20230709-20230715

2023年7月9日(日)

 車で長い距離を走って、埼玉県まで行った。

 立ち寄った眼鏡店でびっくりするぐらい素敵なサングラスに出会って、それはびっくりするぐらい高額な値段だったけれど、つい購入してしまった自分に自分でびっくりした。びっくりしたがっていたのかもしれない。

 けれど本当に素敵なサングラスだ。よし、頑張って仕事をしよう、と思った。明日は休みなのに。

 

2023年7月10日(月)

 朝起きて、酷暑の中しばらく散歩をし、家に帰ってからシャワーを浴びて、オンライン視聴チケットを買っていた保坂和志山下澄人の「小説的思考塾」をみた。小説的な思考とはなんだろうか、と思うけれど、これだけ沢山の本を読んだり対談を聞いていると、自分でも自分が普段の生活の中で「小説的に考えている」と感じる場面が多々ある。それが良いことなのか悪いことなのかはわからないけれど、きっとそれが良いことか悪いことか、を考える必要など無い、とはっきりと思えるぐらいには、自分は小説的に物事を考えることができるようになった、という気がする。とは言いながらも、今でも「小説的に考える」ということがどういうことなのか、よくわからない。けれどそれがわからない、ということ自体が、すごく重要なことのような気がする。よくわからない。

 車で出かけ、本屋で偶然見かけた武田砂鉄『父ではありませんが 第三者として考える』を買って、喫茶店を二軒はしごして読み耽った。自分が普段の生活で感じているあらゆる外圧を真っ向から否定する、或いはそうした状況に対して強く疑問を投げかけてくれるような、心強い本だった。

 僕はこの本を読んで「こういう本こそ今書かれるべきだ」と強く感じたのだけれど、その感覚も、自分が自分の置かれた状況や立場から発した意見に過ぎない。この本で繰り返し語られているのは、当事者性から発される言葉が権威的で、それを経験していない人にとっては常に圧力となる危険性を孕んでいる、ということだったが、それに大きく頷いていた自分は、逆に自分の置かれている状況(第三者として)からしか物事を捉えることができていないのではないか。

 きっとそうした疑問をそれぞれの内に抱かせることこそがこの本の主旨なのだと思うから、今ここに、そうやって書くことができて良かった。のかもしれない。とにかく明日も続きを読みたい。

 

2023年7月11日(火) 

 仕事に行った。夜はバンドのミーティングがあった。寝る前に昨日買った本の続きを読んだ。

 

2023年7月12日(水)

 仕事に行った。夜はジムに行って3キロ走った。別に走らなくても良かったけれど、先輩からジムに行こう、と誘われたから、行った。それはそれで気持ち良かった。

 そういう感じで日々、主体性の無い生活が続いている。そのことに疑問を感じた方が良い、というような気も少しだけしたが、疲れたから考えることをやめた。

 

2023年7月13日(木)

 ある有名人の訃報を聞き、思うことがありすぎるのだが、上手くまとめられる気がしない。何かを言葉にすることは、いつも誰かを傷つける危険性を孕んでいるから。けれどそうやって誰かを傷つけることを恐れていては、無慈悲に誰かを傷つける他人の行為を抑止することはできず、そうした行為を容認することもしたくない。だから何かを語る必要がある、と思うけれど、それも考えれば考えるほどに難しい。難しいけれど、とにかく僕は今すごく憤っている。それは確かだ、と思う。

 誰かにとっての「普通」は、自分にとっての「普通」では無い。人それぞれ、他人には見えていない経験や思いがあって、それが提示されるのは不本意に切り取られ、大衆の目に晒された一部分だけだ。本当の意味で皆がそれを理解していれば、心無い誹謗中傷など生まれないはずなのに、当たり前のようにニュースのコメント欄には何かを「わかった」ような顔で語る匿名の言葉が並んでいる。その出来事の中に見えない背景や、あらゆる要素が絡み合って存在している可能性を度外視した意見の数々。誰かの訃報にすら、その理由がなんだったのか、と死者の言葉を代弁するかのような、想像力の欠けた言葉がネットの海にばら撒かれ続けている。どう考えても異常だ。吐き気がする。

 あの人ってこういう人らしいよ、という噂話や揶揄に対して、できる限り距離を置こうと常に意識してはいるのだが、社会で生きているとそうしたコミュニケーションを余儀なくされ、息苦しさを感じる場面が多々ある。そして自分自身もそうした求めに応じて誰かのことを誰かがいない場所で語ってしまうことがあって、それを仕方のないことだ、と納得してしまっている節もある。けれどそうしてしまったことに対して、でき得る限りの反省はしたい。何度も反省することを繰り返さなければ、きっとこのような悲しい出来事は、いつまでも経っても無くならないのではないか。

 誰かの個人的な事情について、その実状を規定しようとする言葉に対しては、じゃああなたは、自分がどういう人間なのか本当にわかっているのですか、と問いたい。平野啓一郎が「分人」という概念で示したように、僕らは個人という枠組みに収斂させることのできない、広がりを持った存在だ。考え方は経験や月日の移り変わり、置かれた環境に応じて当たり前のように変わってしまうし、確固たる意志を死ぬまで持ち続けることなど絶対にできない。けれどだからこそ人間は面白く、他人とコミュニケーションを取る意味もあるし、生きていくことは楽しい。それなのに社会は、誰かをある一つの枠組みに収めようとして、そこに収まりきらなかった部分を「間違い」として叩く。芸能人はその「人となり」にフォーカスされてしまう職業だから、その人の変化を受け入れる度量が受取手の方に無ければ、いつまでも批判や指摘といったネガティブな言葉は無くならない。自分自身が変わってしまうことを受け入れていないから、他人の変化に対しても過剰に反応する。それは結局の所、自分自身とのコミュニケーションの不足の表出ではないか、とすら思う。

 濱口竜介の映画『寝ても覚めても』の中で、主人公が突然、今までの行動傾向からは想像もできない行動に走る場面がある。僕はその場面にこそリアルが描かれている、と感じて興奮したのだが、それに対して疑念を投げかける人は多くいるようだ。主人公の性格に一貫性がない。物語の流れにそぐわない。そうした言葉は、もちろんその人がそう受け取った、という感情自体は否定されるべきでは無いけれど、すごく危険な考え方だと思う。そのように「個」を確実なものだとする考え方で生きていると、いつかは自分が自分だと思っている自分と現実とのギャップに、押し潰される日が来てしまうのでは無いだろうか。自分に自信を持って生きることは素敵なことだ。けれど時には、自分に対して疑いの目を向けることが無ければ、いつしか自己の檻の中で破綻を来してしまう。そして自分ではない他者に対して、本当の意味で優しい言葉をかけることも、きっとできなくなってしまうような気がする。


 その有名人に対して誹謗中傷を投げかけた多くの人たちは、今、何を思うのだろうか。匿名で発信したことだから、自分とは関係のないことだ、とでも思っているのだろうか。僕は今、ある意味匿名でこのブログを書いているけれど、僕が今この時間にこの文章を書いた、ということを絶対に忘れたくない。スマホの画面に今、叩きつけている右手親指の感覚を忘れないように、明日もまた日記を書こう、と思う。

 

2023年7月14日(金)

 仕事に行った。目が回るぐらい忙しかった。

 帰りにコンビニで夕飯を買って、パンパンのリュックに弁当の容器を詰め込みながらふと、あれ、俺の人生こんな感じだっけ、と思った。そしてそうやって思ったことすら器用に忘れないとやり過ごすことのできない今を生きていることが苦しかった。けれどそんな今もきっと、僕が選び続けた道の果てにあるのだ。思えば昔からずっと、こんな感じだった。それを思って少しだけ安堵すると同時に、なんだかもう疲れて切ってしまっているような気がした。休みたい。

 

2023年7月15日(土)

 仕事の出張で朝から浜松に向かった。なんとなく合わない、と思っていた人とも、時間をかけてじっくりと話すと共通点というか、心の響き合う所を見つけられるものだ。それはなんとなく、忌避していた本を手に取って読む感覚に似ていた。もしかすると、それが一番本当の意味で勉強になるのかもしれない。

 夜は浜松餃子を食べて、酒を飲んだ。別に浜松餃子を食べなくても良かったし、酒も飲まなくても良かった。どちらかと言うと部屋で本を読んでいたかったけれど、こんなことを書いた日記を職場の人たちが読んだら悲しく思うかもしれない。僕のことを嫌いに思うかもしれない。けれどそんなことを気にする必要も別に無いのかもしれない。僕の言葉は僕の言葉なのだし、僕の言葉を奪い取って自分の言葉にしようとする暴力性に立ち向かうには、やっぱり自分は、自分の言葉で語るしかないのだ。そしてそうやって自分の言葉で語らなければ、分かり合うことなんてできるはずが無いのだ。そんなことを自戒のように思った。