20230514-20230520

2023年5月14日(日)

 朝からバンドのミーティングをした。気付いたら時間が過ぎていて、昼過ぎだった。それから洗濯物を干し、掃除をして、昨日までの忙しない日々の隙間にこぼれ落ちてしまった雑事をひとつひとつ拾い集めるようにして過ごした。

 ブラッド・ピット主演の「ブレット・トレイン」をAmazonプライムで観た。僕はその間、時間を忘れていたように思う。目まぐるしく移り変わる映像に引き込まれ、それはまるで遊園地でジェットコースターに乗っているかのような体感だった。何かを得た、というような精神的な学びの実感は無いけれど、とにかくとてもおもしろかった。

 そうして思ったのは、僕はもしかすると、こうして「とてもおもしろかった」というような体験を通して、「時間」から解放される瞬間を求めているのかもしれない、ということだ。けれど当たり前のように、「時間」から解放されたように感じる瞬間にしている行為は、自らの内に何一つ残してくれない。それはきっと、「時間の経過を感じる」ということの中に人生における何かしらの積み重ねがあり、そうした実感こそが「生きていることの実感」だからだ。

 難しい本を読んでいる時間や、何かにつまずきながら道を歩く行為の中には、それらの実感が確実にある。生きていることのリアリティ、とも呼べるかもしれない。スイスイと読めてしまえる小説は、一見自分と思考が似ているが故に「それを読んだ意味」を強く感じたりするが、実際にはそれにはほとんど意味が無い。それは舗装された道を早足で歩くよりも、険しい山道を色んな物につまずきながら歩いた方が、花や動物、景色といった様々なものが自分の目に「見える」からだ。そしてそれに伴う身体的な疲労感が、自分が「それをしている」ということを強く実感させる。そうして何かを注意深く見る、という行為の中に、生きていることの実感が秘められているはずで、だからこそ簡単な本を読むより、難しい本や、読みにくい本の方にこそ挑戦した方がきっと良い。

 そう表面上は理解しているけれど、中々そうしたことに足を踏み出すことは難しい。やっぱり面倒だ、と思ってしまう。けれど人生における大事なことはきっと押し並べて面倒であるはずで、それが本当に「面倒」という言葉だけで片付けて良いか、については、目先のことだけに拘泥せず、あらゆる経験をして、広い目で人生を捉えることでしか、判断することはできないのだ。

 そんなことを、何かわかったような顔で考えていた僕は、今まで本棚に放置していた分厚い本を手に取ってみた。色々なことが「わかった」ような気がする今なら、何度も挫折したこの本が読めるかもしれない。そんな希望があった。

 けれど結局、数行読んだだけで、眠くなってやめた。

 

2023年5月15日(月)

 仕事に行った。家に帰って食事や洗濯を済ませてから、しばらく作曲をした。

 なんだかこうして日記を書くようになってからか、それとも本をたくさん読むようになってからか、作曲の仕方が変わってきたように思う。今まではなんとなくのイメージが先に頭の中にあって、それを形にするように音を並べていたけれど、今はそうしたやり方より、何か適当に鳴らした音に引き摺られるようにして次の音が出てくる、みたいな作り方の方が断然楽しい。昔はなんとなく、自分の曲作りに対する無鉄砲な自信があって、最初に湧いたイメージに沿って組み立てていくだけでどこまでもいけるような気がしていたけれど、その限界を知った、わけではないけれど、それよりももっと遠くに行くためには、最初から自分の中にある引き出しだけでなく、自分とは離れたところにある引き出しから何かを見つけなければいけないような気がする。うまく言えないけれど。そうして新しい道を見つけなければ、という焦りも、少しだけある。

 そうは言っても作曲をしていて一番楽しいのは自分で、自分が楽しむために曲を作りたい、ということはずっと変わりがなく、出来上がった曲を聴いて一番楽しいのも自分だ。僕は今日出来上がった曲を聴いて、あ、あんな風に作り始めた曲が、こんな曲になったんだ、という喜びが少なからずあった。僕はその喜びのためだけに曲を書いている、と、信じていたいし、なんとなくそうあるべきであるような気がする。日記も同じようにして、書き続けたい。

 

2023年5月16日(火)

 仕事に行った。なんだか疲れてしまって、なんだか疲れてしまった、とある人に話したら、その人もなんだか疲れてしまっていた。それは僕が「なんだか疲れてしまった」と言ったことのせいかもしれなかった。僕が「なんだか疲れてしまった」ということを言わなければ、その人は自分が疲れてしまっているのかどうなのか考えることもなかったかもしれないし、そうしたことに気付かないでいた方が幸せだったのかもしれなかった。

 と、こうして僕が思うのは、僕のエゴかもしれない。誰かの感情が「自分のせいかもしれない」と思うことは、自分の感情が誰かの感情に影響を与えている、という偏屈な思い込みでしかなく、実際にはきっとそんなに単純な問題ではない。人の感情はもっと複雑に色んな状況が絡み合って生成されていて、その感情が自分の言葉がきっかけとなって放出されたものだとしても、それが直接の原因とは言えない。どれだけ親しい友人や恋人といった、自分に近しい存在だったとしても。それでも少なからず僕の中に「その誰かに何か影響を与えたい」という欲求が根底にあるからそうした考え方になるのであって、それはきっと自己中心的な捉え方に過ぎない。

 けれどきっとそうした考え方も、悪い面ばかりではないかもしれない。「誰かに影響を与えたい」という感情は、その人に対する思いが強ければ強いほど大きくなる。だからそれ自体が、愛や優しさだったり、前向きな方向に働くこともきっとある。後ろめたいことばっかりが記憶に残ってしまうけれど、きっとそれだけではないはずだ、と、信じる気持ちを失いたくない、というか、失ってしまったら、自分が誰かから影響を受けたり、誰かの優しさを愛おしく思う気持ちも、失ってしまうような気がする。

 なんだか疲れると色々なことを考え過ぎてしまうけれど、僕が今日、「なんだか疲れてしまった」ということを言えた、ということで行き場の無い気持ちが慰められたことは確かだ。こんな自己否定的な感情を抱く前に、もっと素直でいたい。寝る前に又吉直樹YouTubeで、「言えなかったありがとう」という動画を見た。大切なことは、いつも気付かない内に通り過ぎてしまう。僕はありがとう、と、ちゃんと伝えられているだろうか、と考えながら、寝た。

 

2023年5月17日(水)

 仕事に行った。帰ってから保坂和志「小説の誕生」を読んだ後、メモ帳に毎日少しずつ書き溜めていた雑感を掘り起こすようにして日記を書いた。

 日記ってなんだろう。これだけ長く書き続けていても、それが全然わからない。自分が書いていることに何の意味があるのか、こうした行為の先に何が待っているのか、いつまで経っても明確に掴めない。

 まあいいか。

 

2023年5月18日(木)

 仕事に行った。夜は職場の人たちと風呂に行った。風呂から出た後の夜風が気持ち良くて、なんかもうそれだけで良いような気がした。

 近頃は、なんとなく「なんかもうそれだけで良い」と思うことが増えた。自分の見ている世界が変に振れることもなく、それなりに良い塩梅で均衡を保っている。ような気がする。曲作りがひと段落したからかもしれない。気温が上がってきたからかもしれない。けれど新しい曲を作らなきゃ、何か書かなきゃ、という思いは頭のどこかにはあって、無意味に焦ったりもするが、どうにもやる気が起きない。それはそれで、別に良いか、という気がする。

 なんかもう良いか、ということだって、とりあえず書き留めておいた方が良い、ような気がするが、本当のところどうなのだろうか。書いた方が良いような気がするが、書かなくても良いような気がする。倦怠感。それは、倦み、怠ける心。閑散期の今こそ、何か書いた方が良いはずなのに。誰かから背中を押してもらう前に、自分から歩き続けなければいけないのだ。それに時々、うんざりする。

 

2023年5月19日(金)

 発信を止めるな。

 僕は今日一日、何をしていたのかよくわからない。仕事の休みを取って、昼頃に届く待ち侘びた洋服の到着を待っていた。洋服が到着してそれが嬉しくて、着たり脱いだりを繰り返して、それでも今日は雨だし着て出掛けるのもなんだなあ、と思ってまた着替え、ふらふらと駅周辺を歩いたりして、ご飯を作り、部屋を片付け、YouTubeを見て、みたいなそんな感じで過ごして、今は夜の21時半だ。

 今日何をやったか、ということは先に書いたようにわかるのだけれど、こうして夜になると、そんな一日を過ごしていたことへの奇妙な後ろめたさがある。それは別に今日に限らず、誇張無くほぼ毎日のことだ。仕事に行った日も、家事をたくさんこなした日も、誰かと遊んだ日も、等しく同じような後ろめたさが、夜の時間になると無防備な自分に襲いかかって来る。

 何か創作をしていたり、そうしたことに直接的に影響を与えてくれる(ように思える)ことーー例えば映画を見たり、本を読んだり、美術館に行ったりーーをしていた日には、少なからずそうした思いが減ずるようにも思えるのだが、結局丸一日そうしたことをしている訳にもいかない。そしてそうしたことをした後にも、どことなく「これで良いのだろうか」という不安が残ったりする。きっと今日もこうして日記を書いた後、時計を見て、もうこんな時間だ、と嘆くことになるだろう。それが怖くて、こうして日記を書いている今も、正直な所、書くことに夢中になれていない。

 ずっと何かに夢中になっていたい。けれどそんなことは不可能だ。一人で暮らしていると当たり前のようにやらなければいけないことはたくさんあるし、スマホを見ているとたくさんの情報が否応無く入ってきて、やりたいことだけがどんどん膨らんでいく。やりたいことが膨らんでいく間は幸せだが、それらをやる時には常に時間に追われ続けてしまう。何年か前までは時間なんて気にせずに、夜通し創作をしたり映画を見たりしていたこともあったけれど、今ではそれができなくなってしまった。身体的な限界を自覚してしまったこともあるし、何かを継続したいのであれば、そうしたやり方が間違っている、ということも、嫌と言うほど理解してしまったからだ。

 やりたいことへの熱量だけが失われず保持されたまま、やりたいことに夢中になれなくなってしまった。僕が後ろめたさを感じたり不安に思ったりする気持ちの根本は、ここにあるのだと思う。こうして時間という現実に打ちのめされて、何かを諦めてしまったり、違う道を探し始める人たちを何人も見てきた。こうした思いのまま生き続けるのは確かに息苦しいし、結局金より時間が大事、なのであれば、買いたいものを諦めて貯金をすることと同じかそれ以上に、何かやりたいことを諦める気持ちを受け入れることも、ある意味では肝心なのかもしれない。

 そんなことを考えているうちにふと思い出したのが、Analogfishの佐々木健太郎さんがいつか答えていた何かのインタビューだ。今後の夢は、と問われた時に、彼は迷わず「続けていくことだ」と答えていた。その力強い声が、なぜか急に、僕の胸に迫ってきた。

 何かを続けていくことなんて簡単だと思っていた。何かを果たすことだけが難しいと思っていた。けれどそれは、今考えると間違っていたのかもしれない。一番難しいのは、環境の変化や社会の移ろいの中で、迷わずに自分が信じたものを続けていくこと、きっとそれだけだったのだ。今では少しだけ、それがわかる気がする。その時の佐々木さんの声を今僕が思い出した、ということは、きっとそういうことなのだと思う。

 続けた先に見える景色は、夢見た景色とは全然違うものかもしれない。その間にたくさんの人が自分を追い抜いたり、自分の元から去って行ってしまうかもしれない。それでも続けることに意味がある、と信じることにこそ、きっと意味があるはずなのだ。本当の意味で理解したわけではないけれど、こうして時間をかけて日記を書いた今、なんとなくそれがわかってきたような気がする。


 発信を止めるな。今日の日記の書き出しに書いたその一文は、僕がたくさんの作品に触れて、たくさんの人の話を聞いて、受け取った言葉だ。けれど今はまだ、それは自分自身の声になっていないような気がする。自分ではない誰かが自分にかけてくれた言葉を、受け売りで書いているような実感がある。いつかその言葉を、胸を張って自分の内なる声として書き留めることができるように、これからも続けていかなければいけない。

 

2023年5月20日(土)

 朝から作曲をして、それから近所の花屋にお花を買いに行った。埃を被っていた花瓶を丁寧に洗って水を注ぎ、買ってきた美しいトルコキキョウを差して部屋の中央に置いた瞬間に、部屋全体が生気を取り戻したような気がした。それは丁寧な生活を取り戻した自分が息を吹き返した、ということの表れなのかもしれない。今なら少しだけ、自分の生活を肯定できるような気がする。こんなに簡単なことだったのだろうか。

 夕方から、高校時代の友人と会った。彼女と知り合ってからもう10年以上経つが、久々に会って話をしていると、何か過去に置いてきた布石を一つ一つ回収するような不思議な面白さがあった。自分がこの10年で変われたことと、変わってしまったことと、変われなかったことと、変わらなかったことがあった。僕らはまだ人生の道半ばで、これからもそうした変化や継続を繰り返して生きていくのだ。考えてみれば当たり前のことだが、それはきっと、それだけで素晴らしいことだ。

 人と会うことにあまり積極的になれない自分だが、こうして誰かと会うことで得られる感慨が確実にあるのだ。内に篭りがちな自分を連れ出してくれた友人に、感謝したい。