出版されている『エドワード・ヤン 再考/再見』の中で映画プロデューサーの松井宏さんも指摘していたことだが、この映画の中には沢山の登場人物が出てくるにも関わらず、基本的にカット内に映し出されるのは、二人ずつの人間だ。その二人は、タクシーの中だったり、部屋だったり、夜の路上だったりと色々な場所でカメラに収められているのだが、基本的にはその二人が画面の中で横並びに描かれている。僕らはそれを見て、そこに逃れようのない「距離」を感じる。

 人と人の間には常に「距離」が存在していて、その距離によってこそ日々悩み、苦しむ。けれど時々、何故かその「距離」が感じられない、自分と他者が融け合ったような錯覚を覚えることがある。それを人は「愛」と呼ぶ。エドワード・ヤンはそうした「愛」によって起きる人生のカタルシスを、映画のラストシーンでカメラの角度を変えることによって実現させた。具体的にその描写については書かないけれど、その場面は本当に美しかった。僕はそれを見て、ムンクが描いた『接吻』の絵を思い出した。

 他者との「距離」が、一瞬にして「愛」に変わる瞬間。それをカメラの角度を変える、というただそれだけの、と言っても途方もない熟慮の必要なやり方で、エドワード・ヤンは巧みに描き出してみせた。僕はその場面を見て、誇張ではなく、「映画が好きで良かった」と心の底から思った。

 

 作品を生み出す、ということは、自分の視力の問題でもある。それは必ずしも「遠くを見通せる力」だけでなく、社会に蔓延る問題をあらゆる角度から見つめる力、また、自分と他者の関係を見つめ続ける忍耐力、によって育てられるものだ。何かが突出していたとしても、その内の何かが欠けていたら、きっと作品としては完成しない。エドワード・ヤンの、そうした創作者としての完璧さをまざまざと見せつけられ、背筋を正されるような思いがした。

 良い映画体験だった。

 

2023年9月29日(金)

 仕事に行った。遅くに上がって、疲れたな、と思いながらビールを飲み、好きなYouTuberの動画を見た。

 こうして何にも抗わずとも、何も果たそうとしなくとも当たり前のように日々は続いていくし、身の回りの諸問題も、気付いたら解決していることばかりだ。誰にでもできる仕事をしているのだから、日々何かを突き詰めて考える必要など無いのかもしれない。

 それでもどうしても、定型のメール文を書くだけでなく、僕は僕にしか書けない何かを書きたい。あるいは、自分にしか作れない何かを、自分の手で生み出したい。そうして食べていくことができたら、生はどれだけ充実したものになるだろうか、と、こんな歳になってもずっと同じことを考え続けている。今日もビールを飲んで寝るだけだが、今日もビールを飲んで寝るだけ、であることの哀しさを、自分の中に持ち続けなければいけないこともわかっている。だからずっと、苦しい。

 

2023年9月30日(土)

 朝から近くの歯医者と整形外科を梯子した。抜いた親知らずの傷は順調に回復しているようで、先週ぶつけた足の薬指も、骨にはなんら影響が無いようだった。身体にあらわれていた色々な問題が少しずつ回復していくことが、ただただ嬉しかった。

 車で千駄ヶ谷に行き、ビンテージの家具を扱っている店に足を運んだ。その店に行くのはもう3度目だが、何度行ってもその物量と、家具や雑貨のセレクトの美しさに圧倒される。

 僕は、人が「何かを大切にする」姿勢が好きだ。大切にする、とは、物であれ人であれ、それを隈なく「見る」ことでもあるし、同時に自分のことを隈なく「見る」ことでもある。なぜこの椅子が良いのか、と考えることは、自分がどういう人間で、何を求めているか考えることにも繋がる。そうした関係性を何かと結ぶことで、自分がこの世界に在ることの意味を問うことができるし、そうやって見出した意味が、忙しなく苦しい日々を送る糧になることは確かだ。だからこうして、自分や、誰かにとって大切なものを探す時間が、心から愛おしい。

 夜は代官山・蔦屋書店のシェアラウンジで、コーヒーを飲みながら雑誌を読んだ。この時間が永遠に続けば良いな、と思ったけれど、きっと永遠ではないからこの時間が愛おしいのだ。そう自分に言い聞かせながら、予約した通りの時間内で席を立ち、店を後にした。