20231008-20231014

2023年10月8日(日)

 昼過ぎから出掛け、蕎麦屋に行った。今週は平日にも蕎麦を食べたから、週に二回、蕎麦を食べていることになるのだが、仕事の合間を縫って食べる蕎麦と、休日に食べる蕎麦は、僕にとってまるで違う。

 味の違いは正直な所よくわからない。チェーン店の蕎麦も、老舗の名店で出される蕎麦も、十割蕎麦も、二八蕎麦も、全部美味しいし何が違うのかはよくわからない。だから違いがあるとすれば、店の雰囲気や使われている器、あるいは一緒にいる人やそこで交わす会話、天気や気候、といった蕎麦とは本来関係無いものに過ぎないのだが、僕にとって「蕎麦を食べる」という行為は、そうした外的な要因を丁寧に見つめる契機を与えてくれる。時間的にも精神的にも余裕があり、その店に愛着を持つことができている時には蕎麦を食べて「美味い」と感じるし、逆に心が休まらず、閉塞感を抱えて食べる蕎麦はあまり美味しくない。食の愉しみは、単に味覚だけでなく、身や心の全てを食べ物に委ねることによって享受できるものなのだと思う。

 今日食べた蕎麦は美味しかった。僕にとってそれは、大袈裟ではなく、人生の救いでもある。それなのに蕎麦は「お前の人生を救ってるつもりなんてねえよ」とでも言いたげな、あっけらかんとした態度で、いつも僕の目の前に差し出される。無理に干渉してくるようなお節介さも、虚飾にまみれた見栄っ張りも、蕎麦からは感じられない。蕎麦はただ蕎麦として、そこに在る。それがまた、たまらなく良いのだ。

 

2023年10月9日(月)

 祝日で、仕事は休み。スポーツの日、だからスポーツをしよう、などとは一瞬たりとも思い至らない自分は、朝から車で実家に帰り、だらだらと一日を過ごした。

 しばらくゆっくりと両親と会話をし、その後美容院に行って、帰ってきた。自宅の階段を上る時、両手いっぱいの荷物の重みに、親の優しさを感じた。僕が今日実家にお土産で持って行ったのは片手で、それも指先で持てるぐらいの紙袋ひとつだ。こんなことではいけない、と思いながらも、タッパーに詰めてもらった昼食の残り物を夕飯にし、たらふく腹を満たした。

 

2023年10月10日(火)

 家で仕事をした。苦しいことは長く、愉しいことは短い。それは自明の理だと思うが、家で仕事をしている時間はなぜか瞬く間に過ぎて行く。堰き止めようと思っても雪崩のように数多の仕事が押し寄せてきて、それらを力一杯に打ち返し、打ち返しそびれたりしながら、ふと窓の外を見ると、もう日が暮れている。仕事というのは、案外僕にとって愉しいものなのかもしれない。

 坂本龍一が連載をしていた頃の「婦人画報」を母親からもらったので、夜の閑居な時間のお供に読み進めている。坂本龍一は古書が好きで、大好きな古書を読むために、デンマークの家具デザイナーであるオーレ・ヴァンシャーのコロニアルチェアを愛用していたらしい。雑誌に掲載されている画像を見る限り、見るからに座り心地の良さそうな椅子だ。僕はそこで膝を組み、日がな古書を読み耽る坂本龍一の姿を思い浮かべ、その美しい姿に溜息を吐く。

 美しい作品を生み出す人は、美しい物を選ぶ。数多ある選択肢の中から、自分に最良の物を選び取る審美眼は、長く何かを見つめ続けた時間と、それにより何度も自分自身を顧みた経験の、積み重ねによってのみ育まれる。それはきっと、言葉についても同じことが言える。

 誰かによって書かれた言葉を、本を通じて読む。そうして受け取った言葉を、自分の中で反芻し、自分なりの言葉に置き換えて発信する。延々、その繰り返し。初めは失敗ばかりでも、そうした営為を懲りずに続けることで、言葉の極致に辿り着くことができるかもしれない。そして、そう信じ続けることこそが、今の僕の生き甲斐であることは疑いようもない。

 なんだか最近、ずっと同じことを考え続けているような気がする。

 

2023年10月11日(水)

 仕事に行った。

 昨日、「ずっと同じことを考え続けているような気がする」と書いたけれど、何かこうして毎日書くことで、自分の中にある核というか、考え方の起点に立ち戻っているような、今が楽しい。

 何を考えていても、突き詰めれば同じ考えに収斂する。たとえばそれが真理だとすると、何かを突き詰めることにも、別に意味が無いように思える。

 けれどそれは、何かを突き詰めて考える、という行為の先にしか導き出されないものだ。いや、厳密に言うと先では無い。何かに辿り着く、と信じて、自分の手を使って掘り進める。その行為の中に、手つきや、掘り進める角度、あるいは速度といった、その人自身の個性があらわれてくる。その個性こそが、自分でもそうしなければ気付かない、本当の声に近いのかもしれない。

 僕は自分の本当の声に出会いたい。そのために、明日も日記を書きたい。

 

2023年10月12日(木)

 振休を使って仕事を休んだ。最近、仕事を休み過ぎているような気がするが、気にしないことにする。「働き過ぎ」はあっても、「休み過ぎ」は無い。というか、働く、ということと、休む、ということの概念すら曖昧だ。今日は仕事に行かなかっただけだ。休む気などさらさらない。

 朝から洗濯機を4回まわし、溜まった洗濯物をベランダに干した。外は空気が澄んでいるけれど日差しは適度に強く、絶好の洗濯日和だった。洗濯機をまわしている間、堀江敏幸『河岸忘日抄』を一章ずつ読んだ。それを全て読み終え、本のページを閉じて一息ついたところで、ちょうど正午を知らせる町のチャイムが鳴った。

 河岸に繋留された船の上で送る、悠々自適な、とはいえ閑居の合間を縫うように立ち現れる諸問題を、ひとつひとつ丁寧に解決しようと試みるだけの暮らし。特段大きな事件も起きないが、心が常に凪いでいるわけでもない。地に足がつく、あるいは地盤を固める、という言葉があるが、そうしたことの不可能性を自覚した主人公が、揺れる船の上で戸惑い続けるような小説だ。

 完璧な幸福などあり得ないし、完璧な絶望も存在しない。僕らはその時々の世界に対して揺れ動きながら、それでも確固たる自我を持っているふりをして、生きている。けれど「本当の自分」を見つめようとすることが、逆に「本当の自分」など存在しない、ということを強く自覚させることでもある。その矛盾は、時に自分を苦しめる。けれどそうした矛盾を自然な形で受け止めるために、この小説の主人公は船の上で暮らす時間を持つ必要があったのだと思うし、僕にとっては、この本を読んでいた時間がそれに当たるのだと、読み終えた今、思う。

 

 近所で蕎麦を食べ、それから車で下高井戸に行ってジョン・カサヴェテスアメリカの影』を見た。この映画はカサヴェテスのデビュー作で、1959年に撮られたモノクロ映画だ。物語の最後に監督からのメッセージとして添えられているように、この映画は全て脚本を持たず、即興の演出で作られたらしい。なるほど確かに、ジャズの自由演奏法のような、際限の無い広がりの可能性を持った映画だったように思う。カメラに映る演技の全てが、恐ろしく自然で、淀みのないものだった。

 虚構と現実、という二者択一を迫られれば、映画や小説は圧倒的に虚構である、と言わざるを得ない。けれど、「虚構の中に生まれる現実」あるいは「虚構の中だからこそ生まれ得る現実」というものが確かにあって、カサヴェテスの映画は、そうした現実の感触に満ち満ちている。それは情景がリアルだ、とか演技が自然だ、といった単純な部分についての話ではなく、映画全体が、何かそうした強い現実感を帯びて鑑賞者の目に飛び込んでくる。時代も土地も隔たった映画が、どうしてこうも強い現実感を、今を生きる自分の中に喚起するのだろうか。それはどうしても、上手く言葉では言い表すことができない。

 カサヴェテスの映画で描かれる登場人物は、言ってしまえば、全然「上手く」いかない。人生が下手、な人たちばかりが、画面上に立ち現れてくる。けれど、人生が上手くいく、あるいは「上手な生き方」なんてものが、本当に存在するのだろうか。

 人生は不条理だ。どれだけ先を見据えて生きていても、絶対にどこかで道を間違える。どれだけ自分を強く信じていても、そうした自分自身がいとも簡単に変わってしまう。世界は不条理だ、ということだけがこの世界の真実で、自分の人生が真っ当かどうか、ということは、その時々の自分の視座でしか判断ができない。それは人生の無意味さ、でもあるし、逆にだからこそ人生には意味がある、とも言える、ような気がする。

 ハッピーエンドや共感といった、束の間の快楽に身を委ねることも悪くはないけれど、せっかく自分の人生の時間を費やして映画を観るならば、僕は圧倒的な現実が見たい。あるいはもっと言えば、現実を超えるような現実を、映画を通して体感したい。カサヴェテスの映画を見ると、現実を超えた何かを「確かに見た」と、強く実感することができる。そうして何かを「見た」ことが、この先何になるのかはわからないけれど、そんなことはわからなくて良い。この実感だけが、僕にとっては不条理な現実と拮抗する、唯一の手段なのだと、強く頷くことができる。それは、他の芸術に関しても、同じことが言える。

 

 映画を見た帰り道、高速を車で走っていたら突然雨が降り出し、家に着く頃には大粒の雨になっていた。急いで階段を駆け上がり、洗濯物を取り込んだけれど、時すでに遅し、4回もまわした全ての洗濯物の左肩が、じんわりと濡れていた。天気予報では、雨が降る、なんて言っていなかったのに。

 頑張ったあの時間は、一体何だったのだろうか。自分が悪かったのだろうか。どうすれば良かったのだろうか。不条理な現実は、こうした考えても答えの出ない幾つもの疑問を、いつも僕らに突きつけてくる。それを何かのせいにしたり、誰かに原因を押し付けることは容易い。けれどそれは、束の間の逃避に過ぎない。

 僕が求めているのは、そうした不条理な現実を、不条理な現実のまま受け取る力、なのかもしれない。それは一見、現実を前にしてひれ伏す弱さのように思えるけれど、僕にとっては、それは紛れもなく「強さ」だ。弱いままでいることの強さ。それを僕に教えてくれたのが堀江敏幸の小説であり、カサヴェテスの映画であった。

 洗濯機をもう一度回すか、回さないか。そうした誰も傷つけることのない逡巡に浸る時間を、愛おしく思えただけで、今日を生きて良かった、と少しだけ思えた。

 

2023年10月13日(金)

 仕事に行った。最近休みが多いからか仕事が溜まっていて、朝から忙しなく過ごした。夜は、職場の飲み会に行った。

 酔っていないぞ、と襟を正したところで、もう既に酔っている。途中離席してトイレの鏡に映った自分の顔を見ると、無理に酔いを誤魔化して眉間に皺を寄せた、間抜けな顔をしていた。

 自分を客観視なんてするな。俺の目は、ここについてる。大好きな曲の歌詞を思い出しながら、誰もいない夜道で、白線を踏み外さないようにして歩いた。

 

2023年10月14日(土)

 友人と蔵前で落ち合い、ランチに美味いカレーを食べた後、東京都現代美術館にデイヴィッド・ホックニー展を見に行った。

 芸術を誰かと一緒に鑑賞することで気付くのは、自分の見えている世界は、自分の目でしか見ることができない、という単純な事実で、同じ作品を見ていても、それを通して受け取る感慨や、発見の箇所が異なる。ホックニーの作品にはそうした、人それぞれの視点の違いによって生まれる発見の契機が、至る所に散りばめられていたように思う。

 友人はホックニーが描く人物の絵を見ながら、「誰とも視線が合わない」ということをずっと疑問に思い続けていた。また、その構図において一つ一つの物体に消失点の違いがあることや、立ち位置によって見える物体の形が違うこと、そこに生まれる違和感に、敏感に気付いていた。僕は最初、「言われてみればそうだな」と思うぐらいで、なんとなくピカソやブラックといったキュビスムの画家が描く絵画を不思議に思いながらも、「不思議なまま」見続ける、といういつもの鑑賞の仕方と同じようにホックニーの絵を見ていたのだが、友人はそうした違和感がどうして生まれるのか、理論的に探っているような感じがして、話を聞いていて面白かった。

 友人はよく写真を撮っているから、きっと写真を撮る人の目は、写真を撮らない人の目とは違った世界との向き合い方をしているのだろう。僕はそれを羨ましく思うと同時に、僕自身の中にある目は、この作品をどのように見ることができるのだろうか、と考えながら、友人とも話をした。そうした時間は豊かで、芸術の価値は人の見方によって無限に広がるのだ、ということの喜びを、五感を通じて強く実感することができた。


 美術館で幸福な時間に満たされた後、大好きな古着屋に行って服を買った。それから蔵前のバーで酒を飲み、酔い覚ましにホットコーヒーを手に友人と隅田川沿いまで歩いて、縁石に腰掛けて長く話をした。

 僕はそこで話したことや、一日を通して得た感慨を、日記にしたいと思っていた。けれどそうした時間というのは不思議なもので、なぜかこうして言葉にしようとすると、上手くその時の高揚感や恍惚を再現することができない。僕が何かを言い、友人が何かを返す。風は穏やかで夜気は心地良く、隅田川は波に揺れ、薄っすらと潮の匂いがした。そこで交わした会話は、そこでしか生まれ得ないものだった。僕はその瞬間を言葉で切り取りたい、という欲求を強く感じたけれど、こうして言葉にしてみると、僕は自分の見えている世界のことしか書けないのだ、という単純な限界を思い知らされる。

 しばらく話をした後、縁石から立ち上がり、隅田川沿いを並んで歩き始めると、友人はおもむろにバッグからデジカメを取り出し、シャッターを切り始めた。特に尋ねたわけではないけれど、もしかすると友人も、僕と同じようなことを考えていたのかもしれない。

 僕が見ている世界を、彼が見ることはできない。そして彼が見ている世界を、僕が見ることはできない。それは自明のこととして、それを何らかの形で受け渡す努力を尽くすこと。そうした営為の先で、何かをこの世界に生み出すことはできるかもしれない。それが人と人が共に生きる、ということの本来の意味なのだと思うし、きっと「芸術を信じる」ということも、それに尽きるのではないだろうか。

 友人から送られてきた夜の隅田川の写真を眺めながら、今日も日記を書くことができてよかった。時々僕の日記を読んでくれている、と聞いていたから、なんだか手紙を書くような気恥ずかしさもあるけれど、僕はここで嘘は書かない、と決めたのだ。互いに元気でまた会いたい。