月が近づけば少しはましだろう

 何をしていても、無意味に思えてしまうことがある。「結局のところ人生に意味なんてないのだ」という諦念を腹の底に抱えながらも、それでも生きているのだから、大小問わず自分なりの生き甲斐のようなものを見つけ、あるいはそうした生き甲斐を「探す」という行為をし続ける、ということ自体に、何らかの意味を見出して生きる。きっと皆、そんな感じだろう。僕にとってそれは創作だ、と強く思う、けれど、そうして続けていく中で突然、どうしようもない不安が襲ってくることがある。厳密に言うとそれは「襲ってくる」わけではなく、あくまで内発的に、自分で自分を襲っているに過ぎないのだが、どうしようもない不安はそうして前触れも無く、突然僕の胸に立ち現れる。何のために書いているのかわからない。何のために働いているのかわからない。果てには何のために生きているのか、と、そこまで行ったことはないけれど、そこに至らないギリギリのラインで踏みとどまる毎日に、ずっと疲弊し続けている。

 いつからこんなことになってしまったのか。思えば思春期の頃から、ずっとこうだ。もっと健全に、他人にも自分にも優しく、素直に生きていたかった。どこかで踏み外してしまった後悔と、踏み外さなかった人への嫉妬を胸に抱えながら、それでも明日はやってくる。それは生きている限り、当たり前のことだ。そうした摂理すらも、時に自分を指差し、嘲笑っているように思えてしまう。

 そんな時、僕はASKAの『月が近づけば少しはましだろう』を聴く。

 

いろんなこと言われる度にやっぱり

弱くなる

いろんなこと考える度に

撃ち抜かれて

恋人も知らないひとりの男になる

 

 まっすぐな言葉だ、と思う。ここに嘘などあろうはずがない、と思う。僕にはそれがわかる、いや、それはあくまで僕自身にとって、ここに嘘がない、ということに過ぎないのかもしれない。いずれにせよ僕にとって、ここに書かれている言葉は「まっすぐな言葉」だ。

 誰かが自分に対して何かを言う。しかしその言葉は、当たり前のことだがその誰かが思った通りには自分の胸に届かない。僕は僕なりの人生を経て醸成した、僕なりのやり方で、その場で発された言葉を解釈し、受け止める。それは逆も然りで、その受け止め方は千差万別だ。そうした意味で言葉は残酷だ、と思いながらも、やっぱり傷つく。やっぱり撃ち抜かれる。そしていつしか、誰からも言葉を発されない場所に行きたい、一人になりたい、と願う。僕ですらそうなのだから、この曲が書かれた当時は既に大スターとなり、沢山の人々から一方的に言葉を投げかけられる存在となったASKAが感じていた重圧は、僕には到底想像し得ない。

 

壁にもたれて もう一度受け止める

小さな滝のあたりで

 

 「小さな滝」が何を意味しているのか、僕には正直よくわからない。しかしこうして文章を書きながら、全ての言葉を解釈し、説明することの限界を、僕はひしひしと感じている。というか、解釈される必要などないのかもしれない。「小さな滝のあたり」というのがどの辺りなのか、と明確に言葉で説明することができないからこそ、詩はそこにあり、僕らの胸を強く揺さぶる。

 それでも思うのだが、どうしたって「小さな滝のあたり」としか表現できなかったのではないだろうか。それは「滝」が何かに強く打たれる様子を連想させる、とか、色んな人の言葉が自分の小さな身体に滝のように流れ続ける、とか、そういった直線的な意味を持ったものでは決してなくて、ただ単に、現実のものではない「詩」の世界の中で、小さな滝がある、と、それだけのことなのかもしれない、と思う。そう思わせるところに、この詩の強さと、懐の深さがある。

 

角を曲がるといつも消え失せてしまう言葉だけど

心の中では切れて仕方ない

 

 どうして言葉は、いつも自分の思い通りに掴み取ることができないのだろうか。どうしようもなく悲しい、どうしようもなく苦しい。その「悲しい」と「苦しい」は、言葉で表したところで、その言葉が自分の感情を一番適切に表している、とは、到底思えない。

 そうして掴み取ることの難しさを、ASKAは「切れる」という言葉に集約させた。なんとなく、その生みの苦労はわかる。たとえ「切れる」と言い切ったところで、それは「切れる」では表現しきれない感情だ。それでも「切れて仕方ない」と、言葉にすること。そこには絶望的な諦めがあるだろう。しかしその諦めを払拭するように、その諦めに立ち向かうように、文字通り自身の喉を切り刻むように絞り上げて歌う歌声に、魂がこもっている。そうした強さを、僕は聴いていて強く感じる。

 「歌詞」は、たんなる言葉ではない。メロディに乗って、歌われることによって初めて、「歌詞」になる。だからその言葉だけを切り取って何かを語ることには意味はなく、その全体を通して「感じる」ことでしか、本当の意味で歌詞を聴くことはできない。

 

この指の先でそっと

拭き取れるはずの言葉だけど

積もり始めたら

泣けて仕方ない

 

 ここで唐突に、何か途轍もなく深い優しさを感じるのは僕だけだろうか。「そっと」「拭き取れる」「積もる」という繊細な言葉によって弛んだ感情の糸が、涙へとつながっていく。

 苦しい時や、悲しい時に涙が出るのではなく、人は、優しさに包まれた時に涙を流すのだ。ここで書かれている意味内容とは異なるけれど、僕はここで書かれている言葉に、何かそうした単純な意味を超えた、言葉の力を感じる。言葉を疑い、言葉に傷つく日々を越えて、言葉を信じる強さが、ここに生まれた。それまでにどれだけの苦労があったのだろう。「泣ける歌詞」とか、「泣ける曲」と評されるような、そんな単純なものではなく、「泣いている音楽」がここにあって、そんなものを生み出してしまった表現者としての極致に、力強い歌声を聴きながら、ただただ圧倒される。

 

***

 

 「月が近づけば少しはましだろう」というタイトルの意味を、僕はまだ自分の中で咀嚼できていない。それでも、なんとなくわかる。というか、なんとなく感じる。歌を聴く、ということは、きっとそういうことだ。

 仕事で疲れ果てた帰り道、イヤホンでこの曲を流しながら寒空の下、月を見上げる。月はすごく、遠くにあるように思える。それでも、月はいつもそこにある。

 『月が近づけば少しはましだろう』を聴きながら、月が近づけば少しはましだろう、と思った僕の中で、詩が、言葉が、確かに生まれるのを感じる。そこに意味はない。別にそれでもいい。こうしてこれからも、何かを書き続けていきたい、と強く思う。