20231119-20231125

2023年11月19日(日)

 何かを書く、ということは、一体どういうことなのだろうか。

 uplink吉祥寺で、イ・チャンドン『ポエトリー アグネスの詩』を観た。終始静かに語られる映画で、観ている間はどうにも話が散漫で取り留めが無く、『オアシス』や『バーニング』のように衝撃的な展開があるわけでも無かったため、僕はこの映画を自分の中でどのように解釈していけば良いのか、正直わからなかった。けれど観終わった後、鑑賞後感を引き摺ったまま連れ合いと車で語り合い、その後一人で映画とは全然関係の無い色々なことを考えている内に、僕の中にその映画が徐々に根付いていくような感覚があった。今となっては、それについて言葉を尽くして書きたい、と思うのだが、そこで思い至るのが先の問い掛けである。

 何かを書く、ということは、一体どういうことなのだろうか。

 主人公の老年の女性は、自身のアルツハイマーを医者に宣告されながらも、それを楽観的に受け止め、穏やかな生活を送っていた。そしてその満ち足りた生活の延長線上で、何の気なく興味を惹かれた、詩を書く講座を受講することになる。朗読会に参加し、そこで語られる赤の他人の詩や、講座の受講生が語る「自分が思う美しいもの」についての話を耳にしながら、自身も美しいと感じる瞬間をメモに書き留め、詩作に打ち込もうとする。しかしそうした時間を通しても、彼女は一向に詩を書くことができない。何度も詩人に対して「どうやったら書くことができるのか」と問い掛け、そこで指南される通りに自分が感じたままに何かを書こう、と実践するも、掴み取ることができるのは断片的な言葉ばかりで、それは詩にならない。そうしている内に自身の記憶はどんどん薄れていき、今までは簡単に頭に浮かんでいたような言葉を思い浮かべることすら、徐々に難儀になっていく。

 その一方で、彼女は自分が同居している孫が、ある同級生に対して集団で性的な暴力を振るい、自死に追いやってしまった事実を知る。孫を含めて彼女の周囲の人間は、自分の保身ばかりを考え、その自死をお金で解決したり、隠蔽しようと努めるのだが、彼女の苦悶の表情や行動からも読み取れる通り、彼女自身はその喪失をどこか他人事では無いように感じ続けていた。そうした苦しい日々が積み重なっていき、最終的に彼女が書くことができた詩は、どうしたものか、邦題にもある通り、亡くなってしまった女の子ーアグネスの想いを語る、「アグネスの詩」だった。

 僕らは季節を感じ、そうした世界の美しさを自身の五感で切り取り、言葉にすることができる。そうした美しさを誰かに伝えることで、共感し合ったり、慰め合うことができる。けれど死んでしまったらどうだろう。死んでしまったら何かを美しいと思うこともできないし、誰かに言葉を伝えることもできない。それができるのは言葉を持った生者のみであり、死者や、言葉を持たない人たちの思いはいとも簡単に失われていく。そうした世界で、自身が思う「美しいもの」を書く、ということに、主人公の彼女は、どこか違和感を覚え続けていたのでは無いだろうか。だからこそ彼女は、今まで書くことができなかった詩を、死者としてのアグネスの言葉を借りて、彼女が語ることのできなかった、感じるのことのできなかった「美しいもの」について書こう、と、物語の終盤で決意するに至ったのでは無いだろうか。

 死者や言葉を持たない人たちの思いを代弁するために必要なのはただ一つ、想像力だ。それは結局の所想像することしかできないし、想像したところで的外れである可能性もある。そしてどれだけ想像力を尽くしてそうした人たちの思いへと向かっていったとしても、その努力を直接伝えることはできない。「愛」が相互補完的なものであるのだとすれば、そこに愛が生まれる余地は無い。ゴールの無い、果てしない一本道が、水平線の彼方にまでただ続いているだけだ。

 けれど彼女は想像した。死んでしまった女の子の見てきた美しい景色や、体験を追随することによって、想像し続けた。それは祈りとも言えるのかもしれない。目的は無いけれど、ただ誰かに思いを尽くし、祈り続けること。彼女はそうやって想像し続けることを通して、詩を作ることができた。「想像」し続ける行為の果てに、詩が「創造」された。イ・チャンドンがこの映画を通して語りたかったことは、とどのつまり、そのことに尽きるのではないだろうか。

 僕はこうして文章を書くまで、そんな思いには全く至らなかった。けれどこうして書くことを通して、この映画が語ろうとしていた何かを、今は手触りを持った力強いものとして感じることができる。それは主人公の彼女と同様、何かを「書きたい」と強く願う人間として、すごく大切な気づきであるような気がしている。

 映画監督・濱口竜介の講演会の中で、ある参加者が、その語られていた内容について「絶えざる無根拠な運動ーそれこそが真実を語り得るのかもしれない」と要約した。それは素晴らしい定義だと思う。何かを書く、という行為は、無根拠な運動でしかない。しかし、そうした無根拠な運動を通してしか、何らかの真理に辿り着くことはできないのかもしれない。こうして書いていて急に、そんなことを思い出す。

 日記の冒頭で書いた自分の問い掛けに対して、この文章を書き終えた今、僕が答えるとすれば、そこに答えがあると思ってはいけない、ということだ。答えはない、けれどやめてはいけない。ただ想像し、書き続けること。祈るように書き、創造すること。そうすることしかできないし、きっと「書く」ということは、そうした営みを繰り返し続けることでしかないのかもしれない。そんな気づきを与えてくれた、今思えば、素晴らしい映画だった。明日も日記を書こう。

 

2023年11月20日(月)

 仕事に行った。

 家に帰ったら何かを書こう、と決意していたのに、こんな時間までだらだらとYouTubeを見て過ごしてしまった。そして今はもう、眠たくて仕方なくなっている。こんなことではだめだ、と焦りながらも、所詮こんなものか、という諦めが湧いてくる。正直今は、何も書く気が起きない。

 何も書く気が起きない時にも、何かを書く。何も読む気が起きない時にも、何かを読む。そうして自分を抑制し続けた先に、得られる何かがあるのだろうか。無い、と言われたら悲しい。とはいえ、ある、と思いながら続けることも、きっと間違っている。だからきっとそれは、どちらでも良いことなのだ。どちらでも良いのだったら、僕はやっぱり、書くことを選びたい。そう思って続けてきた。

 しかし本当に眠い。今は何も考えずに、泥のように眠りたい。何かを考えることと、何も考えないことの間には、一体何があるのだろうか。それは本当に、明確な差があることなのだろうか。その答えが知りたくて、今日も日記を書いたわけだけれど、結局何一つわからなかった。寝る。

 

2023年11月21日(火)

 仕事で都心に行き、出会ったことのない沢山の人たちの前で、大きな声で話をした。

 僕が大きな声で話すのを熱心に聞いている人もいれば、全く聞いていない人たちもいた。それは僕の目の前で、僕の話す言葉によって起きていることなのだ、ということを頭では理解しながらも、心では全く理解ができなかった。それは、僕が心で話していないからだ、ということを、なんとなく他人事のように思った。

 家に帰ってから、スコットランドの画家であるピーター・ドイグと小説家・小野正嗣の対談を聞いた。ピーター・ドイグは、絵を描くということはリフレクションである、と言った。それも伝統や環境といった外的な要因に根差した反応ではなく、あくまで自分自身の個人的な、経験や思考を通じた反応でしかない、と言っていた。そしてそれこそが彼が作品を描く意味でもあり、だからこそ誰も、自分の作品を自分以上に評価することはできない、と。僕自身の解釈も多分に含まれているが、恐らくはきっと、そういう話だったと思う。

 自分の内側から発せられた何かが、誰かに少なからず影響を及ぼしたとしても、きっとそこにはさしたる重要な意味は無い。それはきっと、ちょうどそのタイミングで、その人が自分の作り出した波から何らかの影響を受ける意味や、必要性があっただけだ。誰かの人生を変える、なんていうことは、決して容易いことでは無い。それは偶然起きることもあるし、起きないこともある。あくまでそれは個人的な、内側で起きることでしか無いのだ。二人の話を聞いていて、僕はなんとなく、そんなことを思う。

 そうやって思うことで、僕は少しだけ肩の荷が下りたような気もするし、逆に自分という存在の無力さを思い知ることにもなった。どんな言葉を放ったとしても、誰かの世界を変えることはできない。もしそれで変えることができるとすれば、それは自分の内にある世界だけだ。それでは、言葉を誰かに伝える、とは、一体どういうことなのだろうか。何かを書く、とは、一体どういうことなのだろうか。最近はずっと、そうした問いに囚われ続けている。

 

2023年11月22日(水)

 仕事に行った。もう本当に、本当に疲れ果ててしまって、これ以上仕事のことを考えていると潰れてしまうような気がする。今まで何度、そうやって思っただろう。そう思うたびに、ギリギリのラインで心と身体のバランスを保つために適度に力を抜き、ここまでやってきた。超えてはいけないラインは、意外と渦中にいる時よりも、渦中にいる自分を遠目から見ている時に超えてしまうものなのかも知れない。とりあえず、仕事のことを考えるのはもうやめる。

 昨日から、家にいる時間のうち何時間もかけてインパルス・板倉俊之の趣味チャンネル「板倉のハイエース一人旅」を見ている。これが面白い、というか、俗な意味で「面白くしよう」という気が全く無いからこそ、見ていてすごく面白い。一人でいる時間の尊さは、一人でいる時間の面白くなさにある。その面白くなさが、どうしたものか、途方も無く面白い。

 「武田砂鉄のプレ金ナイト」というラジオ番組に板倉が出演した際に、武田砂鉄が、「一人でいる時間を撮影して公開する、ということは、本当の意味で一人でいることとは違うのではないか」という、少し意地悪な質問を投げ掛けていた。それに対して板倉は、これは冒険の記録なのだ、と説明していた。冒険の証を老いた後に見返すために、記録に残している、と。

 僕はそうした質問を投げかけた武田砂鉄の気持ちもわかるし、そうやって答えた板倉の気持ちもよくわかる。僕も一人で趣味に没頭している時間が比較的、人に比べて長いと思うのだが、そういう時にある種の「完璧さ」を求める気持ちがある。本当の意味で一人でいる、ということは、すごく難しい。一人でいる方が楽だ、という感情は、一人でいたい、という前向きな気持ちというよりも、多人数でいる時はしんどく、一人でいる時の方がマシ、という、言わば人生に対する諦念というか、幸福になることの不可能性を自覚した上で生まれる感情であるような気がする。だからこそ、僕らは一人でいることを積極的に肯定するために、そこに完璧さを求める。けれどそれは、きっと自然なあり方ではない。

 「一人でいることの不可能を、もっと自然な形で受け入れられるようになれたら」という願いが、堀江敏幸『河岸忘日抄』の中で語られていたのを思い出す。結局僕ら人間は、一人で生きていくことはできない。けれど「一人で生きていくことができない」ということを自然に受け止めるためには、一人でいる時間が必要であることも確かだ。一人で生きることとはどういうことなのか、それを時間をかけて実践し、本当の意味で実感しなければ、孤独の本性を知ることにはならない。そのために『河岸忘日抄』の中で語り手は、異国の河岸に係留された船の上で、雑音も無く、波風も立たない生活を送り始めたのだ、と思う。僕はそうしたあり方に対して、強く共感を覚える。

 「板倉のハイエース一人旅」は、そういう意味で、『河岸忘日抄』と同じ人生観によって成り立っている。一人でいることは不可能だ、けれど、だからこそ一人でいる時間を強く希求する。その根本的な矛盾が、アップロードされた長い動画の数々から、冬の寒い日の結露のように滲み出ている。どれだけ窓の水滴を丁寧に拭き取ったとしても、内側を暖め続ける限り、つまりは本当の意味での「心の寒さ」を自覚しない限り、窓越しに見える世界は曇り続ける。そうわかっていながらも、暖かさがあれば、やっぱり暖かさへと傾いてしまうし、逃げ隠れる場所があることを知りながら、寒さに耐え続けることはできない。けれどきっと、それが人間だ。僕らは人間なのだから、人間であることから逃れることはできない。悲しい哉。僕はいつか、そんな小説が書きたい。

 

2023年11月23日(木)

 勤労感謝の日で仕事は休み。勤労に感謝する、とは、誰が誰に感謝するのだろう、と思って調べてみると、「勤労をたっとび、生産を祝い、国民たがいに感謝し合う」日、とある。感謝をすることに主眼が置かれ、祝日の名に据えられている日は他に無い。自分自身も含め、日々の労苦をいたわる節目として、忙しない年の瀬に読点を打つように休日が設けられたことに「感謝」しながら、穏やかな一日を過ごした。

 中目黒のスタジオで開かれている、気になっていたブランドのポップアップ・ショップに行った。美しい服の数々に囲まれたスタジオは、そこに居続けるだけで幸福な空間だった。僕はその幸福な空間で、意匠を凝らして丹念に製作された洋服を何着か試着し、手が届きそうで届かない、絶妙な塩梅の値段設定に何度も溜息をついた。あくまでギャラリーで絵を見るような気持ちで、それを実際に着て町に出ようなどとは絶対に夢想してはいけない、と強く自制しながらも、頭の中ではそれを着て東京の町を闊歩する自身の姿を妄想することを避けることができなかった。結局、悶々とした思いを抱えながらも、泣く泣くその場を後にした。

 僕は「見られる」ことを目的とした服ももちろん好きなのだが、あくまで「着られる」ことを真っ直ぐに見据え、苦心して作られた手跡のある洋服が、心の底から好きだ。良い服を着る、とは、良い服を着ていることを人に見せびらかすようなことでは決して無く、それを着ることで自分自身が高揚したり、その服が持つある種の哲学を受け入れることで、生きることが楽しくなったりすることであるべきだ、と思う。服が好き、と公言すると、人に依ってはそれを「見てくれだけ気にする、芯の無い人間」と詰られることもあるけれど、僕はそうした一面的な物の見方しか持ち合わせていない人間のことを少しだけ軽蔑している。その人が何かを大切に思い、意を注ごうと努めていることと同様に、服が好きな人間は、自身に見合った服を探すことに本気で、あくまで真摯に取り組んでいるのだ。そうやって物を深く見つめ、何かを選び取ろうとする姿勢は、そのまま他者や自分への眼差しも含めた審美眼を育てていく。僕はずっとそう信じているし、そうした審美眼を持った人になりたい、と強い憧れを抱いている。

 今日、手に入れたいと強く思った服の価格は、それだけで月の半分の給料が飛んでいくような値段だった。それを買う、という暴挙に出ることは、自分の経済的状況を考えればどう足掻いても不可能だった。けれど、今日が本当に「勤労感謝の日」であるとするならば、日々の労働の対価として自身の疲れを癒すようにその服を購入することも、些か間違った行動では無かったのかもしれない。そうやってこじつけて大量の服を買い続け、こんな状況に陥っていることも、頭ではわかっているのだけれど。

 だからこそ今日は、あの美しいコートを二度も羽織らせてもらったことに「感謝」しながら、綿密な手作業の末に生まれたあの服の感触の襞に包まれるように、夢を見ながら眠りにつきたい、と思う。明日も仕事だ。

 

2023年11月24日(金)

 仕事に行った。ブラックフライデーセールが始まっていて、別にそこまで買いたいものなど無いけれど、とりあえず買い物をした。

 

2023年11月25日(土)

 朝起きて、小説を書いた。何を書けば良いのかわからない、と思いながら、何を書けば良いのかわからないのであれば、何を書けば良いのかわからないと書け、と先人達の声が聞こえて、そうした声に背突かれるように、「何を書けば良いのかわからない」と書いた。

 それから賑わしい渋谷の街に行って、北野武『首』を観た。沢山の人たちの首が斬られていて、沢山の人たちがそれに群がっていた。それは悲惨な光景なのに、どこか阿呆らしくも見えた。そしてそれは、そっくりそのまま現代にも当てはめることができるような気がした。僕らは結局、一つの首に過ぎない。首であるが故に自由を拘束され、何かを守るためには、それと引き換えに首を差し出さなければいけない。色々と形は変わったけれど、結局人間の根本は、昔から何一つ変わらないのかも知れない。

 ルノアールでココアを飲みながら、堀江敏幸『中継地にて』を読み切った。これについて、今急いで何かを書くのはよそう。僕のこれからの人生で、いつか絶対に、この作品を読んだという事実と向かい合う瞬間がある。この作品という船が、僕の人生を、どこか素晴らしい場所に運んでくれる。そうした確信が生まれることは数少なく、だからこそ心から、素晴らしい読書体験だった。