20231022-20231028

2023年10月22日(日)

 昨日の余韻のまま目が覚めた。

 「余韻」という言葉を辞書で引くと、「鐘をついた時などの、あとに残る響き」とある。どうして鐘は後に響きが残るのだろうか、と、なぜか一度も考えたことがなかったことを考えてみると、なるほど、鐘は鐘自身が中で音を響かせて、それが外に響くから音が残るのだ、という、至極当たり前のことを今更ながら思った。

 打たれた響きを、自分自身の中で閉ざしていては駄目だ。それを音として、外に発することができて初めて、それは「余韻」になるのだ。そんなことを考えながら、昨日の日記を書いた。

 

2023年10月23日(月)

 仕事に行った。家に帰ると堀江敏幸の新作がポストに届いていた。その美しい本を読みながら、大好きなラジオの放送を待った。

 これ以上の体験は無い、と思うことと、これ以下の体験は無い、と思うことがある。けれど、人生はそうした「以上」「以下」では比較できない様々な要素が複雑に絡み合って構成されていて、だからこそ毎度、その時々の新鮮な感慨が自分の胸に去来する。きっとこれからも、そうした経験を繰り返していくのだろう。

 それは諦めとも取れるが、希望とも取れるかもしれない。楽しみにしていたラジオを聴きながら、電気を消した部屋でカーテンを薄く開き、おぼろげな月を眺めた。

 

2023年10月24日(火)

 仕事に行った。夜は職場の人たちと飲みに行った。

 人に奢ってもらってばかりで、人に奢ることが少ない人生だ。思えばずっとそうだった。こんな歳になるまで、そんなことにも気付かずに生きていたらしい。情けない、けれど、別にそれを改める気もない。我ながら困ったものだ。

 

2023年10月25日(水)

 仕事に行った。明日は休みだ、けれど、本当に休めるのか? いや、無理矢理にでも休もう。いや、やっぱりやめておこうか。仕事は溜まっている。いや、それでも何としても休みたい。でも別に予定は無いしな。いや、予定なんて無くたって、やりたいことは山ほどあるのだ。休もう。休むために、今頑張ろう!

 そう一念発起した時には、既に定時を過ぎている。本当に頑張れたのだろうか? わからない。けれどもう、疲れた。疲れた、ということにする。また明後日頑張るので、許してください。休み明けの自分への根拠の無い期待と、誰に対してかわからない自己弁護。

 いつもこんな感じで平日の休みはやってくる。明日は休みだ。

 

2023年10月26日(木)

 朝目が覚めて、時計を見ると、毎朝起きている時刻だった。せっかく休みなのだからもう少し寝よう、と思い目を瞑るも、どうにも上手く寝付けず、布団の中で取り留めのないことを考え続けた。取り留めのないことを考えていた時間は、上手く言葉にすることができない。言葉にする必要もないぐらい、取り留めのないことを考えていたような気がする。もう一度目を覚ますと、9時近くになっていた。

 起きてすぐ、顔を洗って歯を磨き、ガス点検業者に電話を掛けた。昨晩、家に帰るとポストに黄色い紙が入っていて、そこには「◯月◯日、◯月◯日とお伺いしましたが、ご不在で、またご連絡もいただけておりません」と書かれていた。ガスの法定点検、というものを受ける必要があるらしく、僕はその封筒がポストに入っているのを何度か目にしていたけれど、なんとなく後回しにしていた。後回しにしてすぐに忘れる、というのが自分の悪い癖で、また「ご連絡もいただけておりません」という、謙譲語の裏に強い非難の込められたような言い回しに、ひどく胸が痛んだ。こんな体たらく、詰られても仕方が無い、起きたらすぐに電話を掛けよう、と昨晩一念発起した心持ちを奮い立たせ、鉛のように重いスマホに電話番号を打ち込んで電話を掛けたところ、オペレーター経由で穏やかな声色の男性に繋がった。淡々と、それでいてこちらの事情を気にかけてくれるような優しさを持った完璧な応対で、ガス点検の日取りを丁寧に確認してくれた。

 考えてみれば、ガス業者からしてみればそれはただの仕事で、僕が連絡を返さなかったところで何一つ問題は無いのだ。問題があるとすれば、僕の家のガスが止まるだけだ。僕は家のガスが止まる前に電話を掛けることができたことに安堵し、電話先の男性の口ぶりにも強い感謝の意を覚えたのだが、それもきっと、その男性の人生にとっては取るに足らないことだった。そのことに気付くまで、こんなに時間がかかってしまった。

 僕は本当に、いつになったら大人になれるのだろうか。

 

 洗濯機を4回まわし、ベランダと浴室に洗濯物を干した。先日、洗濯物を干した後に夕立に降られたことを思い出し、出掛けることを少し躊躇したけれど、外に広がる快晴にそのためらいも一息に払拭され、意気揚々と家を出た。思えばこの前も、こんな天気だった。けれどそんなことも忘れさせるぐらい、突き抜けるような青空だった。

 県立図書館に行き、チェーホフの『ワーニャ伯父さん』を一気に読んだ。『ワーニャ伯父さん』はタイトル通り、ワーニャを中心にした物語ではあるけれど、考えてみれば『ワーニャ伯父さん』というタイトルはその姪・ソーニャを中心としている。しかし物語の中でワーニャは、子であり、伯父であり、他の人間の遠い親戚でもあった。その役割は、誰を話の中心に据えるか、によって異なる。けれど読み終えてなるほど、これはソーニャから見たワーニャ、伯父としてのワーニャの物語なのだ、という印象が強く残った。けれどそれはこの作品が『ワーニャ伯父さん』というタイトルだから、なのかも知れず、僕はそうした物語のタイトルが秘める無限の可能性に、不思議と目眩がした。

 物語の最後、ソーニャはワーニャに、「生きていきましょう」と口にする。それはその台詞だけを聞けば、ひどく単純な言葉だ。けれどその言葉には計り知れない強靭さが含まれていて、それはこの物語を最初から最後まで読み通した人の中にしか、きっと生まれ得ないものだった。僕はその言葉を、この物語を「読んだ」者として、受け取ることができてよかった。舞台で「観」たら、きっとまた別の感慨を受け取ることになるのだろう。

 同じ作品でも、その鑑賞の仕方によって受け取る感慨や、そこに生まれる意味が変わってくる。そしてそこに、優劣は無い。それを日記を書いている今、強く実感しているのは、帰り道の車中で「Audible」という朗読アプリを聴いていたからかも知れない。

 「聴く読書」と題されるそのアプリに、僕はずっと懐疑的だった。電子ブックもそうだが、心のどこかで「紙で読む本」というものを崇拝していて、他の方法で書に触れる、ということを、なんとなく忌避している自分がいた。視覚的な負担の少なさや紙の匂いがもたらす癒し、そして途中で前に戻る、という行為が許容されている安心感など、もちろん紙で本を読む良さをあげればキリが無いのだが、今考えてみると正直、意固地になっていた、とも言える。

 今日は木村佳乃が朗読をする、村上春樹の『海辺のカフカ』を、車を運転しながら途中まで聴いた。それを聴きながら、主人公と同じ15歳の頃に、この小説を初めて読んだ時のことを思い出した。

 15歳の頃の自分は、どこにも行けない自分の感情の起伏を持て余していたように思う。周りは大きな声で楽しそうに話をしていて、その渦中に居ながらも、不思議と一人きりでいる感覚があった。自分の感情を、上手く他人に放出することができない。というより、放出している自分の感情と、自分の中で考えていることに、いつも乖離があるような気がした。そうした外に広がる世界と内にある世界のギャップが上手く掴めず、そんな自分と、「世界で一番タフな15歳にならなければいけない」と独語する主人公の少年が重なり、僕は一気に、読書にのめり込むようになった。

 あれから10年以上経った今、バイパスを車で運転しながら「聴く」この作品には、不思議な感慨があった。あの頃憧れていた大人と同じように車を運転し、形式上は成長しているように思える自分も、実際には何一つ変わっていない。あの頃と同じように自分の外の世界との関係性が掴めないし、今朝になるまでガス点検の電話すらできなかったのだ。それを強く実感したのは、きっと僕がこの作品を本で読み返すのではなく、車の中で耳で「聴いた」からだ。どちらが良いとか、悪いとかではない。自分自身が作品に触れて得た感慨に、一体どうやって優劣をつけられると言うのだろうか。

 車が駐車場に到着し、ヘッドホンに切り替えて朗読を聴きながら、暗い部屋に帰った。今日は雨が降らなかったようで、外に干した洗濯物はすっかり乾いていた。いつだって勇気を出して何かに踏み出すことは、自分を裏切らない。そんな、一日を通して得た前向きな感情に昂ぶりながらも、ただ偶然雨が降らなかっただけだ、ということに、頭のどこかでは気付いていた。

 

2023年10月27日(金)

 仕事に行った。仕事をしている以外の時間は、ほぼずっと、Audibleを聴いていた。

 

2023年10月28日(土)

 朝起きて、寝惚けた頭のままでAudibleを再生した。それから歯を磨き、顔を洗って、一時間ぐらいかけて靴磨きをした。その間、僕は現実の世界を生きているようで、現実の世界を生きていなかった。けれど虚構の世界を生きているか、と問われれば、決してそういうわけでもなかった。こうして現実と虚構のあわいが不明瞭になって、僕は僕として生きているのか、あるいは物語の主人公として生きているのか、わからなくなるような時間を、僕はいつも、強く欲しているのかもしれない。

 11時を過ぎた頃に、ガス点検業者がやってきて、手際良くガスの点検を済ませて行った。僕の部屋は趣味の物が多くて少し変わっているから、なんとなく赤の他人を家に入れることに抵抗があるのだけれど、男性は周囲の物には一切目をくれず、というより意識的に周囲に目を向けないように努めているようで、淡々と事務的に作業を済ませ、去って行った。どこの世界にもプロフェッショナルは居て、そうしたプロフェッショナルな人たちは、僕の安易な想像をいとも簡単に飛び越えて行くのだ、ということを、なんとなく思った。

 昼に蕎麦を食べ、その後買い物をしたり、ピースのトークライブを見たり、のんびりとした休日を過ごした。色々なことをして楽しんだけれど、あっという間に夜が来た、という思いが強くある。僕は明日、久々に会う友人と古本市に行くのだが、きっとそれもあっという間にやって来て、あっという間に過ぎていくのだろう。それを悲しい、と思うか、楽しい、と思うかは、きっと自分の心持ち次第だ。けれど悲しい、という気持ちも、楽しい、という気持ちも、全てを一つ一つ噛み締めることができれば、生はもっと、豊かになるような気がする。