20230827-20230902

2023年8月27日(日)

 仕事に行った。

 休日出勤のたびに「日曜日なのに仕事か」と思うのだが、結局振休は取るからプラマイゼロだ。それでもいつも「日曜日なのに仕事か」と思う。僕は人混みが嫌いだし、できれば日曜日に休みよりも平日に休みの方が嬉しいのだが、それでも「日曜日なのに仕事か」と思う。いつも日曜日が休みだから、「日曜日なのに仕事か」と思うサイクルが頭の中に埋め込まれている。

 日曜日なのに仕事、なのが嫌なのでは無くて、明日も仕事で、明後日も仕事なのが嫌なのだ。そう考えると、生きているのに仕事か、という気がする。せっかく生きているのだから、明日は図書館に行きたい。ひぃー。

 

2023年8月28日(月)

 仕事に行った。残業に追われ、帰ったら22時過ぎだった。

 こうありたい、と思うことが強くあるのに、逆方向に全力で走ってしまう。その逆方向への引力が、自分の本質的な欲求を支えている、とでも言えば良いだろうか。そんな感覚がある。

 最近、夜な夜な世界陸上のハイライトを見ている。そこには自分の競技人生の威信をかけた大勝負で歓喜の涙を流す人と、悔し涙を流す人がいる。競技には決められたルールがあって、その範囲内で順位が決められるから、それに向かって皆が努力し、勝ったり、負けたりして一喜一憂する。それは一見、他人との競争に思えるけれど、結局のところそれも自分との戦いでしかないのだと、現地の動画を見ていて強く思う。

 僕は今、そもそものルールが無い場所で戦っているような気がする。当たり前のことだが、競技場の400mトラックを時計回りで走る人はいない。けれど考えてみれば、たとえ逆方向に走ったとしてもゴールには辿り着く。少しだけ距離は伸びるかもしれないし、他の人とは違ったやり方かもしれないけれど、それでもいつかはゴールテープを切ることができるだろう。順位など無い。正解も無い。それでもどうしても走りたいし、走らなければならない。

 どこへ向かって走るのか、何のために走るのか。それはわからないし、わかる必要もないのかもしれない。ただ走り続けること。それは例えば、終わり方がわからないこんな文章についても言えるだろうか。

 

2023年8月29日(火)

 仕事に行った。帰ってからパスタを茹でて、紀伊國屋のボロネーゼを食べた。美味しくて涙が出そうだったけれど、出なかった。

 

2023年8月30日(水)

 仕事に行った。

 職場の後輩から「考えすぎですよ」と言われて、確かに、ちょっと考えすぎだな、と思ったけれど、考えすぎない方法がわからず難しい。こんなに考えすぎなければもっとスムーズに事が運ぶこともあるのかもしれない、と反省し、もう少しラフでいよう、と思ったけれど、結局そうやって意識し始めた時点で既に考えすぎている。考えすぎないことは、きっと意識的にやることではない。

 考えすぎずに何かをやるためには、きっと経験に裏打ちされた地盤が必要だ。朝目が覚めて、顔を洗う。例えばその行為は、意識せずとも毎日やっている。日々の慣れによって身体が自動的に動いた結果だ。その行為について考えすぎることはない。だから考えすぎないようになるためには、そういう風に自然と動けるようになるまでの時間が必要なのだと思う。

 けれどそうして慣れていけばいくほど、時に綻びが起こることも確かだ。慣れれば慣れるほど、間違える。そうした横槍の意識が、自分を慣れから遠ざける。慣れたいのに、慣れたくない。そうした相反する二つの欲求が、今の自分を正常に保っている、と信じている。けれどそれも人から見ると、正常とは程遠い、異常なことなのかもしれない。

 息を吸い込んで、それから吐き出す。今僕が呼吸していることも、慣れの一つなのだろうか。なんだかこうして当たり前に呼吸していることすらも不思議に思えてきた。そう意識し始めた瞬間に息が苦しい。僕は今、暗い海の底にいる。早く日の目を浴びたくて、必死でもがいている。きっと考えすぎだ。

 

2023年8月31日(木)

 仕事に行った。いろいろと大変だ、と焦っている自分を、遠くから見つめているもう一人の自分がいた。ちゃんとその自分と話し合う時間が欲しい。あっという間に夏が終わる。

 

2023年9月1日(金)

 仕事に行った。早く上がろう、と思っていたけれど、早く上がることはできなかった。別に監禁されているわけではないのだから仕事をほっぽりだして早く上がる自由はあるはずなのだが、それができないぐらい、精神的な自由を拘束されてしまっているのかもしれない。それがなかなか厄介だ。土日はゆっくりと休みたい。

 

2023年9月2日(土)

 溜まっていた洗濯を片付けて、歯医者に行った。知らぬ間に歯が大変なことになっているらしかった。

 歯は大事、と思うけれど、歯が一番大事、とは思わない。歯以外にも大事なことがある。それと同じように、仕事は大事、と思うけれど、仕事が一番大事、とは思わない。歯医者の人もそんな感じなのだろうか、と治療中にぼんやりと考えながら、阿呆みたいに口を開けていた。