20231112-20231118

2023年11月12日(日)

 買い物やら家事やらを終え、さあ、何か書くか、と思って机に向かうも、何も書く気が起きない。色々なことがあって、色々なことを思ったはずなのだが、いざ机に向かうと書き出しの一行が何一つ思い浮かばない。諦めてパソコンを閉じ、ソファのいつもの定位置に体を横たえてポケットからスマホを取り出し、メモ帳を開いて今、日記を書いている。

 手紙にせよ日記にせよ、数年前までの長い歴史の中で、何かしら文章を書こうと思った人は皆机に向かってきたはずだ。墨を硯り半紙に筆で書いていた時代もあれば、作文用紙にペンで書いた時代、パソコンに文字を打ち込む時代と、形態は変われど、皆机に向かって物を考え、思いを形にしてきた。けれど僕は今、こうしてソファに横になり、だらけた体勢で軽量のスマホフリック入力で文字を打ち込んでいる。そう考えると今の自分は、途轍もなく大きな歴史の流れの転換点にいるような気がするのだが、これが良いことだ、とは到底思えない。

 言葉を文字に起こし、形にすることがこんなに手軽になってしまって良いのだろうか。思いを形にして相手に伝えることは、本来もっと時間や労力のかかることであったはずだ。そうして苦心して形にされる言葉と、今こうして、簡単にフリック入力で書き付けている言葉が、同じ重みであるはずがない。僕が毎日こうして日記を書いていることと、トーマス・マンパウル・クレーが戦時下の苦境の中で日記を書いていたことには、それが「書かれる」ことのハードルからして既に大きな隔たりがある。そんな想像力すら持たずに、日々長文を書くことにどことなく満足感を覚えていた自分が、急に恥ずかしくなる。

 しかしこうしてソファに横たわり日記を書いていても、それなりの苦労や心配は芽生える。それは、そうした過去の先人たちが書いてきた言葉の重さに、自分自身は到底及ぶことができない、という諦めに近い感情である。文字を書くことがあまりに簡便になり、今考えていることと言葉にされることの距離が極度に近づき、あるいはそれは言葉が思いを追い越してしまうような速さでもあって、僕は自分の言葉をしっかりと自分のものとして、掴むことができていないような実感がある。以前書いた日記を読んでも、こんなことを自分は考えていたのか、と、ふとわからなくなることがある。だからきっと僕は本当の意味で言葉を「考える」ことなどできていなくて、上滑りするように自分の思いと近しい言葉をなぞらえているだけなのではないか。

 例えば古井由吉の文章を読むと、そこに書かれていることと、自分がそれを読み、考えていることの意味、というか価値が、決して等価ではないことを思い知らされる。一行を読み、次の一行を読んだ時に、既に前の一行で書かれていたことを掴むことができていないことに気付く。そうした無力な読者としての自分が、いつもそこには立ち現れる。それはきっと、古井由吉が文章を書くスピードやそこに費やされる労力と、自分がその文章を読むスピードと労力が釣り合っていないからなのだ、と思う。「速読」が善とされる世の中だけれど、きっとある一定の速さでは読むことができない文章があり、書くことができない文章がある。古井由吉の文章を読むと、そうした昨今の悪習にまみれているだけの自分のあり方が、とても卑しいものであるように感じられる。

 「遅く読む」ことと、「遅く書く」こと。それが大事なのだ、と強く言いたいところだけれど、僕は今、早く風呂に入りたくてものの数分でこの日記を書いてしまった。「時間が無い」ことが悪いのではなく、「時間が無い」と思っている自分が悪いのかもしれない。そうした反省をこうして言葉にしたところで、一体何の意味があると言うのだろうか。

 

2023年11月13日(月)

 冬のような寒さで目が覚めた。カーディガンを羽織り、あたたかいコーヒーを淹れて椅子に腰をかけると、ゆっくりと流れていく時間の中で、窓の向こうから普段は聞こえない音が聞こえてくるような気がした。これからやってくる大好きな季節の足音に胸を躍らせながら、今から仕事に行かなければいけない、ということが信じられないでいた。

 季節の足音は、聴く耳を持たぬ人には聴こえない。けれど、それは確かに存在する。音は、それが音として空気を振動させ、鼓膜に伝わるから「聞こえる」だけでなく、それを感じようとする個人の主体的な能動性によって、心の中で響き始める音がある。日本語では、自然と耳に入ってくる音を「聞く」、こちらから注意を向け、積極的に耳を傾けることにより受け取ることのできる音を「聴く」とあらわすが、それはピアノの音色や歌といった音楽を「聴く」のと同じように、季節や環境、時間といった概念に関しても当てはまる。冬の足音は「聞こえる」ものではなく、「聴く」ものだ。そんな確信がある。

 音として存在するものだけが「音」では決して無い。それは沢山の芸術作品に触れることで、なんとなくわかってきたような気がする。美術館の壁にかけられた作品を見つめながら、これを自分は今「見て」いるのではなく、「聴いて」いるのではないか、と錯覚するような絵画もあるし、目を閉じてヘッドホンで耳を覆いながら、あたかもその光景を「見て」いるのではないか、と錯覚するような音楽もある。何かを主体的に受け取ろう、という姿勢は、五感の如何を問わず、その作品に対して自身をひらく契機を与えてくれる。それが「内面の豊かさ」であると、僕は思う。そうだとすれば、季節の移り変わりを目で見、肌で感じるだけでなく、それを自身の心の耳で聴き取ろう、とする姿勢を持つことで、生はもっと豊かなものへと変化していくのではないだろうか。

 そんなことをぼんやりと考えていたら、いつの間にか時間が経っていた。そろそろ身支度をして、家を出なければいけない。見えるものだけを見て、聞こえるものだけを聞け、と半ば強要されるような世の中だけれど、そんな外圧に屈せず、僕は見えないものを見て、聞こえない音を聴き続けていたい。出勤前の朝にこんなことを考えてしまって、一体どうするつもりなのだろうか。

 

2023年11月14日(火)

 仕事に行った。なんだかずっと、眠たかった。

 

2023年11月15日(水)

 仕事に行った。疲れ果てて家に帰り、何かを書く気も起きず、何かを読む気も起きず、スマホでなんとなく流れてきた格闘技の動画を見ていた。

 この人たちはなんのために、誰かを殴ったり、殴られたりしているのだろう。僕は誰かを殴ったこともないし、殴られたこともない。殴りたくもないし、殴られたくもない。そうやって生きてきた僕には、僕なりの思いがあるわけだけれど、人を殴ったり、殴られたりして生きてきた人には、その人なりの思いがきっとあるはずだ。

 誰かを殴るためにはエネルギーが必要だ。殴る、とまで言わなくても、誰かに対して非難の意を投じたり、傷つけたりすると、その分の痛みは絶対に我が身に立ち返ってくる。自分自身が消耗せずに、相手を攻撃することはできない。僕はいつもなんとなく疲れているし、自分を消耗させてまで誰かを傷つけよう、と思うことはない。けれどそれは、もしかするとただの逃げなのかもしれない。無口でいたり、誰に対しても極度な干渉はせず、中立でいよう、と願うことは、優しさでもなんでもなく、他者に対する無関心さや、関係性への怠惰のあらわれなのかもしれない。時には誰かを否定し、そこに対して圧を加えることも、一つの愛の形なのかもしれない。一周まわって、そんなことをなんとなく、思う。

 自分を自分で傷つけることはできるのだろうか。誰かと殴り合うことではなく、自分を自分で傷つけることで、愛を求めることはできるのだろうか。リストカットする人って、こういう気持ちなのかもしれない。僕はしないけれど。ちょっと疲れすぎている。

 

2023年11月16日(木)

 仕事に行った。

 帰ってきて、いつも通り最寄りのコンビニで夕飯を買い、自宅の階段をのぼろうとした時、ふと立ち止まって来た道を引き返し、コンビニで原稿用紙を買ってきた。家に帰って手を洗い、うがいをした後、すぐに包みを開いて紙を取り出し、今、いつから置いてあったのかわからない合格鉛筆〈五角〉を使って、この日記を書いている。

 いつもはスマホフリック入力で日記を書いているが、先日日記を書いてからというもの、そうして簡便に、ラフな体勢で文章を書いていることに少なからず違和感を覚え始めていた。こうして書いていて思うのだが、スマホフリック入力は紙に鉛筆で書き付けることに比べて圧倒的にスピードが速い。それは自分の思考と同等ぐらいのスピードか、あるいはそれを遥か上回るような速さで、どことなく発する言葉がうまく掴めず、上滑りしていくような感覚を持っていた。難しい漢字だって、予測変換で簡単に書くことができる。と、こうして「難しい」とか、「予測変換」とかいった言葉を書くことすらもおっくうになるぐらい、自分の手で文章を書くことは面倒だ。(別に「億劫」ぐらいブログに打ち込む時にパソコンで変換すれば良いのだが、今日はなんとなくできるだけ、手で書いたものをそのまま形にしようとしている。)字面で簡単に読み返すこともできない。圧倒的な不便さを前に、僕は今、日頃自分がどれだけ文明の力に頼って生きているのか、右手の疲れとともに痛切に感じ始めている。

 言葉が出てくるスピードは人それぞれだ。頭で色々なことを考えているからと言って、それをそっくりそのまま、そのスピード感で相手に伝えることができるか、と言うと、それは人によって異なる。どれだけ伝えたい、と願っても、それを上手く言葉にできない人はいるし、そこに至るまでの労力や負担の感じ方は千差万別だ。こうして実際に文字にして書いていると、それは肉体的な問題でもあるような気もしてくる。誰かに何かを伝えよう、と試みる上での粘り強さ、辛抱強さは、そこにどれだけのエネルギーを費やすことができるか、という、身体的なタフさもきっとある程度必要だ。

 僕は今こうして書いていて、正直ものすごく疲れている。できることなら早く切り上げてゆっくり風呂に浸かりたい、とそれしか考えられなくなってきたけれど、それと同時に、こうして自分の手で何かを「書く」ことに、不思議な恍惚を覚え始めてもいる。

 全身全霊で何かに向き合うことは、端に追いやられるような世の中だ。クールな時代、と言っても良い。何事も効率よく、身体的な負担を最小限に取り組むことが是とされる時代に、こうして自分の手で何かを書くことは、自己満足だとしても、自分の強い意志で世界に対峙できているような気がして清々しい。というより、僕はこうして文字にして書くことで、今強く、何かを「書いている」という実感を得ている。そしてそれはなんだかものすごく、僕にとって大切なことのように思える。

 右手の腹が真っ黒になってきた。筆圧が濃すぎて、もうこの鉛筆では長く書くことはできなそうだ。あいにく鉛筆削りが手元にないから、今日はそろそろ終わろうと思う。明日は休みだが、きっと文房具屋に鉛筆削りを買いに行くことはないだろう。こうして毎日原稿用紙に何かを書くことは、どう考えてもあまりに大変だ。コンビニで買った二十枚入り原稿用紙のうち、今日は四枚しか使わなかったが、残りの十六枚に思い切り言葉や想いの丈を尽くす日が、またいつかやってくるのだろうか。


2023年11月17日(金)

 仕事に行かなかった。いつもなら職場に着く時間に目が覚めた。雨が降っている音が聞こえて、カーテンを薄く開くと、案の定雨が降っていた。雨が降っているから、雨が降っている音は聞こえるのだけれど、その時はなんとなく、雨が降っている音が聞こえるから、雨が降っているのだ、と思った。それは決して同じことではないような気がした。

 午前中は時間をかけて、クローゼットの掃除をした。掃除をしなければ、とずっと気に掛かっていた場所を掃除すると、やはり気持ちが良い。部屋の乱れは心の乱れ、と言うが、整理されていない場所を抱えて生活していると、身体にしても心にしても、何かしら綻びが生じるものだ。いつも目の端で気付かないふりをしていた場所を綺麗に掃除し、夏物と冬物の入れ替えを済ませ、疲れた身体を回復させるために近くの蕎麦屋に行った。心はすっかり晴れたな、と思いながら蕎麦を食べ、時間が経って店の外に出ると、雨もすっかり上がっていた。

 それから電車に乗って新宿に向かい、早稲田松竹オタール・イオセリアーニ監督の『月の寵児たち』を観た。18世紀フランス・パリの、絵皿と貴婦人の裸体画を巡る群像劇。「月の寵児たち」というタイトルにも関わらず、月は一回も出てこなかったな、と思ったけれど、僕ら人間はどこに住んでいても、等しく月に見守られながら生きている。それぞれの登場人物が、それぞれの思いを抱えて生きているのだが、その一つ一つを映し出すカメラがまるで月のように、人々の生活を優しく照らし出しているような映画だった。

 映画のような人生に憧れる。これまでの人生で何百本と映画を観てきたが、観るたびにそこに描き出される暮らしに没入し、まるでその人生を束の間生きているような感覚を得てきた。どれだけ悲惨な状況が描かれていても、そこには「映画的」なる世界があって、それは「映画的」であるが故に何か特別なものとして、そこに存在していた。そうした時間を過ごした後に、一人で街を歩いていると、自分の人生が何かすごく特別なもののように思えてくる。それが素晴らしいものか、価値があるものか、ということは判断することはできないし、そうした誰かとの比較には何一つ意味が無い。けれど、それが「特別なものだ」ということだけは、きっといつも確かだ。自分の人生が特別なものである、と気付くことで、僕らは自身の生活を真っ直ぐに見つめることができるようになる。映画や小説は、いつもそうやって気付くための契機を与えてくれる。

 家に帰り、久々に家に遊びに来た連れ合いと一緒に夕飯を食べた。それから階段の踊り場に出て、自宅に帰って行く連れ合いの背中を見送った後に夜空を見上げると、星が美しく瞬いていた。沢山の星に優しく照らされるこの地球上で、僕らは誰かと出会い、誰かに支えられながら生きている。僕自身が、燦爛と輝く星々や今日観た映画のように、誰かを優しく照らし出すような存在になれるだろうか、と、不意に思った。

 

2023年11月18日(土)

 uplink吉祥寺で、イ・チャンドンシークレット・サンシャイン』を観た。

 『オアシス』『バーニング』を観てからというもの、僕は「イ・チャンドンの映画こそ人生だ」と言っても良いぐらい、彼の描く作品世界に強い敬服と憧憬の念を抱いてきたのだけれど、イ・チャンドンの映画は現行で観ることのできる作品の数が非常に限られている。しかしついにこの秋、彼のレトロスペクティヴが東京で開催されると聞いて、封切りから間もなく飛ぶように吉祥寺までやってきた。

 「イ・チャンドンの映画こそが人生だ」と思う所以は、こうして言葉にして説明できる次元を楽々と超えている。それは映画の中にしかあらわれない魔法のようなものだ。彼の映画を観る、という行為を通してしか生きられない世界があり、癒されない魂がある。それは僕にとって、ある一つの信仰のようにも思える。

 イ・チャンドンの映画を観ると、「宗教」というものが抱える根本的な矛盾について、彼がかなり厳しい視線を向けていることがわかる。慎重に言葉を選びながら書く必要があるけれど、何かを信じる、ということは、何かを見ないようにする、ということでもあると僕は思う。「汝が隣人を汝自身の如く愛せよ」というキリストの説教は、自分を愛することのできない人には根本的に意味を成さず、「他人を赦そう」という説教に従おうとした時、既に神から赦しを受けた他人を、自分は赦すことができない、という矛盾と、人は否応無く衝突することになる。人々の感情は決してある一定の方向に定められるものではなく、あらゆる方向へと無秩序に放射していくものだ。そんな世界を「教え」という限られた世界にとどめようとする宗教の世界観は、誤解を恐れず言えば、かなり暴力的だ。

 「芸術を信じる」とは、そうした無限に広がる人々の感情を、無限であるがまま受け入れる、ということでもある。芸術作品には、そうした懐の深さがある。作品の解釈は人それぞれで、それがどのように実人生に対して意味を持つか、あるいは持たないか、ということも、人によって異なる。それは「人生は一筋縄ではいかない」という言葉で形容することもできるような気がするけれど、「人生は一筋縄ではいかない」ということがある一つの真理や命題となってしまうと、その先に広がりは生まれない。だから僕たちは僕たちなりの想像力を持ち寄り、芸術作品の中から無限の可能性を創造し、それぞれの魂を解放させる。そうした魂の解放こそが、僕たちが真に求めていることであって、芸術はそうした解放へと向かう、この世界で唯一の手段であるような気がする。

 僕は芸術を信じている。芸術至上主義、と言っても良い。どんなに苦しい絶望があろうと、芸術があれば大丈夫だ、と心の底で思っている。それはある意味では信仰とも言えるし、特定の宗教を信じることと大差ないことなのかもしれない。しかし、「芸術があれば大丈夫だ」と思ってはいけない、と諭してくれる所にこそ、芸術の真意がある。イ・チャンドンの映画は、僕にとってそういう存在だ。理不尽で、行き場の無い絶望を物語りながら、「何一つ信じるな」と教えてくれる芸術の数々を、矛盾のようにも聞こえるが、僕は信じ続けていたい。