20231203-20231209

2023年12月3日(日)

 朝起きて、37.0℃。もう熱が上がることはないだろう。とりあえず楽観しておく。

 昨日コンビニで買っておいた冷凍の焼きおにぎりを食べる。冷凍食品は偉大だ。ご飯を炊かなくてもおにぎりが食べられるし、焼かなくても焼きおにぎりが食べられる。そして焼きおにぎりは美味しい。

 一日中家に居て、寝て過ごした。この土日でいったい何時間寝たのだろう。明日はなんとかギリギリ仕事に行けるような気がしないでもないけれど、これで明日ギリギリ仕事に行けてしまったらまるで仕事をするために生きているみたいじゃないか、と思って悲しくなる。頑張って、一刻も早く風邪を治したいけれど、頑張り過ぎた結果で風邪を引いているのだから、風邪を治すために頑張るなんておかしな話だ。というか頑張らない方が風邪は治るのだから、頑張らないことを頑張ろう、とか考えていたら、眠れなくなって、気付いたらもうこんな時間。死ぬまで眠り続けたい。

 


2023年12月4日(月)

 仕事に行ったら、同僚から「テレワークでも良かったのに」と言われた。僕もそう思う。でも、テレワークでも良かったのに一応頑張って来たのだから、「テレワークでも良かったのに」なんて言う前に、頑張って来たことを褒めてほしい。みんなが自分のことしか考えていないのと同じように、僕も僕のことしか考えていないのだ。

 


2023年12月5日(火)

 喉の痛みで目が覚めた。また頑張って仕事に行ってしまった。「喉が痛いこと以上につらいことなんてこの世にあるだろうか」と思ったけれど、鼻が詰まっている時はきっと「鼻が詰まっていること以上につらいことなんてこの世にあるだろうか」と思うだろうし、咳が出始めた時にはきっと「咳が出ること以上につらいことなんてこの世にあるだろうか」と思うだろう。全部書く必要がないことを全部書いてしまうぐらいには書くことがないし、とにかく喉が痛い。うー。

 


2023年12月6日(水)

 朝起きて、喉の痛みはもう無くなっていたけれど、鼻が詰まっていた。それで、「鼻が詰まっていること以上につらいことなんてこの世にあるだろうか」と思った。あるに決まってる。世の中には、つらいことがたくさんある。

 家に帰って、コンビニで買ってきた夕飯を食べた。たくさん買ってきたのに、どれも味がしなかった。人が絶望している時、「味がしない飯を食べる」という表現がよく使われるけれど、別に絶望していないのに飯の味がしない時はどうしたら良いのだろう。絶望していないように思っているだけで、本当は絶望しているのかもしれない。そう考えると、風邪を引いているように思っているだけで、本当は風邪なんて引いていないのかもしれない。

 そこまで考えてなぜか気が楽になって、意気揚々と洗濯機をまわし、風呂に入って体をきれいに洗い、髪を乾かして冷蔵庫を開け、冷えたジュースを一気に飲み干した。けれど、全く味がしなかった。

 

2023年12月7日(木)

 仕事に行った。風邪も治らないし、仕事も終わらない。けれど、きっと風邪が治らないから仕事が終わらないのだろう、と思って、定時後すぐに上がった。本当は、風邪が治ったとしても仕事が終わらないことなどわかり切っていたけれど、今はそうやって信じることが大切なことなのだ、と思う。

 

2023年12月8日(金)

 仕事に行った。鼻が少しだけ良くなって、咳が少し出始めた。けれど、鼻が良くなった分咳が出始めた、とは到底思えず、鼻が良くなった分量より、咳がひどくなった分量の方が大きいような気がしていた。

 何かと引き換えに、何かが改善する。世の中はそうやって、均衡を保つようにできていると思うけれど、僕にとってはいつも、手に入れたものより、失ってしまったものの方が痛切に感じられる。それは気の持ちようでしかない、とはわかっていながら、自分の中で膨らんでいく悲観を妨げることはできない。常に楽観より、悲観の方が大きい。それは過度な期待による絶望を避け、自分を守るためでもある。けれどそんな自分の生き方に、時々疲れてしまうことがある。

 人の幸せや苦労は、数値で表すことはできない。しかし数値で表すことができないからこそ、一方に傾くことなく自分を保って生きていくことができる。そうした「間」のニュアンスに留まり続けるために、僕は幸せな時ほど苦しみを見出し、苦しい時ほど幸せを見出したい、と切に願う。どんなに透き通った場所でも澱みは存在するし、どんな漆黒の暗闇の中でも、一筋の光は存在する。100%などあり得ない。そう信じている。

 しかし不思議なことに、「健康第一」という言葉には反論を見出す余地がない。「健康第一」という言葉は、いつ何時も、常に正しいように思われる。健康であることが悪い方向に働くことは、基本的にあり得ない。それだけは、様々な出来事の価値が複雑に入り組んだこの世界で、ただ一つの自明の事実だ。だからこそ、「健康第一」という言葉は、そういう意味で健康でない人にとっては高い壁であり、ひどく残酷な言葉でもある。

 僕は風邪を引いた身体で、「健康第一」という言葉の前に跪く。今年一年、僕は身体の不調に多く悩まされてきた。その度に、健康は大事だと、強く思った。「健康第一」の有り難みを知れたことが、健康ではない「今」から受ける恩恵なのだろうか、とまで考えれば、やっと「健康ではない」ということを、肯定的に受け止められるだろうか。

 

2023年12月9日(土)

 西川美和監督の「ゆれる」を観た。何度も観て、何度も救われてきた映画だ。この作品に触れたことが、全ての始まりだった、と思えるような作品はたくさんあるが、この作品もその中の一つだ。

 真実と嘘、がある。しかし、それを判断するのが人間である限り、それらはその時々によって真実になり、嘘にもなる。客観的な真実、などというものはあり得ない。それは物事を「客観的に見ている」と信じている人が、本当は主観的にしか物事を見ていない、ということがあるからだ。この映画は、「この世に正解などあり得ない」という単純な事実を、鑑賞者である我々に強く突きつけてくる。

 見えているものと見えていないものがある、ということと同様に、見えないようにしていることと、見ようとしていること、がある、と気付くのは、容易なことではない。僕らはいつも、主観的な目でしか物事を見ることはできない。しかしそうやって気付くことこそが「想像力」であり、そうした想像力を育ててくれる作品こそが素晴らしい、と気付くことができたのは、今思えば、この作品の影響がかなり大きかったように思う。

 映画を観終わり、穏やかな休日を過ごす中で、かなり体調が良くなっていることに気付いた。心と身体は、思いもよらず密接に関わっている。「健康で文化的な最低限度の生活」とはよく言ったものだ。僕らは健康であることと同時に、生活においていくらか文化的である必要もあるのだ。しばらく映画を観ていなかったからか、その事実が今、身に沁みる。寝る前に、もう一本だけ映画を観た。