20230730-20230805

2023年7月30日(日)

 四連休三日目。僕は普通に連休が好きだが、それと同時に連休が怖い。連休に胸を膨らませれば膨らませるほど、連休が始まった瞬間に「もう始まってしまった」と思うし、今日のように真ん中を過ぎれば「真ん中を過ぎてしまった」と思うし、明日は明後日から始まる仕事のことを考えてもっと悲観的な気持ちになるだろう。そう考えると、連休前に胸を膨らませている時が一番良いような気もしてくるが、段々「連休中に悲観的になってしまう自分」が当たり前になってきてしまって、連休の計画を立てることすら悲しく思えてきてしまう。何一つ期待もせず、唐突に連休が現れてほしいものだが、会社に勤めている限りそうも行かず、常に慢性的な悲観と向き合いながら生き続けている。本当に面倒くさい人間だし、我ながら可哀想な生き方だ。こんな自分と一緒に休みを過ごしてくれる人たちに感謝とお詫びをしたい。

 蕎麦屋で昼食を食べて、映画館で「君たちはどう生きるか」をみた。日々たくさんの映画を見ているけれど、こんなに映画に没入できたのも久々かもしれない。ジブリの映画は、アニメ作品でありながらも、というかアニメ作品であるからこそ、僕らの生活に直接問いを突きつける力強さを持っているように思う。

 帰ってからYouTubeで色々な人の、映画に関するレビューを聞いた。ぼんやりとしか考えていなかったことが言語化されて整理され、また自分が見落としていた事象への的確な指摘に感銘すると同時に、「映画を観る」とは一体どういうことなのか、と、考えざるを得なかった。

 作品が作品たり得るためには、作者と同時にそれを見る我々の目が必要だ、ということが基本としてある。一つの作品を見ても感じることは人それぞれで、その感慨に良し悪しは無い。だから芸術作品は万人に平等に開かれているのだが、ある程度それを見る視点の「深さ」みたいなものが鑑賞側に無いと、芸術作品は茫漠とした薄っぺらなもので終わってしまう。まあ別に、薄っぺらなもので終わって、なんとなく良かったな、という感慨だけ得れればそれでも良いのだが、自分としてはもう少しその作品が描かれるに至った意味とか、背景みたいなものにまで到達したい、と思ってしまう。だから色々な人のレビューを聞いてしまうのだが、そうしたレビューに鑑賞後すぐに触れてしまうと、真っ新な状態で作品に触れた時の自分自身の感慨が、上書きされていくような違和感を覚えることもある。言語化されていなかった、茫漠とした自分の感情。それをもう少し、長い時間をかけて自分の頭で整理することも、時には必要なのかもしれない。

 だからと言って映画レビューが良くない、と言っているわけではなく、きっとあらゆる古典の文学作品が作家と批評家の相補関係によって現代にまで生き永らえているように、それが描かれた意味を紐解き、発信する人たちは絶対に必要だ。だからそうした人たちには感謝を述べつつ、できる限り意図的に、そうしたレビューを遠ざけて自分の頭で考える時間を作り出さなければいけない、のかもしれない。帰りの車で、連れ合いと映画について語り合った時間はとても良かった。

 

2023年7月31日(月)

 連休最終日。今日はなんとしても一日中家に居よう、という謎の決心をしていたから、一日中家に居ることができた。いつも休日は、気付いたら読書も創作も放り出してどこかに足を運んでしまうから、時にはこうした決心が必要だ。とは言え一日を過ごして日記を書いている今、何かを果たすことができたか、と言われれば、別に何もできていなかったような気もしてくる。本は沢山読めた。

 Amazonプライムで、ゴダールの「イメージの本」という映画を観た。とにかく難解で訳がわからず、途中何度も観るのを止めようと思ったけれど、辛抱して最後まで見通した。別に内容がわからなくても、その映画を最初から最後まで「観た」という経験自体が担保する意味があるはずだ、ということを最近よく考えているのだが、それは実際のところどうなのだろうか。「意味があるはずだ」というのが割合ポジティブな考え方だし、なんだかそういう考え方をしている時点でもう間違っているような気もしてくる。もっとリラックスした状態で映画を観た方が良いのかもしれない。

 内容は本当に難解で、何がそこに描かれているのか僕には全くわからなかったけれど、断片的に過去の映画や暴力的な映像がコラージュされるその技法を通してなんとなく、「記録」や「歴史」に触れる大切さ、みたいなことをゴダールが強く訴えているような映画だと、あくまで僕の目には映った。新しい価値観の良さが取り沙汰される社会だが、「今」は紛れも無く過去の集積に他ならない。だからきっと、今起きている問題の全ては過去や歴史の中に原因があるはずで、一歩立ち止まってそうした過去へと立ち返る勇気を、ゴダールはこの映画を通して鼓舞しているような気がした。昨日の日記に書いたように、できる限り他人のレビューを見ずにこの日記を書いているから、多少の的外れは勘弁してもらえると嬉しい。

 最近、会社でよく「新しいこと」への取り組みが評価される風潮があるのだが、そうした風潮だからこそ、「新しいことへ踏み出さない」という姿勢を維持している人側の意見を聞きたい、と思う。トライ・アンド・エラーは世の常で、何か新しいことを始めればそれに伴って何かが零れ落ちてしまうのだから、「新しいことへ踏み出さない」という姿勢も適切に評価されるべきだと思う。もしかするとそうした人たちは、過去にトライしたことで生まれてしまったエラーの意識が拭い切れないのかもしれないし、そうしたエラーが起きた時にそれを深く反省してしまう人と、すぐに忘れて先へ進める人は、単に性格の違いだけであって、能力の差なんてものではない。それを能力の差と割り切る会社の風潮が怖い。

 だからと言って全体が過去にしがみついて進まない、ということが良いことだというわけでもなく、社会が変わったらそれなりに会社も変わらなくてはいけないから変わろうとすることも大事なのだが、その上で「変わろうとする人」と「変わらない人」の両者を同じバランスで適切に評価する基準が無いととんでもないエラーが起こる、ような気がする。入職して数年で何をわかっているように言っているのか、と自分でも思うのだが。なんとなくそうした警鐘を、僕は今日この映画を観て受け取った。ような気がする。

 こういう風に、映画のことを考えていたら会社のことを考えたりもするし、会社のことを考えていたら芸術のことを考えたりもする。そういう行ったり来たりを繰り返して人生が進んでいくのであれば、明日から仕事が始まることも別に悪いことではない、と思えたりする。連休最終日、連休初日より前向きな自分がいることが、少しだけ嬉しい。

 

2023年8月1日(火)

 仕事に行った。仕事漬けの日々ではあんなにタスクに追われることが苦痛だったのに、しばらく休んでいると、タスクをこなすことの楽しさ、みたいなゲーム感覚が仕事にも芽生え始めるから不思議だ。適度な休息と実働のバランスが一番重要、ということか。

 家に帰ってからもその感覚が抜け切らず、いかに効率的に家事をこなすか、みたいなことに躍起になって過ごした。考えてみると、炊事ってかなりのマルチタスクだ。時間が有り余った中でする料理は別だが、限られた時間の中で料理に向き合う場合、何かをしながら同時並行で何かをする、という身の振り方が重要になってくる。例えば湯を沸かしてパスタを茹でながら持って帰って来た弁当箱を洗い、茹で上がる少し前に鍋を火から離し、パスタにかけて食すための具材をフライパンで炒め始める(僕の家のコンロは一口しかない)。鳴り響くタイマーを左手で素早く消し、右手で炒めていた具材に茹で上がったパスタを投入し、サッと混ぜ合わせる。その間に電子レンジで作り置きのおかずをチンして、全てを出来立ての状態で食すことができるタイミングを適切に見極めながら、皿に盛り付ける。それら全てが上手く行った時の底知れぬ快感は、他では得難いものだ。

 そうした「料理におけるマルチタスク」をこなしている間、僕はヘッドホンでラジオを聴いていた。けれどちゃんとラジオを聴いているか、というと必ずしもそうでは無く、頭では全然違うことを考えていた、ように思う。断片的にラジオの声が頭に入って来てもいるが、その声を媒介として、全然違う思考が頭の中で醸成されていく。それも別に調理のことではなくて、今日の仕事上での反省や、もっと違うどうでも良いことを頭で考え続けていた。自分の手は料理をしていて、耳ではラジオの声が聴こえていて、頭では別のことを考えている。なんだかそれぐらいの方が、物事は上手く運ぶような気がするから不思議だ。

 考えてみると自分はいつも、何かをしながら何かをする、だけに留まらず、何かをしながら何かをし、その傍らで何かをする、という、3つぐらいのことを同時並行で進めていることが多い。それが、自分にとって一番バランスが良いような気がする。車を運転している時も、カーステレオを流し聴きながら隣の誰かと会話をする、ぐらいのバランスがちょうど良い。もっと運転に集中しろ、と言われるのもわかるが、僕個人の体感としては、いくつかのことを同時におこなった方がそれぞれに対して適切な注意を向けられるような気がするのだ。逆に何も聴かず、誰とも話さず運転をしていると、ふっと湧いて出た思考に夢中に囚われすぎて、覚束ない手で事故を起こすような気がする。この同時進行のバランスは、人によって異なるのだ。授業を聞きながらペン回しをしたり、窓の外を眺めたりしている方が授業が頭に入ってくる、という感覚も、それとどこか似ている。結局そうしていると、「人の話を聞け」とか「余所見をするな」とか怒られてしまうから、それはただ単に僕の実感に過ぎないのかもしれないけれど。

 なんだか自分の集中力の無さを弁解したいだけの文章のような気もしてきたが、心の底から思うのは、何かを果たすためには、そこに向かう真っ直ぐな道のりを歩いているだけではいけないような気がする、ということだ。何かに集中する、ということは、穿った見方をすると、何かを見落とす、という盲目性に繋がってしまう危険を伴う。もうちょっと視野を広げて、色んなことにちょっとずつ手を出しながら、傍らで何かに取り組むようなラフさが、何をするにも重要なような気がする。「気がする」だけかもしれない。

 こんな日記を、僕は音楽も聴かず、ただソファに寝そべりながら、「集中して」書いた。重大な何かを見落としてしまっているような気がするが、まあそれはそれで良いか、と思うことにする。

 

2023年8月2日(水)

 仕事に行った。夜は飲み会だった。言いたいことを言えた、と快活に思えた後に、遅れてやって来るざらっとした後ろめたさは何だろうか。この後ろめたさを無視しない人間でありたい。

 

2023年8月3日(木)

 仕事の休みを取った。けれど夜は仕事の飲み会があったから、休みとはいえ、一日中なんとなく気を張って過ごしてしまったような気がした。夕方ぐらいからそうした一日を自覚し始めて、少しだけ憂鬱になった。

 もっと自然体で居れば良いよ、とか、思うがままに、と言われることが多いのだが、そもそも僕は自分の「自然体」がわからないし、自分の思いもわからない。だから大人数の飲み会で自分が前に立つ時には立ち位置が定まらず、過剰に道化を演じてしまう節がある。そして道化を演じた後に、その場に居合わせた色々な人たちそれぞれに今まで自分が見せてきた「分人」の顔を思い返して、自分が道化を演じていることを指摘されるような、なんとも苦々しい感情に苛むことになる。みんなで楽しむ場なのだから、自分が「道化を演じている」ということがバレてしまうことがなんだかすごく怖い。それがわかっているのに、場の空気に合わせるように過剰に道化を演じてしまう。太宰の「人間失格」で、主人公が鉄棒を上手く出来ない道化を演じている時に、友達から「ワザ、ワザ」と指摘される場面を、こうした時にいつも思い出す。

 自分の感情が白と黒では言い表せない、ということは何度も何度も繰り返しこの日記で書いてきたけれど、本当に日々の僕の悩みは全てそこに帰着するような気がするし、逆に僕にとっての救いも、全てそこにあるような気がする。だから自分の感情をある一定の方向に表出させなければいけない場面が僕はすごく怖い。できる限り少数のコミュニティや、趣向を凝らした表現の中で、じっくりと慎重に時間をかけて言葉を発したい。そんな自分は、やっぱり飲み会に向いていないのかもしれない。

 とはいえ、大勢の飲み会に向いている人間なんているのだろうか。大きい声で全体の空気を動かしているように見える人も、そう見られてしまっている時点でもう既に何かを失っているような気もする。だから程良く全体の空気に飲まれながら、程良くそこから逸脱していくような、適度なバランスが欲しい。けれどそんなバランスを考えながら過ごす飲み会で、本当に楽しくなれるのだろうか?

 

2023年8月4日(金)

 仕事に行った。なんだか昨日は暗くなってしまったが、今日は別に暗くならなかった。

 最近感情の浮き沈みが激しい。夜になると、特にその傾向が強い。そんな自分がひどく疎ましいのに、沈んでしまった時の自分は手に負えない。何をしていても悲観が加速する一方で、何もやる気が起きなくなってしまう。そんな時は早く布団に入って寝てしまうことがきっと一番なのだが、そう思っていながらも、毎度氾濫する自分の感情の波に、身を委ね続けてしまう。早く陸に上がれば良いのに、いつまでも波の中を漂い続けている。

 もしかすると自分は、そこに何か冒険的な、自身の成長への一端を求め続けているのかもしれない。荒れ狂う波に立ち向かうことで得られる、雲一つない平穏。もちろんそうした悩みや葛藤を繰り返して僕たちは大人になっていくはずだが、もう良い大人だ。日々仕事に明け暮れる中で、こんなに感情に左右されていては、疲れてしまって仕方が無い。

 疲れてしまう、と書いたことで、やっぱり早く眠ることが一番だ、と気付いた。僕が求めていたのは、きっとこうして日記を書いて自分自身の感情を整理する時間だった。良かった、明日は休みだ。

 

2023年8月5日(土)

 図書館に行って本を読んだ。いつも思うのだが、「本を読もう」と意気込んで図書館に来ると、決まって眠たくなってしまう。自分を眠りに引き摺り込もうとする引力に逆らうように、無理やり文字を目で追い続ける。正直、内容はほとんど頭に入ってきていない。次第に本を読んでいるというよりも、ただ眠気と闘っているだけのような、不毛な時間の積み重ねだけが残る。帰り道に、今日は一体何を果たしたのだろうか、と悔恨する夜を、何度やり過ごしてきただろうか。

 何かをしよう、と思うと何かができない、というのがこの世の常で、そのバランスによって世界は成り立っているように思う。服を買おう、と意気込んでいる時に限って服は買えないし、誰かとゆっくり話そう、と思っている時ほど会話は弾まない。それなのに偶然通り掛かった服屋で出会った服はすぐにでも買う気になるし、仕事中にするプライベートの話ほど意外と盛り上がったりもする。そうした、意図とは真逆の偶然によってこそ、この世界は支えられているような気がする。

 しかし一度そうした仕組みに気付いてしまうと、今自分が何をしたいか、そしてそのために何をするべきか、ということを表明したり、足を踏み出したりすることができなくなってしまう。そうして何かに積極的にアプローチする姿勢よりも、悠長には思われるが、然るべき時に何かを掴み取るような、懐の広い「受け身の体勢」を保つことの方が、より重要なことであるような気がしてくる。目標を持って何かに挑むことよりも、目標を持たずにただ生きる、ということ。そこで偶然見出した何かを、後付けでそれが「目標」や「夢」だった、と思い返すぐらいで十分ではないだろうか。というか、目標や夢を叶えることに、そもそも何の意味があるというのだろうか?

 目標や夢を「叶える」ことには意味がない、と一貫して思うけれど、その一方で、目標や夢を「持つ」ことについては、一概に否定できないように思う。僕は今日、図書館に本を読みに来た。けれど本は読めず、逆にこうして日記を書いた。本を読みに来た、けれどあまり本を読めなかった、ということが、こうした日記を書くことに繋がった。それは最初に「本を読みに来た」という目的があったからこそできたことで、一日中家でダラダラしていたら、何一つ果たすことができなかったかもしれない。とすると、やはり「本を読む」という目標を持ってここにやってきたことは、間違いではなかった。

 ただ、もしかすると一日中家でダラダラしよう、と最初から思っていた方が、本を読むことも日記を書くことも両方とも果たせていた、という可能性も捨て切れない。そうやって考えていくと、僕が抱く様々なレベルでの目標は、全てにおいて意味がないし、全てにおいて意味がある。だから一生懸命考えたって仕方ないのかもしれない。

 もうちょっと「ゆるふわ」な感じで、適当に生きながら、その場その場で何かを掴み取って生きて行こう。それが何かを果たすことに繋がるはずだ、みたいなことを、また変に「真面目に」考え込んでしまった。