20231015-20231021

2023年10月15日(日)

 何もない日曜日。二度寝をして目覚めると、もう10時半を回っていた。急いで洗濯物を干し、昨日の日記を書いた。僕は今を生きながら、昨日のことを書いていた。こうして過去を振り返りながら生きていくしか術はないのか、と、なんとなく思った。

 昼は相も変わらず蕎麦を食べ、連れ合いと喫茶店に行ってコーヒーを飲んだ。何の変哲もない日曜日の午後。けれどそれが僕にとっての幸福だ。僕が座っていた席は西日が強くて、まだ夕方なのに、もうこんなに日が傾いているのか、と考えている内に、あっという間に日が暮れた。

 日の傾きに背突かれる季節だ。けれど夜は長い。それを肝に銘じておかなければ、あっという間に季節に置いていかれるような気がして、今日は今日の内に、日記を書いた。

 

2023年10月16日(月)

 仕事に行った。

 早く帰って、本を読んだり映画を観たり、文章を書いたり音楽を作ったり、と挙げ始めればキリがないのだが、何かしなければ、という思いに追われるようにして仕事をしていると、ミスが沢山出てきた。仕事というのは不思議なもので、というかそれが真理なのかもしれないが、焦れば焦るほどに不備が出てくる。急がば回れ、とはよく言ったものだが、最短距離で何かをしようとすると、絶対に後で綻びが生じる。それはわかっているのだが、「急がば回れ」と「早く帰りたい」の板挟みで押し潰され、何とかその双方の力に抗いながらやり切った後には疲れ果てていて、もう何も手につかない状態で、家に帰ってきた。

 いつまでこんな生活を続けるのだろうか、と不意に思うことがある。一番理想としている生活は、永遠に手に入らない。一番やりたいことは、永遠にできない。そうした悲観が年々強くなってきて、ここから移動することも、何かを変えようとすることも、どんどん億劫になってきた。日に日に受け身になっていく自分を遠くから見つめながら、まあ、これで良いか、と思う気持ちの影に隠れて、このままじゃ嫌だ、の思いが、ほんの僅かな灯火として、心に居座り続けている。

 この灯火を絶やさないためにも、書き続けなければいけない。いや、書きたい。素直にそう、思う。いや、思いたいだけなのかもしれない。

 堀江敏幸は、「書くことを通してあなたは一体、何を運んでいるのか」と聞かれ、何かを運んでいる、はずだが、何を運んでいるかはわからない、そして、何を運んでいるのかは、わかってはいけないのだ、と答えていた。何を運んでいるのかはわからないけれど、わからないままに、ただひたすらに何かを運び続ける。時々積荷を解いて、中身を見たくなるけれど、そうしている間は立ち止まってしまう。だから何もわからない状態のまま、何かを運んでいるはずだ、という微かな希望を胸に、移動し続けること。そうして移動した距離や、それに要した時間が、確かに自分の中に蓄積されていく。悠長かもしれないが、そう信じて、何かをやり続けるしか方法はない。

 僕が求めているのは、「何か」だ。「何か」としか言葉で表現することができない、曖昧なものばかりを追って生きているから、時々怖くなって、目先の「意味がありそうなこと」に価値を見出し、飛びついてしまうことがある。けれどそれにも結局、意味が無い、と後になって気付く。そんな毎日を繰り返して、やっぱり人生に意味なんて無いのだ、と悲観的になってしまうことがあるけれど、たぶん本当に、人生に意味は無い。だからそれを悲観的に捉えるよりも、何か逆に、毎日を生きる糧として、捉え直すことはできないだろうか。

 そんなことを考えていたら、ふと、曲を作り始めた高校生の頃に書いた曲のことを思い出した。タイトルは、「意味のない歌」。若さが溢れているようで恥ずかしさもあるけれど、ここでその歌詞を、書いてみたい。

 

街を歩き 空を見上げ

「綺麗だ」って一人呟く

言葉になり 風が運ぶ

そっと浮かび ふっと消える

君に言った言葉 過去の記憶は

消し去ることはできないから

今の僕の等身大の言葉を

歌に込めてみるんだ

何かを君に伝えたくて

何かわかってもらいたくて

僕はただ毎日生きている

君の声がするヘッドフォン

僕の歌を紡ぐノートも

今なら素直に愛せるよ


何もかもに疲れ果てて

ペンを回し 項垂れる

大人になり

愛し方も笑い方も覚え始める

雨に濡れて道に転がったものを

「意味」と呼ぶこともできるけど

そんなものは捨ててしまっていいよ

また作り出せばいい

何かを君に伝えたくて

何かわかってもらいたくて

僕はただ毎日生きている

愛に抱かれた隣の猫

涙を求めたアスファルト

それだけで意味が生まれてく

 

 僕はこの歌詞を書いた当時、本当にこの歌が「意味のない歌」だ、と思っていた。けれど今の僕にとって、この歌は少しだけ、意味があるような気がする。気がする、だけで、きっと良いのだ。明日も日記を書こう。

 

2023年10月17日(火)

 仕事に行った。何をして、何を思っていたのか、今となっては全然思い出せないけれど、疲れた、ということだけは確かだ。

 

2023年10月18日(水)

 仕事に行った。空は気持ちよく晴れ渡っていて、秋の匂いがした。

 こうしている間にも、地球の裏側では戦争が起きているのだ、と、本当の意味で理解してしまったら、きっと耐えられない。けれどそうして目を背けたくなるような惨事が、現実にある、ということを、ニュースを通じて知っている、ということが、ただただ悲しい。

 本当は、この世界に起きる全てのことを真っ直ぐに見つめたいのだ。そうして何もかもを真っ直ぐに見つめることさえできれば、この世界に悲惨なことなど生まれないはずなのに。そんな何も知らない甘ったれた感情を持て余しながら、秋の風に散り始めた木の葉を、ボンネット越しに眺めた。

 

2023年10月19日(木)

 仕事に行った。終わってから職場の上司と後輩と、サウナに行った。

 後輩が、「彼女と別れました」と打ち明けてきた。表情は笑っていたけれど、目には薄っすらと涙が浮かんでいた。僕はそれを見て、何かを言うべきだったのかもしれない。けれど最後まで、何も言えなかった。

 それぞれが色んな感情を抱えて生きているのだ、という、当たり前のことを思った。だからこそ、「わかるよ」とか、「何とかなるよ」とか、そんな言葉に一体何の意味があるというのだろうか。わからないし、何ともならない。無意味な言葉で傷つけたくない、と思えば思うほど、何も言えなくなってしまう。だから、「何も言わない」という選択をした自分は、別に間違っていない、とも思う。

 それなのに、何も言えなかった自分を悔いてしまう。一体どうしたら良かったのだろうか。

 

2023年10月20日(金)

 仕事に行った。

 基本的に何においても「やる気がある人」が怖いのだが、それは「やる気がある感を出している人」が怖いのであって、別にやる気があることを否定しているわけではない。多分、僕もやる気があるし、やる気があるからこそ、熱く語っている人を見るとなんだか疲れてしまう。どうでも良い、というわけではない。と言葉にすると、いや、やっぱりどうでも良いような気がしてくる。

 「やる気がある人」と「やる気がない人」を比較した時に、「やる気がない人」の方が本当はやる気があるのではないか。言葉にしてみると意味がわからないけれど、なんとなくそういうことを、日々思う。人間ってそんなに簡単じゃない。言葉で割り切れない感情を抱えて、それぞれがそれぞれの立場で生きている。だから体裁だけ取り繕っても意味が無い。そう思うのだが、だからと言って猫背で下を向いて歩いていると、「やる気がない」と言われる。背筋を正して、大きい声で話す人だけが「やる気がある」と言われる。そういう社会が、気持ち悪くて仕方ない。

 僕は毎日日記を書いているけれど、これは「やる気がある」風に映るだろうか。もしやる気がある、と思われているのだとしたら、それは間違いだ、と強く言いたい。僕はやる気がないのだ。創作にも、芸術にも、ひいては人生に対しても、全くやる気はない。社会のことなど、本当にどうでも良い。だらだらと、時間を貪るように毎日を送るだけで、別に十分なのだ。とりあえず、ビールが飲みたい。

 

 そうやってここに「書く」ということが、僕が本気で取り組んでいる証だ。と、また最後に書いてはいけないことを、書いてしまう。みんなこんな感じだろうか。

 

2023年10月21日(土)

 芸人・サルゴリラが、キングオブコントで優勝した。僕はそれをテレビの前で見て得た感慨について、ここで言葉を尽くして書きたい、と強く思ったのだが、上手く書ける気がしない。何かに対して強く心を動かされればされるほど、それを言葉にできない悔しさを、いつも自分自身の文章から突きつけられる。だからこうして書き始めることも怖くて仕方が無いのだが、何かを「書きたい」と強く背突かれる時には、きっと何かを書くべきなのだ。書いてみる。

 サルゴリラ児玉智洋は、僕が愛聴しているラジオ番組のパーソナリティを務めていて、そこで今回の大会に賭ける思いをずっと前から耳にしていた。だから普段はお笑いの大会をテレビで見ることの少ない自分も、今日だけは絶対に見なければ、という思いで、最初から最後までテレビに齧り付いて番組を見通した。結果、期待以上に幸福な瞬間を、目の当たりにすることができた。

 誰かを応援する、という行為は、その誰かにとっての後ろ盾になる、ということよりもむしろ、それを応援する自分自身が強く背中を押される体験でもある。頑張れ、と誰かに対して強く思い、祈っている間、応援している自分自身がここに生きている意味を、強く感じる。そして応援している誰かが勇ましく戦う姿を見て、自分自身も戦おう、と鼓舞される。別に応援しても応援しなくても結果にはほとんど影響は無いし、その思いをその人に直接伝える手段は限られているけれど、そんなことはどうでも良くて、僕はテレビの前でサルゴリラを応援する、ということを、僕自身が強く求めていたのだと思う。そしてそうすることで、逆に自分自身が、強く背中を押されることになった。それはそれだけで、きっと尊いことだ。

 サルゴリラのネタは贔屓目無しに、とても面白かった。それは僕にとっても、テレビの前に居た他の人たちにとっても同じことだったのではないだろうか。好き嫌いはあれ、お笑いは結局のところ、哲学だ。人が笑う、ということはどういうことなのか。ただそれだけに真摯に向き合い、日夜考え抜いた者だけが、人を笑わせることができる。「笑われたらあかん、笑わせなあかん」という『火花』に書かれていた言葉を思い出す。人を笑わせることに人生を賭けて向き合い続け、テレビの前の僕らを笑わせる二人の姿は、ただただ眩しく、美しかった。

 何かに対して真摯に向き合う、ということと、人を笑わせるために馬鹿なことをする、ということのズレ。そこに最上の人間味がある。児玉は一本目のコントの終盤、「イカ箱」という謎の箱に「靴下にんじん」なる物を入れ、そこから「ペンチピーチ」を取り出した。聞けば聞くほど馬鹿らしいような言葉が並んでいるが、それらを一つ一つ手に取る児玉の手は、小刻みに震えていた。僕はその手の震えを見て、誇張でもなんでもなく、涙が溢れてきた。

 「靴下にんじん」を思いつくまでに、彼らはどれだけの時間を費やしてきたのだろうか。そしてそうした時間の裏に、それを支える人達の優しさが、どれだけあったのだろうか。どんなにラジオで話を聴いていても、僕はそれを、想像することしかできない。実際の所は、彼らにしかわからない。彼らが生きてきた時間は、彼らが生きてきた時間で、僕が生きてきた時間とは別のものだった。けれどそれらは確実に、画面上の舞台に立つ彼の手の震えにあらわれていた。そして僕が、その手の震えを見た、ということは、僕の人生にとって確かなことだった。そこで僕は、彼らの生きてきた時間と、僕自身が生きてきた時間が交差するような不思議な感覚を覚えて、月並みな言葉だけれど、深く感動した。

 僕がそうして感動した、ということの確かさ以上に、その映像を見て、確かさを強く感じている人がいるはずだった。人それぞれ生きている環境は異なり、そしてそこにはそれぞれ、周りを取り巻く多くの人たちがいるのだ。そこには僕の想像も及ばない、無限の広がりがあって、確かな歳月が流れている。僕はそれを、実際に見ることはできない。けれど僕や、彼らの素性を知らずにテレビの前に居た全ての人たちが、彼らのコントを見て、同じように笑っていた。彼らの小さな人生に起きた一つ一つの出来事が作り出した確かな微風が、この世界で、沢山の人達を巻き込んで大きな波を作り出した。それは、途轍もなく素晴らしいことなのではないだろうか。

 「人生という魚は、いつだってスイスイ泳げるものじゃない」と児玉は言った。「時間という魚は、沢山泳いでいる」と児玉は言った。そう思う。僕らはそれぞれの泳ぎ方で、時に溺れたり、行き先に迷ったりしながら、沢山の選択肢の中で生き続けていく。不安になることもあるだろう。けれどそんな時は、児玉の言葉を借りれば、「周りの魚に助けてもらえば良い」。

 僕にとって、テレビの前で目にした彼らの姿は、サルでもゴリラでも無く、魚だった。立派に泳ぐ彼らの姿は、それを見る僕という魚に、暗い海の底を泳ぐ勇気を与えてくれた。僕はそうやって思ったことを、こうして日記に書くことができて良かった。「書く」という言葉の起源は、「掻く」という言葉にあるらしい。水を掻いて進むように、これからも僕は僕なりの生活を、書き続けていきたい、と、強く思った。