作曲に関するあれこれ

 今年に入り、久々に作曲をしよう、と不意に思い立って、幾つか断片的で形にならないものを作り続けている。昨年の7月ぐらいから作曲にはほとんど手をつけておらず、それよりも文章を書きたい、という欲求に対して素直に、毎日日記を書き続けてきた。そうした一年を通して何を得たのか、結局の所はよくわからないが、文章の良し悪しはともかくとして、自分の中で「文章を書く」という行為が身体に染み付いてきたような感覚が少なからずある。何かを書こう、と思えば、とりあえず置いた言葉から次の言葉が自然と導き出されてくる、と言うと格好が良いが、僕にとって「文章を書く」という行為は明確な意思の無い、受動的な運動に過ぎない。きっとそれは人との会話においても同じことで、自分が言った言葉や、あるいは誰かが言った言葉から次の会話が生まれる、というのは、身体的な「慣れ」というか、共鳴のような反応に身を委ねている部分が大きいのだと思う。長い休みを通して特定の人としか会話をしていなかった自分が、明日から始まる仕事の場で他人と上手くコミュニケーションが取れるのだろうか、と不安に思うことも、多分、原理としては同じことだ。

 そうした運動にどっぷりと浸かり続けた一年の後、いざ作曲をしよう、とソフトを立ち上げ、適当な音を打ち込んでみると、どうにも次の音に上手く繋がらない。文章を書くことも作曲をすることも、0から1を生み出そうとする点においてはきっと同じことだが、考え方というより、身体的な運動の原理がそもそも異なっているような気がする。それが一体どういうことなのか解明したい、と思い、とりあえず慣れたやり方を選んで今、この文章を書いている。

 作曲、というと範囲が広いが、自分がやっているような歌詞のあるメロディが主旋律となる音楽、にとりあえず限定して考えると、デモを作る作業は幾つかの段階に分けられると思う。それは①基盤を作る(ビート、コード進行、主旋律ではない背景の音、などを作る) ②主旋律のメロディを作る ③歌詞を書く と、大まかに纏めればそんな所だろうか。この①〜③をどのような手順で組み立てていくか、というのは人それぞれだが、僕の場合はかなりぐちゃぐちゃに、その時々に浮かんだものをバラバラに散りばめながら、徐々にそれらを統べるように全体の体裁を整えていく。適当な鼻歌でメロディと歌詞が一緒にできることもあるし、歌詞があってからメロディを当てはめる、ということもある。メロディからビートが生まれることもあれば、ビートからメロディが導かれることもある。それは本当にその時々によって異なって、何から始めれば上手くいく、ということもない。だからとりあえず、何も考えずに、頭の中で鳴っている音に正直に、掴み取っていくしか方法が無い。

 きっと僕が今悩んでいるのは、こうした作曲の「取り留めの無さ」ではないか、と書きながら思い至る。そう、文章を書いていると、こうして「書きながら思い至る」ということが当たり前のように約束されていて、時間を掛ければその分何かを書くことができるし、流れに沿いながら運動を続けることができる。それが全体の分量にも繋がる。しかし作曲の、特に0から1を作ろうとする段階においては、何からどのような反応を受けて次を生み出すことができるのか、ということが手を動かさなければ全く見通せない。無限の宇宙の中で、散りばめられた点を線にしていく作業は、時間を掛ければ成せるようなことではない。5時間かけても何も作れないこともあるし、5分で何らかの形になることもある。それはやはり、文章を書くことと、作曲をすることの根本的な原理の違いのような気がする。

 そしてさらに作曲を進めていき、アレンジの段階になると、今まで組み立ててきたものにさらに何かを足したり、組み立てたものを一度崩して何かを引いたり、という作業が必要になる。これが本当に、答えが無い。売れているアーティストであればきっと、自分達の耳とプロデューサーの耳、があって、こうした方が良い、というアドバイスを信じて何かを削ったり、加えたりする、ということを繰り返しているのだろうが、これを自分達の手でやろうとすると本当に際限が無く、たったの一小節を作るだけでも膨大な時間が掛かる。そしてそれも時間を費やせば費やすほど良い、というものでもなく、聞けば聞くほど自分の耳が鳴っている音に慣れていき、正常な判断ができなくなる。客観的な判断をしてくれる人がいない状況では、それを自分自身で判断する必要があるのだが、そのためには本当に、頑固と言われるほど自分の判断に対して自信を持つ必要がある。そうした自信と、何かを加えたり削ったりする勇気が無ければ、アレンジを推し進めることはできない。これは本当に、身体的にも精神的にも途方も無いエネルギーが必要となる作業だ。

 文章を書きながらも、少し前に戻って何かを足したり引いたり、最終的にざっと全体を読んで段落を追加したり、といったことは少なからずあるものの、あくまで僕の場合に関して言えば、全体としてはほとんど変えることは無い。変えなければいけないのかもしれないが、変えてしまってはいけない、という思いの方が強い。それは、文章には書いている時のリズム、というか呼吸、のようなものがきっとあって、それは思考の流れに沿ったものだから崩してしまうと読む際の障壁、あるいは躓きとなる、と考えているからだ。今、「リズム、というか呼吸」と書いたり、「障壁、あるいは躓き」と書いたりしたが、こうしたものがきっと文章の流れ、のようなもので、それをどちらかに定めることは思考の流れを崩すことになりかねない。文章の量が規定されていれば削ることもあるだろうが、できる限りこうした部分を残した方が読み手にとってスムーズな文章となるのではないか、という思いは、沢山の優れた作家の文章を読むことを通じて、なんとなく自分の中に浸透してきた。

 しかし作曲においては、「リズム、というか呼吸」というような組み立て方をすることは許されず、それをどちらかに限定しなければいけない場面が多すぎる。それは歌詞だけでなく、音においても同じことが言える。と書きながら、何をわかったように書いているのだ、と自分で自分にツッコミを入れてみるが、こうしたツッコミすらも作曲においては許されない。自分の生み出すものに常に自信を持ち、それを断固として提示してあとは聴き手に任せる、という覚悟が、作曲には絶対に必要なのだと思う。もしかすると僕は今、そうした覚悟から逃げ続けているのかもしれない。

 また、よく「歌詞が書ける人は文章を書ける」と言われたり、歌詞を書くミュージシャンが簡単に小説を書いたりすることも多いが、それは何かが根本的に間違っているような気がする。歌詞を書くことと文章を書くことは、本来全然異なる行為ではないか。それは散文と韻文の違い、と言えるかもしれないが、音楽の場合、そこに具体的な意味は必要とされない(これはあくまで僕の持論、というか好みの話だが)。メロディと歌詞の響きによって生成される身体的な心地良さや、説明できない感情の昂揚が、音楽にはある(もちろん文章にもある、のだが、いったんそれは度外視する)。言葉で説明しないからこそ、言葉で説明できない感慨がそこに生まれる。そこには無限の可能性がある。しかしそれが無限であり過ぎるが故に、生み出す過程においては先に書いたことと同じような、迷いを払拭する自尊心、覚悟が必要になってくる。それを当たり前のようにやれる人たちもいるが、正直、当たり前のようにそうして自分の言葉に自信を持てる人たちを、僕はあまり好きになれない。常に言葉を規定することに迷いながら、音に耳を傾け続けること。そこに長い時間をかけ、苦心してやり遂げる人たちこそが、本物の芸術家である、と僕は思う。とは言いながらも、パッと思いついた言葉が一番良い、ということが起きてしまう場面もある、という点に、文章とは異なる作詞の難しさがある。

 小説家・保坂和志は、「芸術とはまず、量だ」と書いていた。僕もそう思う。文章を書くことも音楽を作ることも同じ「芸術」だと言えるとすれば、そこにかけた時間と労力が嘘をつくことはきっと無い、と信じたい。午後の頭からこの文章を書き始めてもうじき2時間が経つが、その時間の長さがこの分量になった、ということは、自分で読み返しても他人が読んでも厳然とわかる。しかし今日の午前中、同じぐらいの時間をかけて作曲をしたが、正直何一つ形にすることはできなかった。その具体的な成果の見えなさに対して、僕は辟易しているのかもしれない。

 成果物が目に見えることと、見えないこと。答えがわからない問いに迷っていることと、その迷いをそのまま形にすること。そのどちらにも同じだけの時間をかけている、ということを、僕はもっと理解しなければいけないのかもしれない。それは、この文章を書き上げた、ということで満足してはいけない、という、自分への戒めでもある、のかもしれない。とりあえず、腹が減った。