20231210-20231216

2023年12月10日(日)

 友人と所沢の古本市に行こうと約束していたが、咳が止まらず断念。体調を崩すと本を買いに行けないし、ろくに本も読めない。

 結局映画を観るのも、本を読むのも、身体は動かさないとは言えそれ相応の体力が必要になる。僕らは別に身体や心を癒すために本を読んでいるのではない。闘うために本を読んでいるのだ。そう格好良く言い放ちたい所だが、それにしても本が読めていない。

 近場に買い物に行こうとズボンを履き、ベルトを締めると、腰回りが幾分か痩せてしまっていることに気付いた。身体も痩せ細り、心も痩せ細ってしまったら、いよいよ先は短いのではないか、と急に行く末が案じられてきて、とりあえずたくさん食べて、たくさん本を読んだ。

 

2023年12月11日(月)

 仕事は休み。体調はかなり回復し、久々にどこかに足を伸ばして本を読んだり、日記を書いたりしようか、と考えて、車で行ける範囲の図書館やらカフェやらを検索していると、ふとソファの前に無造作に平積みになっている本の山が目に入る。そうだ、別に本を探しに行かなくとも、本は目の前に沢山あるのだ。なぜ目の前にある本を見ないふりをして、新しい本を探しに出掛けようとしているのか。読んで、書く。それしかない、と語る先人達の言葉が脳内をこだまして、今日はひたすら目の前にある本を読んで過ごそう、と決意する。

 それでもせっかくの休みに家を出ずには居られないのが自分の弱い性分で、どうしたものか、と考えた挙句、そうだ、車の中で本を読めば良いのだ、と思い至る。僕にとって車は、第二の家とも呼べるほど大切なプライベート空間だ。車の中にいれば誰からも干渉されないし、外界の干渉を遮断して快適に過ごすことができる。図書館で独り言を呟く老人や、カフェで隣に座るママ友たちの会話に煩わされることもない。世紀の大発見をした僕は、大量の本とともにいつも本を読む時に背もたれにしているクッションを車の後部座席に詰め込み、意気揚々と走り出した。

 とにかく南へ、山の方へ向かおう、と車を走らせ、目的地に定めた厚木にある七沢森林公園に辿り着いた。終日無料の広い駐車場に入ると、平日であることもあってか、車はほとんど停まっていない。僕は駐車場の一番奥に車を停め、少しだけ窓を開けた状態でエンジンを止めた。それから人目を避けるように車中泊用のカバーで駐車場入口側の窓を覆い、後部座席に靴を脱いで上がって、ソファを背もたれに横たわった。完璧な体勢。それに完璧な環境。少しだけ開けた窓からは、冬の訪れを感じさせる程よい冷気とともに、近くを流れる小川のせせらぎだけが聞こえてくる。フロントガラスの向こうに目を遣ると、「森林公園」の名に相応しい山の連なりが遠くまで果てしなく続いている。どうして今まで思いつかなかったのだろうか、と己の浅薄さを憂いながら、道中で買ってきたカフェオレを片手に、二時間以上そこで本を読み続けた。それから凝り固まった身体をほぐすように少し散歩をし、展望広場のベンチに座って、遅く紅葉した山々を眺めた。

 20代も後半に差し掛かり、周りの友人たちはそれぞれの場所で、それぞれの生き方を見つけ始めている。ある人は結婚し、子供が生まれ、またある人は10代の頃と同じ場所で、変わらぬ夢に向かって自分自身と闘い続けている。幸せのあり方は人それぞれで、そこに向かう道筋も人それぞれだ。他人がどうこう口を挟む余地は無い。それでも時々不安になったり、このままで良いのだろうか、と焦る気持ちに苛まれる。子供の頃に描いた未来など、きっと簡単に叶えることはできない。一番欲しいものは、永遠に手に入らない。それでもそうした諦念を自覚した所から、置かれた場所で咲くための手段や道筋が、ぼんやりと浮かび上がってくる。そうやって誰しもが、生きている。

 自分はここでベンチに座り、呼吸している。目を瞑り、息を大きく吸い込んで、吐き出す。どうしてここにいるのかわからないけれど、紛れも無く僕はここにいる。のぼってきた山道を下れば、大好きな愛車が駐車場に停まっていて、帰る場所がある。文化・芸術について語り合える友人がいて、週末には会いたい人がいる。それだけでもう、十分なのではないか、と不意に思う。何故だか胸が溢れ、泣きたい気持ちになった。

 それからさらに車を南へ走らせ、普段は行かない本屋に行った。結局、欲しい本は見つからなかったけれど、別に良かった。また探せば良いのだ。すっかり日の暮れた夕方のバイパスを走って、くるりのアルバムを聴きながら家路に着いた。明日からまた、仕事が始まる。溜め息をつきながら、その溜め息すらも少しだけ愛せるような気がした。そんな連休最終日の記録。

 

2023年12月12日(火)

 仕事に行った。家に帰ってから、西川美和永い言い訳』を観た。そしてなんとなく、今しかない、と思って、小説を書き始めた。

 

2023年12月13日(水)

 仕事に行った。家に帰ってから、年末の歌番組を見た。

 いつからか、テレビで何を見る時も穿った見方をするようになってしまった。真っ直ぐな歌詞を、真っ直ぐに受け止めることができなくなった。カメラに向かって微笑むアイドルの顔を、作り物だと思うようになった。全員が、どこかで嘘をついているような気がするようになった。

 これは果たして、良いことなのかわからない。文句ばっかり言っていないで、自分が何かを作らなきゃ、と思う。自分が何かを作れていないことに対する苛立ちを、テレビの前で歌う人たちに向かってぶつけているだけかもしれない。いつの間にか、一番なりたくない大人になってしまった。

 僕は今まで、批評家が嫌いだった。文化・芸術は、一定の物差しでその価値を測れるものではないのだから、批評家がその技巧やアプローチの善し悪しを語る意味など無いと思っていた。作品はその時々によって、受け取る側の心境や生活によってあり方を変えるものだ。それをエゴに満ちた尺度で、自分は作れもしないのに我が物顔で語る批評家たちを、ずっと冷めた目で見ていた。

 けれど今は、そうした批評家たちの存在意義もよくわかる。いつの時代も、優れた作家の横には、優れた批評家が居た。「批評する」ことは、何も「批判する」ことだけに向けられるものではなく、その作品を熟練の目で見つめ、解釈し、世の中の人々に受け渡すことでもある。そうした存在無くして文化・芸術は育たないし、誰もがそれぞれの尺度で作品を解釈しているだけでは、知の泉は枯渇していくだけだ。

 いっぱしの批評家を気取るわけではないけれど、僕は今日音楽番組を見ていて、それに対して物申したいことが際限無く胸の中で溢れてしまった。それを敢えてここで書くようなことはしないけれど、全体を通して、ある種の「複雑さ」が単純化され過ぎている、と感じる場面が多かったように思う。「頑張れ」という言葉を、字義通り受け取ることができる人もいれば、真逆の意味で受け取ってしまう人もいる。そうした危険性をわかった上で、彼ら彼女らは歌をうたっているのだろうか。それは表現者として、創作者として、絶対に肝に銘じておかなければいけないことのように思う。それは僕が、「複雑さ」を複雑なまま、あるいはもっと複雑に入り組んだ形で世に投げ掛けてきた、優れた作品に沢山出会ってきたからこそ、思うことだ。

 とは言え、僕はまだまだ自分の目には自信が無いし、別に批評家になりたいわけでもない。文化・芸術全体を盛り上げたいという、大きな野心を持っているわけでもない。僕はとにかく、自分の手で何かを作りたいだけだ。だから何かを批評的な目で見つめることに意味はないのかもしれないけれど、真の意味のオリジナリティなど存在しない、ということも、なんとなくわかってきた。今日見た歌番組で、他ならぬ自分自身の創作意欲が駆り立てられたのも事実だ。それはそれでよかった、と、無理やり自分を納得させてみる。

 

2023年12月14日(木)

 仕事に行かなかった。最近、仕事に行かなすぎている気がするが、本当は全然仕事に行きたくないのだから、人生的なスケールで見れば、きっと「行かなすぎ」た方が良いのだ。

 大森にある映画館で、イ・チャンドンドキュメンタリー映画アイロニーの芸術』をみた。「人生とは、アイロニーだ」とイ・チャンドンは言った。それはある意味では正しい、と僕は思う。自分にとって本当に大切なものは、それを失った後にしか気付かない。人生の本質は、きっと生きている間に見つけることはできない。そうした意味で、僕らは皮肉的な矛盾=アイロニーの人生を生きている、と言えるかもしれない。

 けれど一方で、「人生とは、アイロニーだ」という諦念を持ち得た所から生まれる希望があるのではないか、と少なくとも僕は信じているし、イ・チャンドン自身も、映画を作り続けている限りその希望を捨て切っていない、ということは明白だ。諦めた所から、何かが始まる。不可能性を自覚して初めて、想像力への契機が開かれる。そうした回路への手助けというか、道筋を示してくれるのが芸術の役割だ、と僕は思う。

 「人生とは、アイロニーだ」という言葉は、だからある意味で間違っている。しかし、もはやその言葉自体も反語的な意味合いを含めて発されているのではないか、と思わせる所に、イ・チャンドン表現者としての強靭さがある。何を言っても、何を書いても、何を映しても、そこには「アイロニー」という際限の無い想像力への契機が、否応なく含まれてしまう。ある意味ではそれは不幸なことなのかもしれない、けれど、それが不幸なことのように思えるからこそ、僕は彼の映画を信じてしまう。「誰のことも信じるな」と言われるからこそ、信じたくなるのが人間で、彼の映画にはそうした「人間的な人間」が、沢山映っている。映画を見終えて、改めてもう一度彼の映画を見返したい、と、強く思った。

 

2023年12月15日(金)

 仕事に行った。全然仕事が終わらず、終わらない仕事を家に持ち帰った。出先で貰った冷めた弁当を家で食べるみたいに、なんとなく消化不良な心持ちで、一週間の仕事を終えた。

 

2023年12月16日(土)

 東京の東の方まで行って、買い物をした。東京の西の生まれの自分にとって、東京の東に位置する土地の雰囲気は、「郊外」という点ではどことなく似ているようでいて、しかし決定的な違いを感じさせる場所でもある。建物の高さ、そこに住まう人びとの纏う温度感や装い、風の吹き方や湿度、耳に届く様々な音。何がどう異なるか、と問われると答えに窮するけれど、明らかに何かが異なるこの土地に立つと、自分が今までどれだけ土地の空気に依拠して生きてきたか、思いがけず気付かされるものだ。

 大好きな店をいくつか回り、買い物をした。沢山買うぞ、と意気込んでいる時ほどあまり良い物に出会うことができないのが常で、そうした諦念というか、「どうせ出会えないだろう」という後ろ向きな感情を携えて店に向かうと、そういう時に限って良い物に沢山出会うことができたりする。買えない日と買える日があるが、今日は買える日だった。「買えた」のか、「買えてしまった」のかわからないけれど、どちらにしろマイナスの要素があるのならば、僕は自信を持って「買えた」の方に立ち、常に自分の行動を前向きに捉えて生きていたい。それが、「財布の軽さ」という現実からの束の間の逃避に過ぎないことは、百も承知の上で。