20230723-20230729

2023年7月23日(日)

 車で渋谷に行って、ソール・ライター展をみた。ソール・ライターの写真がなぜ格好良いのか、僕には言葉でうまく説明ができないけれど、言葉でうまく説明できないからソール・ライターの写真は格好良いのだ、と思った。良い展示だった。

 帰り道に寿司を食べた。僕は食の楽しみを一人で享受することが苦手だ。「美味しいね」と言わないと、美味しくならない。「美味しくなる」とは変な表現だが、食べ物はそれ自体が「美味しい」のでは無く、それを食べている時間や空間を含めて美味しいのだ、という単純な事実に気がついた。

 一緒に寿司を食べてくれる人がいて良かった。

 

2023年7月24日(月)

 仕事に行った。仕事に行き過ぎだ、と思った。

 

2023年7月25日(火)

 仕事に行かなかった。

 映画館で「CLOSE」を観た。苦しい映画だった。けれどその映画が苦しいのは、僕が僕の人生を通して大切なものを幾つも見つけてこれた証だ、と思った。苦しい映画は、いつもそうした意味で底知れぬ優しさに溢れている。

 男性優位でマッチョな社会体制に対するアンチテーゼがかなり社会に浸透してきていて、もはやアンチテーゼですら無くなってきているように思う。僕はそれを心強く思うと同時に、逆にそうした男性性誇示の社会で今まで生きて来ざるを得なかった人たちへの心のケアも重要なのでは無いか、と最近になって思う。それぞれが大切にしてきた信念が破壊されるのは、いつの時代も悲しいことだ。誰しも経験と共に手に入れた実感があり、その実感を信じて今、生きている。「多様性」という世の風潮に心安さを感じる自分としては、逆にそうした風潮に苦しめられる人たちへの想像力を失ってはいけない、と、自戒を込めて思う。

 「多様性」という言葉は、「多様である」と認識している時点でそれぞれの違いを浮き彫りにさせてしまっている。そうした意味で、これ以上無く差別的な言葉なのかもしれない。多様であることは本当は当たり前なのだから、それを当たり前に回帰させた上で、「多様性」なんて言葉を使わずにそれぞれの価値観を受け入れる想像力を持つ必要があるのだと思う。けれどそれが、狭いコミュニティの中にいるとどうしても難しい。

 けれど難しいことを、「難しい」まま保持することがきっと大切なのだ。僕が「CLOSE」を受け取ったのはそうした真理だ、と思うけれど、それはそうしたことを僕が近ごろ、ずっと考え続けていたからなのかもしれない。映画はいつも、自分の姿や考えを、鏡のように映し出してくれる。ラストシーンで草原の中に佇む主人公の目に映る世界は、きっと僕の目に映る世界でもあった。

 

 夜はバンドのミーティングがあった。真剣な話をした。メンバーそれぞれの感情に触れて、なぜか胸が苦しくなった。わかっていたけれど、わかっていないふりをしていたことが沢山あった。それは、自分の感情についても同じだった。

 自分の感情に嘘をつかない、と思って付けたバンド名なのに、いつから自分の感情に嘘をつくようになってしまったのだろうか。そんな自分が悔しくて、うまく寝付けなかった。明日はちゃんと来るのだろうか。

 

2023年7月26日(水)

 ちゃんと今日が来て、当たり前のように仕事に行った。一日中眠かった。仕事中に強烈な目眩があったけれど、暑さのせいにすることにした。

 疲れ切って家に帰ってから、昔よく聴いていた嵐の「LIFE」を久しぶりに聴いた。胸がじん、とした。

 いつからひねくれてしまったのかわからないけれど、あの頃の感情を忘れてしまったわけではなかった。それに気付けただけで、この曲があって良かった。そしてこんな曲が作りたい、と、少しだけ思って、その感情を忘れないために、日記を書いた。

 

2023年7月27日(木)

 仕事に行った。家に帰ってから、濱口竜介×伊藤亜紗「まあたらしさに出会うとき」の対談を聞いた。

 「無駄」が担保する安定性。遠回りなように見える近道。逆説的に思える様々なことに僕たちは囲まれながら生きていて、そうした一見矛盾した社会の中でバランスを保つために映画のような芸術がある、と仮定してみてはどうだろうか。僕はそうした考え方が一番しっくり来るし、何よりそれを信じていると、安心する。明日の休みは映画を見に行こう。

 

2023年7月28日(金)

 下高井戸シネマで、映画「別れる決心」をみた。月並みな感想しか言えないけれど、すごく面白かった。

 帰りに温泉に入ってから家に帰ったのだが、不思議とあまり寛いだ気持ちになれなかった。なんだかいつも、どこでどう過ごしていても周囲の目が気になる、というか、その場に必要な社会性みたいなものを常に意識してしまって、上手く自分だけの世界に没頭することができない、というか。具体的に言うとサウナで隣の老人に話しかけられた瞬間から、自己と社会の間を息を切らして行き来するような感覚になってしまい、ゆっくりと時間を過ごすことができなくなってしまった。

 それはきっと、自己と社会について初めから切り離して考えているから上手くいかないのであって、恐らく理想とすべきなのは、自己の世界の中に社会があったり、逆に社会という世界の中に自己があったり、という風な柔軟な思考の持ち方なのだと思うが、僕は昔からずっと、そうした心持ちを自然にすることが苦手だ。だから一人でゆっくり過ごそうと町に出て、誰かから話しかけられると、必要以上に疲れてしまうことがある。

 お金を払って温泉に入ったのに、疲れを癒すどころか逆に疲れてしまう自分の複雑さに嫌気が差しながら車に乗り込んだ帰り道、田我流の「ゆれる」を聴いていたら、なんだか色々なことを考え込む必要なんて無いんじゃないか、という気がして、少しだけ楽になった。こんな人間だから音楽が好きなんだろうな、とふと思ったりした。

 

2023年7月29日(土)

 国立新美術館で「テート美術館展 光」と、「蔡國強 宇宙遊」の展示を見に行った。

 光とか火とか、そういう人間の存在を超えた原初的なものについて考え始めると、僕たちが生きていることなんてほとんど意味が無いんじゃないか、という気がしてくる。それは救いようのないことにも思えるけれど、忙しなく生きる毎日の中で、どこかそうした絶望を追い求めていたような気もしてくるから不思議だ。

 どうやって生きるべきか、と考えるよりも先ず、生きてみる、ということ。何を作るべきか、と考えるよりも先ず、何かを作ってみる、ということ。そうやってのらりくらりとやっていれば良いのに、何を真剣に悩んでいるのだろうか? 怠惰に押し潰されることが怖いから目標や夢みたいなものを探して生きているけれど、そんなものはいつまで経っても叶わないし、そのプロセスの方にこそ、きっと意味があるはずだ。それはあらゆる芸術作品が、それが「作られた」という事実をもって体現してきた。

 だから僕も何かを作りたい、と思うのだが、忙しない毎日でどうにも腰が重く、最近は創作に対して意欲が向いていなかった。展覧会に行くと、いつもそうした自分に沢山の作品が喝を入れてくれる。この喝をしかと受け止めて、ちゃんと創作に向き合いたい、と自戒を込めてここに書きたい。なんだか最近、「自戒を込めて」日記を書いてばっかりだ。