20230604-20230610

2023年6月4日(日)

 ぎっくり腰生活5日目。

 紫陽花とクレマチスの花束をもらった。もらった花はどうして美しいのか、と考えた。もらった花が美しいのはきっと、花を美しいと思う心自体が美しいからだ、という単純なことを思った。美しい、と思った花を誰かに贈ろう、という心はもっと美しく、そうして受け取った花を見て美しいと思えた自分の心も、美しく思える、ということも含めて、全てが美しいからもらった花は美しいのだ、と思った。水色の紫陽花が、戸外から差し込む陽の光できらきらと輝いていた。

 

2023年6月5日(月)

 ぎっくり腰生活6日目。仕事に行った。

 まだ普通に歩くことはままならないけれど、かなり調子が良くなった。日に日に身体の調子が良くなることは嬉しい。けれど腰の痛みを庇って身体の色々な部位に負荷がかかっているようで、家に帰るとどっと疲れが出てソファから動けなくなってしまった。

 動けなくなってしまった、とはいえ、動こうと思えば動けるわけで、それは結局のところ動きたくなくなってしまった、ということなのだが、動けなくなってしまった、と書きたくなるぐらい疲れ切ってしまっていた。そこまで説明して初めて本当のことを書くことができるのかもしれないけれど、そんなことは書かなくても良いのかもしれない。

 けれど本当のことを書く、と決めたのだ。本当のことを書くためには、言葉を尽くすしかない。もっと本当のことを書くと、この日記は次の日に書いたから厳密に言うと日記では無かった。あーあ。

 

2023年6月6日(火)

 ぎっくり腰生活7日目。

 職場で訃報を聞いた。その人は僕のかつての上司で、僕はその人に対して少なからず憧れの感情を抱いていた。その人と過ごした時間はごく僅かだったし、交わした言葉数も少なかったけれど、僕がその人に対して「憧れ」と言って良い感情を抱いていたことだけは確かだった。心の美しさが、佇まいにあらわれているような人だった。背中が全てを語っていて、僕はその背中を見ることが好きだった。いつかゆっくりと、話がしたいと思っていた。だから僕はその訃報を聞き、すごく悲しい気持ちになった。

 それでも僕は涙を流さずに、一日普通に仕事をした。時には同僚と笑い合い、当たり前のように昼飯を食べた。僕の生活や心の有りようは、何一つ変わらないように思えた。僕は少しだけ、そのことを罪深いことのように感じていた。

 例えば僕がそこで涙を流し、一日仕事に打ち込むことができないほどに塞ぎ込んでいれば、僕は亡くなってしまったその人を十分に悼むことができたのかもしれない。けれど僕にはそれができなかった。悲しい気持ちは確かにあったのに、それを外側に放出するまでには至らなかった。周囲の人たちは涙を目に浮かべたり、明らかに落ち込んでいるようにも見えて、僕はその姿を目にするたびに、その人の死から受けた悲しみをこの世界で十分に表現することのできない自分に苛立ちを感じていた。そしてそれと同時に、涙を流したり落ち込んだ様子を外側に放出できている人が、僕よりその人に対する思いの強さをあらわしているような気さえした。共に過ごした時間の長さが違うのだから、それもごく自然なことなのかもしれない。

 悲しみの尺度は人それぞれで、それは他人と比べられるものではない。それと同じように、感情の外へのあらわれ方も人それぞれで、それが誰かや何かに対する思いの強さをあらわしているわけではない。そうやって信じていても、目に見えるものが全てのこの世界では、目に見えるものの尺度でしか感情の大きさを測ることはできない。涙を流している人は、きっと涙を流していない人よりも悲しい。笑っている人は、きっと笑っていない人よりも楽しい。けれどそうやって感情を素直に誰かに伝えることが、僕は極度に苦手だ。

 だから悲しい気持ちを持った時に、その悲しい気持ちが適切な形で自分の態度としてあらわれていない、と思った時は、そうした感情を装った演技をしてしまうことがある。けれどそうやって外側に見える形で放出した態度の中には、少なからず嘘が含まれていて、僕はその嘘に対して自分自身で深く傷つく。楽しい、と思った時に、それを楽しそうな態度で誰かに伝える必要がある、と思ってそうした自分を演じると、演じている自分の姿を他の誰よりも心の中の自分が一番見ていて、指を差して詰っている。嘘をつけ。それはお前の心から直接的にあらわれた態度ではない、と。そうして演じていると自分が本当に抱いた感情も嘘になってしまうような気がして、そうして感情を擦り減らしていくことにも疲れてしまって、僕はどんどん、自分の感情を素直に表出することができなくなってしまったような気がする。

 僕は言葉においても、それと同じことを感じる。「悲しい」ということを誰かに伝えることが、「悲しい」ということを伝える唯一の術である世界が怖い。そうした世界で僕は、「悲しい」ということを口に出した途端に、本当は悲しくはないのではないか、と詰るもう一人の自分が心の中にあらわれて、その自分によって本来自分が抱いた感情が打ち消されていくのを感じる。それでも「悲しい」ということを伝えるにはやっぱり「悲しい」と言うことしかできないし、だから「悲しい」と言うのだが、その言葉は僕の心の奥底からあらわれた言葉ではないような気がする。そうして発された言葉には、いつも罪深さが伴う。

 堀江敏幸はかつて、「河岸忘日抄」という小説の中で、「内側の動きを統御していくために不可欠な『きびしいおだやかさ』があっても良いはずだし、またそうした特別なきびしさに対しての世の理解が、もっと得られても良いのではないか」と語った。僕が抱いている感情はそうしたきびしさとは少し異なっているような気もするが、全く無縁のものでもないだろう。自分の感情を打ち消そうとするもう一人の自分が、外への感情の放出を妨げる。それに対する世の理解が得られれば、もっとそれぞれの感情の持ち方が得られるはずだし、先に僕が感じたような罪深さを、自分で感じることもなくなるかもしれない。

 

 こうして書いてきた文章の長さと、かけた時間の長さがそのまま、故人を悼む姿勢へと繋がっていたら良いな、と思う。死後の世界が本当にあるとして、僕がもう一度その人と会うことができたら、この日記をここに書いたことを伝えたい。ここに書いたことを、ここに書いた時間以上の時間をかけて、その人に伝えたい。そうしたらその人は、一体どう思うのだろうか。

 

2023年6月7日(水)

 ぎっくり腰生活8日目。何も予定はないけれど仕事を休んだ。

 まだ痛みはあるけれど、手を使わずにベッドから起き上がれるようになった。これは大きな進歩だ。一週間前には絶望していたけれど、当たり前のように時間と共に身体は復調する。何もかも、時が解決してくれるし、時が洗い流してくれる。心は複雑で、洗い流したくない思い出も時にはあるけれど。それだけ携えて生きていけば良いのだ、きっと。

 洗濯をした後、本を読んで過ごした。文芸誌の三田文学にかつて掲載されていた、桜井晴也「くだけちるかもしれないと思った音」を読んだ。何度読んだかわからないけれど、この小説の美しさは本当に言葉にできない。それはその美しさが、ここで書かれている言葉によってしか表現され得ない美しさだからだ。何を書いても野暮な気がするから、とにかくたくさんの人にこの小説を読んで欲しい。

 昼過ぎから買い物に出かけた。空は晴れ渡っていて、初夏を感じさせる暑さだった。いつもよりゆっくり歩いているからか、行く店行く店で色々な服が目についてしまった。それでも財布と相談した結果、職場の仕事着だけを購入し、膨れ上がった購買欲のかたまりを携えたまま帰宅した。

 欲求に対する不満を解消する一番の術は、趣味に没頭することだ、と聞いた。幸い、服を買うこと以外にも趣味はたくさんある。家に帰ってからまた本を読んで、料理をして、音楽を聴いて過ごした。こんな当たり前の日常が戻ってきたことが、ただそれだけで少しだけ嬉しかった。

 

2023年6月8日(木)

 仕事に行った。たぶん、ついにぎっくり腰生活から抜け出した。やった、と思っていると、きっとまたぎっくり腰になるから、やった、とは思わないことにした。

 職場の同僚と話していて、Apple vision proの存在を知った。プロモーションビデオを見てみると、なんだか本当にすごい。ゴーグルを装着すると、実世界にバーチャルの世界が出現して、その世界を指で操作できるらしい。ちゃんと見ていないからよくわからないけれど、とにかくすごい。来るところまで来たな、というか、今まで生きてきた中での時代の変遷のスピードを鑑みれば、いつかこれが当たり前の時代になるんだな、と思う。すごいなあ、と思うと同時に、なんとなく悲しい気持ちになってしまった。

 僕はその話を聞いた時に、「知らなかった」とその同僚に告げたら、ひどく驚かれた。笑いながら冗談ぽく、「何して生きてるの?息してるだけじゃん」と言われた。それを言われて、僕は笑った。本当にそうだ。自分、息してるだけじゃん。

 「息してるだけ」と言われている自分も、一応できる限り色々なことをして生きていようと努めているはずなのだが、そうしていても気付いたら時代から取り残されていく。僕は本が好きだし、本を読まない人ほど「息してるだけ」だなあ、と思う気持ちもあるのだけれど、多分そうやって思う人の方が少なくて、「それは古い価値観だ」と詰られることの方が多い。世代交代が進む中で、なおさらそうやって言われることは増えていくような気がする。気がする、というだけかもしれないけれど。

 「古い価値観」という言い方自体が間違っていて、価値観に「古い」も「新しい」も無い。というか、そうした新旧の概念が持ち込めるのはあくまで自分の中だけの話であって、それを他人の感覚や、社会全体のことに対して口にすることは間違っている。それは「古い」という言葉を口にする時に少なからず否定的な視座が含まれているからで、それは万人に等しく与えられている、価値観を選択する権利を妨害する。そしてそうした発言をする人ほど、自分が誰かの権利を冒涜しようとしていることに気付かない。

 それなのに新しいものが良くて、古いものが悪い、ということを僕たちはAppleから半ば強制されながら生きている。iPhone12よりiPhone13の方が性能が良くて、Mac bookよりApple vision proの方が良いに決まっている。それはある意味経営戦略の一つなのに、僕も含めてその感覚が一度染み付いてしまうと、万物すべてに対してそうした目を向けてしまうことになるような気がする。それが少しだけ怖い。

 僕は古着が好きだし、古本も好きだ。今店頭に並んでいる新刊本より、今は亡き人が書いた昔の小説の方が面白い、と思うことも多い。どれだけ価値観の強要が激しい時代でも、ちゃんとその感覚を大切にしたい。いや、Appleは別に悪くない。もちろん新しい物が増えていくことは素晴らしいことだ。けれどどんどん増えていくツールや物に囲まれた世界を生きていても、自分が一番美しいと思う物や、自分に一番似合う物を、自分で選び取る審美眼を失いたくない。多分今日書きたかったのは、そのことだ。

 そんなことを考えていたら、ある人から陶器市の開催を知らせるラインが届いた。全国の古くから伝わる焼物が、駅前の通りに集まっているらしい。その連絡が、「新しい物が良いわけではないよ」と僕に優しく語りかけてくれているような気がして、僕は少しだけ安心した。

 

2023年6月9日(金)

 仕事に行った。

 仕事でたくさんの文章を読む必要があって、根を詰めて羅列する文字を目で追った。なんだか今日は調子が良くて、色々な難しい話がスッと頭に入ってきていたのだが、家に帰り、読みかけの小説を開くと、不思議なことに全然内容が入ってこない。読み進めていても、途中で「ただ文字を目で追っている状態」に陥ってしまい、また振り出しに戻る。その繰り返しが延々と続き、どうしても、読書が前に進んで行かない。

 小説を読む、という行為は、そこらにある契約書やら規定やら、そういった類の理屈的な文章を読むこととは全く違う筋肉を使っているらしい。小説を読んでいて、あ、わかった、となる感覚は、理屈的な文章を読んで何かを理解する、意味を紐付ける、ということとは根本的に異なる。異なるというより、全く対極にある、と言ってしまっても良いかもしれない。

 それは本当の意味で「小説を読む」ことが、理屈では無く感情によってしか成し得ないからだ、と思う。こういう発端があって、こういう結論になった、という因果関係や、物語全体の構造を理解する、といったところに、小説の読みの本筋は無い。よく物語に必要とされている「起承転結」みたいなものにも本当は意味は無く、それよりもそこには無い隙間のニュアンス、というか、小説全体における言葉全体が紡がれた「過程」を読む、ということの中にこそ、僕は小説を読むことの本質を感じる。

 仕事をしていると、「原因があって結果がある」という因果関係でしか物事を捉えてはいけない場面が多い。それ以外の仕事の捉え方は、基本的に歓迎されない。それは、職場には基本的に企業理念だったり目標があって、最終的には全ての業務をそこに収斂させるよう、社員全員で努めているからだ。

 けれど文学はちがう。読者として小説に向かい、そこで得た感情を何か一つの「答え」に収斂させるのでは無く、広がりを持った無限の世界へと開け放つこと。あるいは、確固たる「個」など無い、と、自分自身が生きてきた価値観や立ち位置そのものを揺るがせること。それが文学の可能性であり、その果てに、読み手の魂の救済がある。

 


 考えて、考えて書いたが、うまく言葉にできた気はしない。けれどきっと、うまく言葉にできる必要など無い。「考えて、考えて書いた」という過程の中にこそ、本当の意味があるのかもしれない。そんなことを考えながら文学へと向かうための筋肉をほぐしたところで、これから机に置いた読みさしの小説をもう一度開いてみようと思う。

 

2023年6月10日(土)

 朝からバンドのラジオ収録とミーティングをした。深い所まで話が及んだ、と思ったのだけれど、人との会話における「深さ」とは、一体なんだろうか、みたいなことを考えた。

 「哲学」という言葉の意味を辞書で引いてみると、「本質を洞察することで、その問題を解き明かすための考え方を見出す営み」とある。なるほど、そう考えれば、僕はいつ誰と話をしている時も、物事をいちいち「哲学」したがっているように思う。つまり何らかの出来事に問題があると感じた時、あるいは誰かの愚痴や悩みを聞いた時に、それを解き明かすための糸口を、会話の中で常に求めてしまう。というかそれを探すことこそが会話の本質だと、信じ過ぎているのかもしれない。

 けれど誰もがそうやって考えながら話をしているわけではないし、僕がそうやって哲学をしたい、会話の深い所に辿り着きたい、と思っていることを、疎ましく思う人もいると思う。何気ない会話、例えば天気が良いね、という話ですら、天気が良いとはどういうことか、あるいは今その人が「天気が良いね」といったことの裏にある意図というか心境のようなものまで解き明かしたい、と思ってしまうことが、話者にとって居心地が良いものだとは決して言えないだろうし、そのあり方が自分にとって健全だとも思えない。見えたくないものまで見えてしまう気がするし、何よりそうやって考えていると疲れる。けれどどうしてもそうやって考えてしまうし、何事も深く考え込んでしまうことが、当たり前のように癖付いてしまっているように思う。時々、こんなことで良いのだろうか、と、自分で自分に呆れてしまうことがある。

 毎日日記を書いていることがそれに起因しているのかもしれない。今まではこんなに考えていなかった。今回の日記だって、別に「ミーティングをした」というそれだけを書けば別に良いのだけれど、それ以上に、分量の多いものを書くためには、何か身の回りで起きた事象を深めて考える思考が必要になる。書くことが考えることであれば、書くためには、考えなければいけない。毎日毎日こうやって生活していると、不思議なもので、何かを考えないことの方が難しくなってしまう。そんな実感がある。

 これで良いのか、あるいは良くないことなのか、それはわからないけれど、まあもう仕方のないことだから今日は考えるのをやめよう。考えることの終わり、それは僕の中で書くことの終わりを意味する。おやすみなさい。