20230521-20230527

2023年5月21日(日)

 東京オペラシティ・アートギャラリーに今井俊介「スカートと風景」の展示を見に行った。夕方だったからか、日曜日にも限らず来場者数も落ち着いていて、天井の高い広々とした会場でゆっくりと作品を見ることができた。展示されていた絵はどれも原色に近く、彩度の高い色や蛍光色で塗られた作品ばかりだったが、スカートから着想を受けているという線の揺らぎや分割の工夫によって、それらの絵は押し並べて上品で、内に懐の深い優しさを宿した作品として僕の目に映った。

 スカートは美しい。僕は展示会場に、先般購入したtoogoodというブランドの「Baker trouser」を履いて行ったのだが、僕がそのトラウザーに惹かれた理由は、道を往来する人たちが身を包むスカートを目にした僕が受け取る美しさと同様の魅力が内包されているからだと、展示を見た今、思う。歩を進めるたびに薄いコットン生地が風に揺れ、意匠の凝らされたドレープ感が服に奥ゆかしさと優雅さを与える。このトラウザーには、服自体に、それが着られることによる「揺れ」の前提がある。「上品だ」という形容が服にはよく為されるが、その真意は、人に対して他者が抱く印象と同様に、自らの機微や揺れを肯定し、手懐けることで生まれる「余裕」の部分にこそ内包されているのではないか。

 それは「どういう服を着るか」ということを選択する場面においても同様で、そうした余裕を着こなす、あるいは注視して見つめることから、自身をより深く掘り下げることができると思う。僕らは店で服を選ぶ時、ラックに掛けられた服を見るのと同時に、自分自身のことを内なる目で「見て」いる。自分には何が似合うだろうか、そしてどのような自分になりたいか、ということの逡巡を通して得られるのは、自身の存在への疑念や肯定といった果てしない揺らぎだ。その揺らぎを通して何かを選択し、所有する、という行為の果てに、同じように迷いながら生きている他者への容認、つまりは「優しさ」への契機が切り拓かれる、と考えても、決して大袈裟では無いだろう。

 僕が今回の展覧会で目にしたのは、そうした大人の余裕を持ち、上品で、懐の深い優しさを備えた作品群だった。大好きなトラウザーに身を包みこれらの作品を見ていた自分は、その展示会場の一部の風景として、果たしてちゃんと「似合って」いただろうか。連れ合いに後ろから撮影してもらった自分と作品のツーショット写真を自宅で眺めながら、そんなことを考えてしまった。

 


2023年5月22日(月)

 仕事に行った。夜は簡単な料理をして、時間をかけて昨日までの日記を書いた。日記を書いている時間が増えれば増えるほど、日記に書く内容は少なくなる、という単純な事実に気がついた。じゃあ、「日記を書く」ということについての日記を書こう、みたいな変な結論に辿り着いたが、それはすごく難しいことだと思った。数々の作家が苦心してやってきたことは、とどのつまり、きっとそういうことなのだ。

 言葉が言葉を呼ぶ。前に書いた言葉が、次の言葉を引っ張り出してくる。そうした自由演奏法みたいな書き方で導き出される文章があるはずで、僕はそういう文章が書きたい。答えがあることや、実際に起きた出来事をそのまま書くのではなく、書きながら考え、考えながら書きたい。そうして続けることでしか、自分が考えもしなかった「何か」を書くことはできないだろう。そうして書かれた素晴らしい作品が、目の前の本棚にはたくさんある。

 そんなことを考えていたら、古井由吉の作品が読みたくて仕方なくなってきた。今日はここで日記を書くことをやめ、本を読もう。そして明日の自分が、素晴らしい小説を読んだ新しい自分、として、何かを考え、考えながら書くことで、書くことのできる「何か」がある、と信じて、これからもやっていくしかない。

 月曜日から決意表明みたいな日記を書いてしまって、どうするつもりだ、と詰る自分の声が聞こえた気がしたが、無視した。

 

2023年5月23日(火)

 仕事に行った。退勤後は職場の先輩たちとジムで筋トレをした。

 冬より夏の方がなんとなく気持ちが明るくなるように、体温が上昇すると少しだけポジティブな思考になる。そして聞いた話によると、筋トレをすると身体に体温を保ちやすくなり、それが日常生活での前向きな思考へと繋がっていくらしい。だから筋トレをしよう、ということだが、僕はこうやって文章を書いたり曲を作ったりする上で、少なからず自分の「悲観的な部分」を大事にしたい気持ちがあって、そのためには筋トレなんかしない方が良い、と言い訳めいたことを主張したい、がその一方で、今の自分に足りないのは物事を前向きに捉える明るさなのかも知れず、そうした明るさを体得するためには悩むより前に自身を追い込んで筋トレをした方が良いのかもしれない。

 そんな逡巡を滔々と繰り返して、結果的にだらだらと中途半端にトレーニングをした。こんな体たらくではきっと筋肉もつかないし、悲観の底や明るさの兆しも見えない。怠惰と躊躇の権化。やっぱり案の定、こんな僕は筋トレが向いていないのかもしれない。

 

2023年5月24日(水)

 有給を取って、映画「TAR」を観に行った。画面に映る全てが伏線のような映画だったが、何も回収されずに終わったような気がした。けれどとにかく素晴らしかった。何も回収されずに終わった、のではなく、僕自身が回収できなかったのだ。意味などなくて良い、けれど、意味を求め始めたらもっと面白い。映画には、そうした底知れない懐の深さと包容力がある。

 僕はもう一度この映画を見たい。その時にじっくりと、細部に宿る意味を一つ一つ紐解きながら、それについて考え、何かを書きたい。きっと、そうして「TAR」を観るやり方と同じようなやり方で世界を見つめることができれば、戦争なんて起こらないはずだ、と思うのは、楽観的過ぎるだろうか。

 

2023年5月25日(木)

 仕事に行った。夜は職場の人たちとサウナに行った。家に帰って二十億年ぶりにテレビを点け、バンドのミュージックビデオが映っているらしいドラマを観た。ほんの少しだけ映っていたけれど、それはほんとうにほんの少しだけだった。

 それでもクレジットに自分のバンドの名前が載っているのは嬉しかった。どうして嬉しいのか考えてみたけれど、それもよくわからなかった。なんだか泣きたいような気持ちになったけれど、泣かなかった。

 

2023年5月26日(金)

 仕事に行った。夜は、浅野いにお『虹ヶ原ホログラフ』を読んだ。人の生死の境に、蝶の大群が描かれる不思議な漫画だった。その一コマを読みながら、美しいなあ、と思っていたら、ラインが来て、割と近くで拳銃の発砲事件が起きていたことを知った。怖いなあ、と思っていたら、グラグラ、と揺れて、今度は地震だった。

 僕らが生きている世界は、全てが不確かだ。明日何が起こるのかも、そもそも明日生きているかどうかすらもわからない。生きていたら良いな、と思うけれど、もしかすると死んだ後の世界の方が幸せかも知れず、自分や愛する人が明日生きていることを願うことすら、正しいことなのかわからない。僕らはわからなさの中で路頭に迷い、時々何かをわかったような気になりながら、結局何一つわからないまま、死んでいくような気がする。

 それでも例えば誰かが泣いている時、その背中を優しくさする誰かの手が、この世界で全くの無意味だとは思えない。というか、意味があるとか意味がないとか、正しいとか正しくないとか、そうした価値判断の基準が本来は無い所に、僕らの魂は存在している。だから、ただ真っ直ぐに、優しさに忠実に生きていれば良い、のかもしれない。

 虹ヶ原ホログラフで描かれていた美しい蝶の大群は、そうした僕らの魂が存在している場所を、今も自由に飛び回っているのかも知れない。

 

2023年5月27日(土)

 朝から洗濯機を3回まわして、作曲をした。というより文章を書いた。作曲をしているのか、文章を書いているのかわからないようなことを今やっていて、それがほんとうに楽しい。楽しいのが一番だが、楽しいだけで良いのだろうか、と少しだけ思う。向き合っている時間が短すぎるのかもしれない。

 夜は買い物に出掛けた。それ以外には特筆すべきことは無いような夜だった。帰り道には車の中で坂本龍一のピアノ演奏を聴いた。「Solitude」は良い曲だ。