20231001-20231007

2023年10月1日(日)

 昼過ぎから出掛け、美味い蕎麦を食べ、コーヒーを飲んだ。それから無印良品に行き、結局何も買わず、スーパーで食材を買い込んで家に帰り、拙い料理をした。それから本を読み、何か大切なことに気付いたような、何にも気付かなかったような夜を過ごした。何の変哲も無い、いつもの日曜日。

 何のために生きているのか、わからないなりに、いつも答えを探している。こうして日記を書き始めてから、9ヶ月が経った。それが長いのか、短いのか、僕にはよくわからないけれど、書くことと生きることの距離が、少なからず親密になったような実感がある。

 書くことはすなわち、生きることだ、と、胸を張って言えるようになるまで、これからも書き続けていきたい。

 

2023年10月2日(月)

 仕事に行った。

 他人の書いた文章を読み、それを評価する、といった仕事を急にすることになり、わからないなりに落とし所をつけて公平に評価しようと努めているのだが、他人の書いた文章をある一定の基準で評価することは、本当に難しい。

 それでも読み進めていくと、やはり何か「文章の呼吸」みたいなものがあって、それがしっくりくるものは文章として優れている、ような気がする。それはリズム感、と言っても良いかもしれない。けれど熟慮すればするほどそうした呼吸は薄れていくもので、その呼吸が一番大事、だとするならば、一筆書きで書かれた文章が一番優れていることになってしまう。それはそれで間違っていて、「熟慮」は、自分の言葉に対する思いの強さ、またそれを投げかける相手への愛情そのものでもある。だからそれらのちょうど良い塩梅を、熟慮の末に見つけた、あるいは見つけようと努めた文章こそが、優れた文章になるのではないか、と思う。

 書くことと、話すことは違う。けれど、似ているような気もする。誰かに言葉を投げかける時、僕らは自分の頭で一度考えてから、それを発する。それにかかる時間は人それぞれで、文章に関しても同じことが言える。一概に熟慮した方が良い、とも言えず、逆に思ったことをそのまま発信すれば良い、というわけでもない。それは人によって違う。当たり前のことだ。

 誰かの発言を聞いたことで、自分の言葉が生まれる。そうしたコミュニケーションを繰り返すことでしか、自分の中にある言葉を鍛えることはできない。と書いたところで、「言葉を鍛える」とは、一体何だろうか。自分の言葉なんて、本当に鍛えることができるのだろうか。それは「語彙を増やす」みたいな、単純な量の問題に過ぎないのではないか。

 どんどんわからなくなってきたが、とにかくより良い文章を書くためには、沢山本を読むしか方法がない、と、自分の実感として思う。きっと、自分の実感だけを信じていれば良い。今日も疲れたけれど、少しでも本を読もうと思う。

 

2023年10月3日(火)

 溜まっている振休を取って仕事を休んだ。こんなに休みたい、と常日頃思っているのに、なぜか職場では振休が溜まっているランキングで表彰台に上がっているらしい。それが不思議で仕方ない。みんなどうやって休んでいるのだろうか。「休みを取ることも仕事の内」みたいなことが言われるが、なんとなく、休みさえも仕事、と言われることの苦しさがある。人生をかけて仕事をしているわけではないのだから、休みは、仕事から完全に解放された別の居場所でありたい。だから、仕事のために休んでいる、とは思わず、今日はただ単に休む、と決めた。

 朝起きてコーヒーを淹れ、すぐに三宅唱監督の『きみの鳥はうたえる』を見た。佐藤泰志原作の暗い話ではあるが、それを平日休みの朝、穏やかな秋の日差しを窓越しに浴びながら見ている時間が、心地良かった。

 映画としても、何かそうした程良いバランス感覚で成り立っている作品のように思えた。冒頭のシーンはうらぶれた夜の景色だったし、全体を通して夜、あるいは夜と親和性の高い人間関係の暗さ、みたいなものが通底して描かれていたけれど、その中に常に不思議な軽やかさがあった。それは街灯や照明といった光が果たしている役割でもあったし、俳優の演技や、発する言葉にしてもそうだ。夜に耽溺し、何かを突き詰めて考えるのではなく、夜に隠れるように、馬鹿みたいに酒を飲んで遊ぶ。そうして朝が来て、日が昇り、何か悟ったような顔付きで始発電車に乗り込む登場人物たちの姿が印象的だった。そういえば、物語の暗部の象徴とも言えるセックスシーンも、全て昼間だった。

 若さとは何だろうか。自分を客観視し、自己と他者との関係性を俯瞰で見つめることによって得られる落ち着きや処世術といったものが「人間の成長」として捉えられがちだが、決してそんなことはない。誰かを愛したり、愛されたりすることはもっと身勝手で、見苦しいものであるはずだ。それなのに人は「大人になりたい」と願い、他者への寛容さを持とうとし、あるいはそうした「老成した」他人に対して憧れを抱いてしまう。多分に洩れずこの僕も、ティーンエイジャーの頃からそうしたあり方を目指して生きてきた実感がある。けれどそうして生きてきた自分の選択は、本当に正しかったのだろうか。そうした自分を不安にさせるような問いを、この映画は真っ向から突きつけてくる。

 なぜ、とか、どうして、と悶える人間の美しさ。本心だと思って発した言葉が、逆に自分を欺き、傷つけることになる矛盾。そうした人間のやるせなさが、美しい映像の中で丁寧に描かれている映画だった。自分は若いのか、若くないのか、よくわからない年齢になってきたが、この映画を見て少しは「大人」になれたのだろうか。

 

2023年10月4日(水)

 仕事に行った。

 やる気のあることで認められる、ということと、やる気のないことで認められる、ということを比較して考えた時に、やっぱりやる気のあることで認められる方が良い、と思う。認められるために無理にやる気を出す、というのは、やっぱり違うし、そうして無理に出したやる気は、どこかで破綻をきたす。けれど、いつの間にか自分の中でそうしたやる気がすり替わったりする。やる気がないことを延々とやっていたら、自ずとやる気が出てくるものだ。それよりももっと根源的な欲求に従って…とか考えたりするけれど、そもそも根源的な欲求なんてものが存在するのだろうか。たかだか数十年、生きただけで、自分の人生を捧げられるような何かを見出すことなど、本当にできるのだろうか。

 人生は旅だ、と松尾芭蕉は言った。そんなのは嘘だ、とMOROHAは否定した。「俺は、何処にも行けないじゃないか」。

 僕にとってはどちらも真実だ。どちらも真実であるが故に、今の僕にとっては人生は茫漠とした、取り留めの無いものであり続けている。そうした矛盾を前にして、今自分がやるべきこととは、いったい何なのだろうか。

 探し続けるけれど、答えは出ない。答えが出ないことなどわかり切っている。それでも、探すことをやめてはいけない、そう信じて、あるいは疑って、やる気のない、虚ろな表情で何かを探し続ける日々が、今日も過ぎていく。

 

2023年10月5日(木)

 仕事に行った。

 仕事が終わって車に乗り込み、帰り道を走り出した時、突然、どうしようもない不安に襲われた。別段、何があったわけでもない。けれど明らかに心が薄ら寒くて、雑然として、不安なのだ。こういう夜が、時々ある。季節のせいかもしれない。

 梶井基次郎は、『檸檬』の冒頭で「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた」と書いた。そう、不吉な塊は、いつも得体が知れず、それが生じた因果関係を言葉にすることができないからこそ不安なのだ。けれどそうした不安は、梶井基次郎にとって、あの冒頭の文章に昇華することによって幾分か取り除かれたのではないだろうか。言葉にできないけれど、言葉にしようとする。そうして導き出された言葉が、あるいは「そうして言葉を導き出した」という実感こそが、少しだけ心を穏やかにする。そうした心療セラピーのような効果が、文章を書くことにはある。けれどそれは、自分の書いた文章を読んでくれる「誰か」の存在があってこそ、なのかもしれない。

 言葉にできない思いを無理やり言葉にして書きつけ、それを読んでもらう。直接の会話で無くとも、「読んでもらえている」という実感が確かにあれば、それだけで救いがあるものだ。だからここでこうして日記を書いているのも、誰にも読まれない前提で書いているわけでは無く、これを読んでくれる「誰か」に向けて書いている。決して独り言では無い。そんな実感が、確かにある。

 と、こうしてここまで書いてきたことで、僕にとって一番の不安は、これを読む「誰か」の不在、なのではないだろうか、と、不意に思い当たる。

 僕は誰かの優しさが怖い。優しさの喜びを知ると、それを失ってしまう怖さが、同時に自分の胸に襲い掛かってくる。けれどそれは、優しさを享受している間は絶対に気付くことができない。こうして書いている今もそうで、「わかっている」と書くことは、「わかっていない」ことにしか過ぎない。無知を知った所で、無知は無知だ。何かを失わなければ、何かを失うことの本当の意味は、絶対にわからない。わからないことへの漠然とした不安が、僕の胸に、しこりのように存在し続けている。

 それなのにどうして僕らは性懲りも無く、誰かと出会い続けるのだろうか。優しさを与え合って、互いを信じようと試み続けるのだろうか。それはわからない、けれどわからないからこそ、僕らはそうした出会いに救われ、生かされ続けている。心の薄ら寒さに気付くことは、誰かといることの、心のあたたかさを知っているからだ。そうやって考えれば、漠然とした不安も、悪くないかもしれない。

 

 思うままに書き付けていたら、少しだけ心が軽くなったような気がする。いつまでこんなことを繰り返すのだろうか、と馬鹿馬鹿しく思うけれど、本当に、こうすることでしか生きていけないのだ。それも、読んでくれるあなたのおかげだ。ただ、一方的に言葉を尽くす自分は、なんだか身勝手にも思える。帰り道に車で聴いていた、『追憶のライラック』の歌詞が、不意に頭をよぎる。

 

『寂しいときだけそばにいてくれ』と

わがままな僕を抱き締めて

優しく笑った君を思い出し

涙を流していた

 

 読んでくれたあなたの言葉が、僕は聞きたい。

 

2023年10月6日(金)

 仕事に行った。

 最近はどうも忙しくて、満足のいく創作活動ができていない、と時々自己嫌悪に陥るのだけれど、甘ったれたことを言えば、こうして日々日記を書いているだけでも良いのかもしれない。というか、どうしようもなく忙しない毎日でも、こうして日記を書く、そして書くことによる思考の推進力みたいなものを体感する時間を自分が求めているのだ、ということを自覚することができているだけでも、十分なのかもしれない。そしてこうして書き続けることこそが、創作の醍醐味であり、たとえ作品という形になっていないとしても、これが自分にとっての創作である、と、信じることもできるのかもしれない。

 そう思えるようになったのは、沢山の愛する作家たちのおかげだ。僕はこれからも本を読み、音楽を聴き、映画を観、数多の芸術に触れたい。そしてそこから得た「何か」を、自分の実人生と照らし合わせながら、言葉なのか、映像なのか、音なのか、わからないけれど、この世界で何らかの形にしようとする不断の努力を続けていきたい。どこまで行けるのだろうか。

 

2023年10月7日(土)

 蔵前で開かれている好きなブランドのポップアップに行き、一着服を購入した。

 好きな服を着て、町に出る。ただそれだけで満たされる欲があり、僕の手持ちの欲の中でそれが占める割合は人に比べて大きいような気がするのだが、良い物を探せば探すほどキリがない。そして「好きな服を着たい」という欲求は、その中に「好きな服を探したい」という欲求も含まれており、そこから「良い服屋に行きたい」「その町に行き、休憩にコーヒーを飲みたい」「そこで偶然立ち寄った古本屋で、素晴らしい本に出会いたい」というように、留め処無く欲求が連鎖していく。目的があってこその旅、ではあるけれど、結果的にその目的が果たせなくとも、別の何かで満たされ、良い旅になった、と実感することもできる。

 それでも僕は良い服に出会いたい。その欲求が、僕を旅へと誘う。それは自分を探す旅、でもある。そうしてどんどん、金銭的には苦しくなるのだが、人生は旅、だから仕方ないのだ、と頷いてみる。

 前に、本についても同じようなことを書いた気がするが、そんなことはもう忘れてしまった。すっからかんになった財布をベッドに放り投げ、旅の疲れを癒すように、壁にかけられた服をうっとりと眺めている。