20230910-20230916

2023年9月10日(日)

 午前中に集中して本を読み、保坂和志『小説の自由』を読み終えた。

 保坂和志は難しい、とは言っても言葉選びはものすごくわかりやすいのだが、その単純なわかりやすさと別の次元に立ち上がる何か、が保坂和志の面白さで、その面白さを掴むことが本当に難しい。そしてそれには少なからず体力が必要で、そうした体力というのは単純な身体的なものだけでなく、精神的な粘り強さ、というか(それも広い意味で考えれば身体的なもの、なのかもしれないが)、本に対して自分から能動的に向き合う姿勢が必要になる。何かを読んで何かをわかる、ということは、受動的に果たせることではなく、自分の今までの経験とか、言葉によって何かをイメージしたりとか、そうした自分の中にある様々なことを総動員して照らし合わせ、能動的に向き合わないと果たすことはできない。

 なんとなく雰囲気の良いストーリーに身を委ねたりとか、文中の言葉をそれが発せられたまま字義のままに掴む、ということだけでは生まれ得ない、能動的な読書の果てに立ち上がる別の次元にある「何か」。それがきっと、一昨日の日記で僕が書いた「何か」なのだと思うのだが、そうした次元で本を読むことこそが、本当の意味での読書なのだと僕は信じている。そしてそうした読書は、単純に「本を読む」ということだけに留まらず、自分自身が「本を書く」、あるいはもっと言えば、「生きる」とか「愛する」みたいなことにまで波及し、自分自身を救済する手立てになるのだと思う。いや、別に救済なんてしなくても、ただそうして読書という行為の中に留まり続けることこそが、「何か」になる、はずで、その「何か」はきっと、永遠に言葉にできない。

 永遠に言葉にできないからこそ、そこには無限があり、「自由」がある。僕はこの本を読んでいる間、たぶん自由になれた。それだけできっと、たぶん、良かった。

 

2023年9月11日(月)

 仕事に行った。ABEMAで「世界の果てに、ひろゆき置いてきた」を見て、なんとなくアフリカに行きたいと思った。けれどたぶん、本当はちっとも行きたくなんて無いのだ。

 

2023年9月12日(火)

 仕事に行った。

 こうしている間にも誰かが何かを書いているのだ、と、仕事をしながら考えることが極端に少なくなった。仕事をしている間は本当にただ仕事のことだけを考えていて、家に帰ったら溜まった家事をこなし、その後思考停止状態で、アルゴリズムに推奨された適当なYouTube動画を見漁る。こんなことでは駄目だ、失ってしまった何かを取り戻さなければ、と唐突に一念発起し、Amazonプライムでかつて心酔した映画をもう一度再生してみる、けれど、気付けばそれすらも画面の右の方を親指で連打し、コマ送りで見流している自分が居て、ハッとする。ハッとしただけで、早送りする自分の指を止めることはできないのだが、ハッとするだけまだマシかもしれない。いつの日か、ハッとすら、しなくなってしまうのかもしれない。

 職場の後輩が、仕事で忙しい日に家に帰ると、不意に茨木のり子の「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」という詩を思い出す、という話をしていた。僕はそれを聞いて、うんうん、わかるな、と思い、僕もそれ以降事あるごとにその詩のことを思い出すようになったのだが、いつかは僕も、その後輩も、この詩を思い出すことすらできなくなってしまうのかもしれない。現実は想像以上に残酷で、しかしそのことを気付かせないぐらい静かに、忍び足で、僕たちの生活を音も無く侵蝕していく。侵蝕された頃にはもう遅くて、何かを失い、失ってしまった何かへの懐古だけが、一生わだかまりのように胸に残り続けるのかもしれない。

 そうなってしまうことへの恐怖と、そうならざるを得ない、という諦めの狭間に、今の僕は立っている。そんな実感がある。今日の夕方、職場近くのコンビニに向かった時に肌で感じた柔らかな風と、目に飛び込んできた夕焼けの美しさは、一体僕をどこに連れて行ってくれるのだろうか。

 

2023年9月13日(水)

 仕事に行った。やっと週も折り返しだ、と思ったけれど、今週は土曜日も仕事だ。土曜日は半日仕事だから、計算すると、今日の18時ぐらいが週の折り返しか、と思って、残業しながら時計が18時を回ったタイミングで、「今が週の折り返しだ!」と思った。


2023年9月14日(木)

 仕事に行った。

 自宅近くのコンビニの店員が、ものすごく仕事の手際が良い。一つ一つの作業を無駄なく、一手先を見据えて取り組んでいるようで、レジの会計が終わった瞬間、こちらが袋に買った物を入れている間に既に並んでいる次の客に声をかけている。流れるような店員の動きに感心しながらも、なんだかそうした対応をされればされるほど、客としてないがしろにされているような気がしてくる。

 仕事ができる、ということと、仕事が早い、ということは別なのだ。そんなことはわかりきっていたはずなのに、こうして考えなければそれがわからなくなるぐらい、疲れてしまっているのかもしれない。


2023年9月15日(金)

 仕事に行った。夜はジムで筋トレをした。バカみたいに働いて、アホみたいに鍛えているな、と思った。


2023年9月16日(土)

 土曜日なのに仕事。なのに、「土曜日なのに仕事」ということにあまり気落ちせずに目覚め、背筋を正して出勤したことに少なからず自己肯定感を覚えている自分がいることに気付き、デスクの前に座った途端、吐き気がした。

 午前中で仕事を終え、その後平日にはできない色々な手続きをした。色々な手続きをしながらも、その手続きの一つ一つをどういう順序でこなすか、ということの選択の余地が与えられているだけで、少しばかりの「自由」を感じた。忙しすぎて、本格的に脳がやられてしまっているのかもしれない。

 


 武田砂鉄『マチズモを削り取れ』の、「体育会という抑圧」という章を読んだ。ああもう、愉快、痛快。「体育会」に根付いた慣習を法規としてきた人たちについて、その乱暴な論理構造を指摘し、彼らを「「逞しい」人間と「青白い」人間に分けて、逞しさばかりを愛でる」と評して揶揄する箇所など、よくぞ言ってくれた、と膝を打つ名文の数々。誰がどう見ても「青白い」人間として人生を送ってきた自分からすると、力強い言葉の後ろ盾ができたような気がした。

 けれどその一方で、一抹の不安が胸に残る。目を背けたくても背けられない、いや、背けてはいけない不安、なのだと思う。それは、そんな「青白い」自分の中にある「マチズモ」について、の話だ。

 僕が日々働いている職場には、色んな人がいる。いわゆる「縦社会」的な上下関係を是とする人も居れば、そうしたあり方を嫌悪し、もっと個々を尊重した自由な職場を目指そう、とする人も居る。僕としては、どちらの言い分もわかる、というか、そのどちらが欠けても職場は成り立たないような気がする。課長、係長、といった役職が必要とされるのは、それらの管理職が責任を負うためで、それは(ちゃんと管理職が責任を負ってくれるのであれば)相補の関係にあるから職場には必要な要素だし、だからこそ自分としては、礼儀を持って上司に接することは別に厭わない。とは言え、そうした関係がいつしか抑圧に変わり、職場にとって必要なあり方を超えた何かを強要されるのであれば、そこに対しては異を唱えたい。そうしたどっちつかずの、微妙な「あわい」で迷い続ける粘り強さを持つことこそ、一番重要なことだ、と僕は思っていて、それを日々、人間関係の中で模索し続けている実感がある。

 けれどそうした「あわい」に居ることは意外と大変で、疲れる。誰かの発言に対して、それが誰であろうと、毎度立ち止まって考える。つかず離れず、一つ一つをその場の状況によって考える。そうした経験を積み重ねてきて、なんとなく、今の自分があるように思う。それが少なからず自信にもなったし、段々と、身の回りに自分の「青白さ」を評価してくれる人たちも増えてきたように思う。気のせいかもしれない。

 けれど実は、そうした目に見えない努力の蓄積による「自負」が、僕の中に途轍もなく大きな「マチズモ」を作り出しているのでは無いか、という不安に、僕はこの本を読み、唐突に思い至ってしまったのだ。

 頑張れば、頑張った分だけ何かになる。千本ノックを打てば、それだけバッティングが向上する。それが本著における「マチズモ」の考え方で、僕はそれと同じことを、全然違うやり方でやってしまっているのではないか。悩んだら悩んだ分だけ、人間関係が上手く行く。だから、「悩め」。そうした安直な考え方にいつからか僕は囚われてしまったのかもしれず、それをいつか、自分が誰かに強要することになってしまうのではないか。それが怖い、というか、それを「怖い」と感じ続けなければいけない…という、永遠に続く悩みのサイクルで、貫いてきた自己が崩壊し、泡を吹きそうになる。


 …と、ここまで書いてきて、何を仕事のことでこんなに悩んでいるのか、と阿呆らしくなってきたので、急に話を変えて、芸術の話をしたい。

 書道家武田双雲が、「芸術はスポーツとは違う」という話をしていた。それはすごく興味深い話で、数値化できるような「上手さ」が芸術には通用しない、というような話だった。歌にしてみれば、カラオケで「上手く」歌えて高い点数が取れる、ということが「良い歌」の条件ではないことは、結構誰もがわかっていることだと思う。時々音を外したり、変なしゃくれが入ったりした時に、それが誰かの心の琴線を揺らす。「琴線を揺らす」というのも文字で書いてみて何か違うな、と思うのだが、そういう風に言葉で表現できる次元を超えた「何か」を生み出すために、芸術は存在している。

 だからそれは日々の鍛錬や、努力で成し得ることではない。それは「センス」や「天才」みたいな、適当な言葉で表現されることが多い。ただ、そうした「センス」や「天才」みたいなことが生得的に与えられたものだ、という考え方も、何か違う。「経験の蓄積」と「生得的なセンス」の両極ではない、間でもない、そうやって人間が言葉で「これだ」と規定できたり、表現できる範囲を超えた宇宙の中にこそ芸術はあって、それを雲を掴むような気持ちで、芸術家は模索していかなければいけない。のかもしれない。

 暗中模索。五里霧中。何も指標の無い道の途上で、僕は一体、何を書けば良いのだろうか。

 最近ずっと、「カーテンを作りたい」という欲求が心の中に存在し続けている。別にカーテンは今もあるし、カーテンを作った所でそれを作品として世に知らしめたいわけでもない。インスタで公開して誰かに見せる気も、さらさらない。けれど自分の中に、明らかに強く「カーテンを作りたい」という欲求が存在し続けていて、それが僕にとって、生きる力、と言うと言い過ぎだが、日々の辛い仕事を乗り切るエネルギーになっているような実感がある。

 何かのため、だとか、何かを目指して、ということではなく、「何のためにやっているのかわからない、けれどなぜかやってしまう」ということだけを信用しろ、と、いつか美術家の大竹伸朗が言っていたことをここで思い出す。

 最近は曲を作って公開したり、小説を書いたり、ということができておらず、忙しない日々の合間を縫ってこうして何のためかわからない、誰に向けて書いているのかもわからない日記を書き連ねるばかりで、それに対して「このままで良いのか」と不安に思うことが多いのだが、こうして書いていると、自分の文章に「このままで良いのだ」と肯定されるような気がするから不思議だ。けれど「自分を肯定する」ために日記を書く、ということも要らない、ということもわかった。ただ悩み続けること。ただ働き続けること。ただ書き続けること。結局のところ、生きるって、そういうことなのかもしれない。であれば、今の僕はきっと、自分の欲求にただ忠実に、カーテンを作るべきなのだと思う。

 

 明日は表参道に遊びに行くのだが、こんな文章を書いた後に行ったら、何の意味も無い、何の役にも立たない物を買ってしまうような気がする。それはいかん。けどまあ、良いか。もし買ってしまったら、「これこそが芸術だ」みたいな謎の言い訳をしよう。今日は日記に三時間もかけてしまったが、僕は一体この間、何を書いていたのだろうか。