20230917-20230923

2023年9月17日(日)

 青山にあるヨックモックミュージアムに行き、「ピカソのセラミックーモダンに触れる」展を見た。

 ピカソの絵は面白い。それは、ピカソの絵がただ「新しさ」のためにのみ描かれていて、絵を見る自分が、その「新しさ」を自分の中に生成するからだ、と思う。単純な時間軸で考えれば、ピカソの絵は別に新しくない、というか、今となってはもはやキュビスムすら古い、のだが、ピカソの絵にはそうした時間軸とは無関係の、根源的な「新しさ」があるように思う。

 新しいものは面白い。けれど、その「新しさ」は作品がただそこにある、というだけで成立するものではなくて、作品を見る鑑賞者の目を通して、その視線の間にこそ「新しさ」が生成される。ピカソの絵は、その絵を見る我々の中にある「新しさ」への渇望を強く刺激し、泉を与える。どうしてだろうか? それはわからない、けれど、それがわからないからこそ、ピカソの絵は僕にとって常に新しく、面白いのかもしれない。そんなことを思った。


 表参道で沢山の店を回り、意味があるのか無いのか、よくわからない買い物をした帰り道、Margaret Howellの公式YouTubeチャンネルで、盆栽師である平尾成志さんのインタビューを聞いた。その中で平尾さんは、「忙しいって、心を亡くす、って書くじゃないですか」と語っていた。その言葉が、なぜか強く心に残った。

 生活のゆとりの無さは、いつしか心を蝕む。「忙」の対義語は「閑」だが、「閑」という字の語源を調べると、牛馬の小屋の入り口(門)に構えて、勝手に出入りするのを防ぐためのかんぬきの棒、を意味するらしい。なぜそれが「ひま」を意味するのかわからないが、きっと小屋に閉じ込められた牛馬が、何もできずに小屋の中を徘徊するような様を、「閑」と呼ぶのだろう。

 心を亡くさないために、部屋から飛び出したくなる衝動を抑えるようなかんぬきの棒が、今の僕には必要なのかもしれない。そう思って雑然とした室内を見渡すと、まだ読み切っていない沢山の本が積まれていた。そうか、僕に今必要な物はこれか、と思い、鍵の掛けられた部屋の中で、牛馬が牧草を貪るように、本を読んだ。


2023年9月18日(月)

 仕事に行って、また心を亡くした。

 

2023年9月19日(火)

 仕事に行った。僕の目の前で、二人の人間が涙を流した。それを見て、僕はいま自分の言葉で語っているのではないのだ、と強く思った。こんな夜だけは、自分の言葉で語りたい。

 

2023年9月20日(水)

 仕事に行った。明日は休みだ。「明日は休みだ!」という高揚感と、「明日は休みか」という、諦めに似た感情の両方が、同時に自分の中にあった。明日は本当に休みなのだろうか?

 

2023年9月21日(木)

 仕事に行かなかった。久々の平日休みで、車で江東区墨田区の間あたりまで行った。行きの車中ではずっと、ベネチア国際映画祭で銀獅子賞を受賞した濱口竜介監督のインタビューを聞いていた。濱口監督の言葉よりも通訳の英語を聞いている時間の方が長く、運転中でスマホの操作ができない自分は、ぼんやりとその英語を垂れ流して聞いていたのだが、そうした時間の長さが、濱口監督が世界的な名匠となったことを物語っているようで、それが嬉しくもあり、同時に少しだけ、寂しくもあった。

 僕はたまたま日本人として生まれて、濱口監督もたまたま日本人だった。たまたま同時代に生まれ、たまたま僕も映画が好きだった。そこに必然性は無い、はずなのに、なぜかそれが誇らしい。世界に目を広げればもっと限りなく素晴らしい景色が広がっているはずで、それらを翻訳を通してしか触れることなく、自分の持てる言語の範囲内で何かを観たり、聴いたり、書いたりしている自分が、何だか情けない。

 けれど濱口監督の映画には、そうした壁を飛び越える人間の根源的な「何か」が描かれていて、そこには言語の壁をいとも簡単に飛び越えていく強さがある。そうした「何か」に惹かれているからこそ僕は彼の映画を観ているのだし、だったら尚更、そうした文化の垣根無く海外の作品を観てみたいし、そこから何かを感じたい。

 そんなことを考えながら、たった今、菊川にある小さな映画館でジョン・カサヴェテス「ハズバンズ」のチケットを買った。カサヴェテスは、濱口監督が「自分に大きな影響を与えた」と公言している映画監督の一人だ。今年開催されているカサヴェテスのレトロスペクティヴに、濱口監督はこんな言葉を寄せている。

 

 ジョン・カサヴェテスの映画を見てしまった人生と、見なかった人生。幸福なのはどちらか、わからない。しかし見たことを後悔した日は1日たりともない。

 

 僕は今夜、「ハズバンズ」を見る。ここで今文章を書いている僕は、紛れも無く「それを見る前」の人生を生きている。見る前と見た後で、一体何が変わるのだろうか。それはわからない、けれど確かに、僕は「それを見た後」の僕になりたい、と今、思っている。

 続きはあとで書く。

 

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 「ハズバンズ」を見終えた帰り道、高速を走りながらAnalogfishの「Nightfever」を聴いた。この曲の美しいピアノの旋律と流れるようなポエトリー・リーディングは、夜の首都高で聴くのが一番良い。

 

 センターラインはどこにある?

 

 僕らはいつも、センターラインを探している。何かしらの答えを探している。そこに至るまでの理由や、プロセスを探している。

 けれどもしかしたら、「センターライン」も「答え」も「理由」も、どこを探しても見つからないのかもしれない。それはどこかに隠れている、とか、遠くにあって見えない、とか、そういうことではなく、そもそもが「無い」のかもしれない。

 まともに生きる、ということなど、できるはずがない。自分にとって一番最適な、バランスの保たれた生活など、きっとどこにも無い。生きている限り悩み続け、その場その場で何かを取捨選択して、やり過ごしていく。それは誰かから見れば間違った選択であることもあるし、誰かから見れば正しい選択であることもある。では、それは自分から見たら、どう映るだろうか?

 「ハズバンズ」はそういう映画だ。映画を見ることは、自分を見つめることでもあるのだ。夜道を車で走り、白線の間のセンターラインを探しながら、そこから不意にはみ出したくなる衝動を、必死でこらえ続けた。

 

2023年9月22日(金)

 仕事に行った。忙しなく業務を片付けて上がり、土砂降りの雨が降り頻る中、職場の人たちと飲みに行った。

 人によって異なる問題を、自分に引き付けて考えることしかできない自分が、本当の意味で誰かに優しくなることなどできるのだろうか。きっとそれは永遠に叶わない、けれど、その不可能性を自覚することこそが、優しさへの契機を切り拓くのかも知れない。そんなことを思った。

 すっかり更け込み、酔いの回った足取りで居酒屋を出ると、雨はいつの間にか上がっていた。アスファルトが雨に濡れ、涼しい風が吹いて良い匂いがした。今日が、季節のちょうど境目かも知れない、と、なんとなく思った。

 

2023年9月23日(土)

 朝から歯医者に行って、親知らずを抜いた。麻酔が切れ始めてから痛みがどんどん増してきて、また昨日の夜にぶつけた足の薬指が青く腫れ始めていて、散々だな、でも一石二鳥か、と不甲斐ないことを考えながら処方された痛み止めを飲み、二回ぐらいに分けて昼寝をした。

 何も食べる気が起きないけれど何か食べなければいけない。そんな後ろ向きな気持ちで左足を引き摺りながら近くのコンビニに出向き、柔らかくて食べやすい夕食を買った。コンビニを出ると、大粒の雨が降り始めていた。どこへでも行けるはずなのに、どこへも行けない。それがただただ、悲しかった。

 当たり前の幸せを享受することの難しさ。慣れてしまえばなんてことの無い日常が、今の自分には輝いて見える。幸せの尺度を人と比較することはできない。けれどもっと言えば、自分の中にすら、幸せに対する明確な基準を持つことはできないのだ。そこに大きな振幅の無い、低く安定した感情を持ち続けたい、と願ったとしても、その「低く安定した感情」がどれほどのものなのか、自分にもよくわからない。何もかも幸せ、なような気もするし、何もかも不幸だ、というような気もする。こうして一人で過ごしていると、そうした途方も無い自家撞着に陥ってしまう。

 だからこそきっと、僕らは一人では生きていけないのだ。他人と生きることは、他人と比較すること、では無い。自分で見出すことのできない幸せを、自分ではない誰かの目を通して自分の中に見出すこと。逆に自分が見出した幸せを、誰かと分かち合うことで、自分にとっても確かなものにすること。そうしたキャッチボールを繰り返すことでしか、僕らは幸せを享受することはできない。だからこそ僕は今こうして、誰かに読んでもらうことを願いながら、日記を書いているのかもしれない。

 なんだか暗い日記になってしまった。けれどそれは僕が今日、一日中一人で過ごしていたからかもしれない。会いたい人がいる。明日は会えるだろうか。会えたらいいな、と思った。