20231105-20231111

2023年11月5日(日)

 何を書けば良いかわからない時に、「何を書けば良いかわからない」と書く勇気が必要だ。それができれば、やっと本当の意味で、日記を書くことができた、と言えるのだと思う。そうやって自己弁護することしかできないが、僕は本当に今、何を書けば良いかわからない。

 


2023年11月6日(月)

 仕事に行った。夜は風が強く吹いていて、全然寝付けなかった。と、こうして寝る直前の出来事を書いている、ということは、今日の日記を今日の内に書けなかった、ということを意味してしまう。そう考えると、寝る直前に起きたことを、本当の意味での「日記」として書くことは不可能だ。だから日記は常に、回想でしかないのかもしれない。そんな当たり前のことを、思った。(いや、思わなかった。それを思ったのは、この日記を書いている、数日後の今だ。こんな面倒くさい補足が本当に必要なのだろうか。)

 


2023年11月7日(火)

 仕事に行った。最近日記を書けていないなあ、と思いながら、ぼんやりとAudibleを聴いていた。

 


2023年11月8日(水)

 仕事に行った。

 みんなが右を向いている時に「左を向こう」と勇気を持って発することは難しい。結局は世の中、多勢に無勢、自分の中にどれだけ「こうだ」と思う意見があったとしても、それを口にすることは結果的にネガティブな方向に進んでしまうことが多い。伝え方によって得られる理解はもちろんあると思うが、伝え方に趣向を凝らせたところで、それが長くなったり、複雑化していくと、受け取り手の忍耐力が無い場合それは思うように伝わらない。言ってしまえば、どれだけ想像力を働かせたところで、想像力の無い人には究極のところ伝わらない。そして昨今、新しさに対する評価や、効率の重要性がどんどんと増して行き、時間をかけて想像力に到達する辛抱強さは、どうしても端に追いやられてしまう。しかしそれでも、何かを伝えるためにはある程度の長さが必要だ。何も自分に想像力がある、と言いたい訳ではないけれどーーいや、もしかするとそう言いたいだけなのかもしれないけれどーー考え込んでしまう人は、考え込んでしまうが故の苦しさに、常に悩まされているのではないか、と思う。

 保坂和志は、著書『途方に暮れて、人生論』の中で、そのことを「想像力の危機」と書いた。少しだけ引用したい。前にも引用したような気もするが、それだけ自分にとって大切な文章だ。

 

 想像力のない人は相手がどれだけ想像力があるか想像することができない。

 (中略)2の想像力しかない人間が相手に10の想像力があることを想像することは不可能にちかい。「不可能にちかい」という留保がついているのは、「この人は俺が想像できないことまで想像することができるんだろうな」という想像さえできれば、2の想像力しかない人でも2以上の想像力がこの世界に存在しうることだけは想像できるからだ。それを相手に対する「敬意」と呼び、そういう敬意は文化や教養によって育てられてきた。中身までは想像できなくても、それがあることだけでも想像できれば、2の想像力しかない人の内面も豊かさに向かって開かれる。

   ----保坂和志『途方に暮れて、人生論』草思社 より引用


 上記を読んで僕が思うことは、本当の意味での他者への想像力とは、「内省すること」に尽きるのではないか、ということだ。敬意を持って他者に接することは、常に内省への契機を孕んでいる。自分はこう思って、言葉を発した。けれど、それは相手にとってこういう事情があったのかもしれない。そう考えると、自分自身が言葉を発したことに対する反省が生まれる。それは言葉を実際に発しないと生まれないことだ。反省するたびに傷つき、苦しんだ時間の長さが、誰かに対する優しさへと、そっくりそのまま昇華していく。

 けれどそうした時間を繰り返していると、何か言葉を発信すること自体が億劫になってくる。誰だって傷つきたくはないし、傷つけたくもない。だから言葉を発しない、という姿勢を誰も咎めることはできないし、それこそが以前書いた、堀江敏幸の言う「内爆」としての自己処理能力なのだと思うのだが、「内爆」にしても、誰かに言葉を発してしまったことによる「内省」にしても、そうした自傷的な行為が無いと他者への優しさを自身の中に育てることはできないのでは無いか、と、つくづく思う。

 僕は優しい人間になりたい。言葉にすると馬鹿みたいだが、本気で思っている。だったらこうして、言葉を発してしまったことへの内省を繰り返している自分も、自分で少しだけ肯定できるような気がする。と、肯定してしまったことを、また反省する。その繰り返しでしかない。

 本当に、こうして思いの丈を書き連ねることでしか生きていけない。生きづらい世の中だけれど、こうして書いた文章を読んでくれる誰かの存在を信じて、これからも勇気を持って、言葉を発し続けたい。どこまで持つだろうか。

 

2023年11月9日(木)

 仕事に行かなかった。

 昨日は仕事のことを考えて疲れ果ててしまっていたけれど、朝目が覚めると何もかも忘れていた。いや、厳密に言うと忘れていたわけではないけれど、そのことを考えたとしても、すごくどうでも良いことのように思えた。いつもこの繰り返しなのだから、いい加減悩むことをやめろ、と思うのだけれど、悩んでいる状態が正常なのか、悩んでいない状態が正常なのか、僕にはよくわからない。どちらも自分だし、どちらも僕の中に生まれた感情としては真実だ。けれど、こうして暖かい日差しを浴びていると、全てが洗い流されていくような心地良さがある。もしかしたらこの心地良さを得るために、僕は日々、考えることをやめられないのかもしれない。

 先日マットレスをもらったので、古いマットレスを処分しようと、エレベーターの無い不便な自宅からせっせと下まで運んだのだが、どう頑張っても車に入り切らない。きっと入るだろう、とどこかで楽観的に思っていたけれど、なんとなくでは上手くいかないことが世の中には沢山あり、今日はたまたまそういう日だった。僕は諦めてもう一度、自分の背丈より大きいマットレスを担いで階段を上がり、やっとの思いで玄関に立て掛けた。それだけで疲れ果ててしまって、しばらくソファでうずくまりながら、本を読んだ。

 それから近場で買い物をし、蕎麦を食べて、渋谷まで向かった。今日は何かしら映画を見よう、と心に決めていたのだが、家で4時間近くあるエドワード・ヤン監督の『牯嶺街少年殺人事件』を観るか、渋谷の映画館でたった15分のビー・ガン監督の『A SHORT STORY』を観に行くか、迷っていた。天気が良かったので、結局後者を選んだ。

 それでたった15分の映画を観たのだが、たった15分の映画を観るために往復2時間以上もかけて都心に行く、ということが、なんだかとても不思議な体験だった。けれどその不思議さも含めて、僕はその15分の映画には、15分以上の価値がある、と思った。というか、時間の価値、なんてものは、簡単に物差しで測ることはできない。その映画はたまたま15分だったけれど、それが2時間である可能性もあったし、7時間である可能性もあった。いずれにせよ僕はビー・ガン監督の映画が好きだから結局は観に行っていただろうし、それがどれだけの長さであれ、「その映画にとって必要な長さ」と考えれば、そこには優劣は無い。僕はその15分の間、それが15分であることの意味を全身で強く感じながら、その魅力を堪能することができた。それだけで、きっと良いのだ。

 映画館で幸福な短時間を過ごした後、ふらふらと渋谷の街を歩いた。渋谷の街は、足繁く通っていたあの頃から、ずっと変わり続けているように思えた。変化し続ける街並みを今の自分の足で歩き、自分の目で眺めながら、果たして自分は変わることができているのだろうか、あるいは、変わらないでいることができているのだろうか、と、変に感傷的な気分になった。それはわからないし、一生わかることもないのだろう、と思うけれど、渋谷の街が変わり続けていることは一目瞭然だった。それが僕を不安にさせ、一方で、どこか安心させてくれるような気もした。

 家に帰ると、玄関にマットレスが立て掛けられていた。感傷的な気分になっている場合では無い。まずはこの、重たくて大きいマットレスをどうするか真剣に考えなければ。そう頭ではわかってはいながらも、どこか他人事のように見ないふりをして、今、日記を書いた。

 

2023年11月10日(金)

 仕事に行った。残業をして仕事を終え、家に帰ってから洗濯機の掃除をした。色々やり切った、という実感を胸にビールを飲みながら、本当は何一つやり切れていないのだ、ということに、頭のどこかでは気付いていた。

 

2023年11月11日(土)

 新しい洗濯機が届き、早速洗濯をした。乾燥機能が付いている洗濯機を使うことは初めてで、胸を躍らせながら大量の洗濯物を洗濯機に放り込んだのだが、乾燥が終わって扉を開けると、中の洗濯物は全然乾き切っていなかった。説明書を読むと、そんなに大量の洗濯物を入れてはいけないらしかった。それで、欲張りはいけないな、と思った。

 と書きながら、「小学生の日記か」と自分でツッコんだのだが、そうやって「ツッコミを入れた」と書くことで、自分が小学生みたいな日記を書いていることにあくまで自覚的なのだ、と主張したいだけの自分の文章は、とても下劣だ。情けない。