20230219-20230225

2023年2月19日(日)

 朝からバンドメンバーとラジオを録って、それからだらだらとしていた。だらだらとしていたら、急に何もしていないことが怖くなってきて、背突かれるように喫茶店に出向いて小説を書いた。しばらく書いて、夜の公園を散歩してから家に帰った。


2023年2月20日(月)

 家で仕事をした。終わってから小説を書いた。

 役者は、何かを演じた後に自分がわからなくなるらしい。長い時間をかけて役柄に向き合っていると、本当の自分がわからなくなってしまう、と誰かがテレビで話していた。その話を聞いて僕は、いや、そもそも本当の自分なんていないだろ、と訝しく思う反面、役者がそう口にする理由も、なんとなくわかるような気がする。

 僕は最近、毎日のように何かを書いて暮らしているけれど、ここで書いた言葉や、小説の中の言葉、音楽の中の歌詞が、果たして本当の自分の感慨なのか、と問われると、わからなくなってくる。別にそれは、誰かに自分の感情を仮託して書いているから、というだけではない。感慨を言葉にすることの難しさと同様に、一度言葉にした元々自分の内にあった何かを、それを発した後に、もう一度自分の物として内に引き寄せることが難しい。自分が書いているのだから自分の言葉である筈だし、自分の中で生まれた感慨でもある筈なのに、それが言葉になった途端に、自分の所有物ではなくなってしまうような感覚が常にある。いつもポンッと適当に放った単語に引き摺られるように次の言葉が出てきて、気付いたら文章になっている、という感じで、それは自分の感情を言葉にしているという感覚とは程遠い。そう考えると、今僕が何を考え、何を書いているのか、全然わからなくなってきてしまう。ここで書いている僕の世界は、ひどく不確かで、脆いもののような気がしてくる。

 こんなことで良いのかはわからないけれど、こんな風にしか書けないのだから仕方ない。きっと何かを書くということは、自分の感情がどう反映されているかとかそんな単純な問題ではなくて、自分の目を通して見える世界の断片を、ただ必死で掴もうとする行為なのかもしれない。それを結果的にうまく掴むことができなかったとしても、そういう姿勢でいるだけで、何かしらの言葉は生まれてくる筈だ。そうして生まれた言葉を受け取ってくれる誰かの存在を、僕は素直に大切に思うし、その誰かが掴もうとして掴み切れなかった世界の断片を、僕が拾うことができたら、とも思う。

 眠気と相まって、どんどん自分が何を書いているのかわからなくなってきた。明日これを読んだら、自分はどう思うのだろうか。どう思うとしても、僕が眠い目を擦りながら必死で何かを掴もうとした証だけは、どうしてもここに残しておきたかった。

 

2023年2月21日(火)

 仕事に行った。順調に仕事が進んでいるような気がした。それがなんだか逆に悔しかった。

 

 家に帰って小島信夫「文学断章」を読んだ。「二十代作家出でよ、ということ」という章の中で、こんなことが書いてあった。

 

 (前略)文学というものは、大学の教師を学生がやっつけたりしたようなやっつけ方と同じふうにして書かれることはあり得ないということだけは確かである。文学というものは、私が馬鹿の一つおぼえのように言いつづけているように、複雑をとらえなければかなうまい。まして今の世の中はそうである。かんたんに捕まえられると思っているような若者がいつの時代だって小説が書けるはずはなかろう。問題はあの若者のエネルギーだ。あれだけのエネルギーは文学に現われるはずだ、ともいえよう。

          ーーー小島信夫「文学断章」より「二十代作家出でよ、ということ」

 

 複雑を捉える力は、どのように体得されるのだろうか。努力? 経験? 物事を簡単に捕まえることができないという諦めにも似た感情は、意図するせざるを関係なく、本人も気付かないタイミングでいつの間にか身に沁みているものだ。それらは確かに、「長く生きる」というただそれだけで、そのタイミングがやってくる契機は増えるものかもしれない。

 けれどその諦めにも似た感情を抱えながらも、創作に向き合うには少なからずエネルギーが必要だ。それは、若さとも言える。何か人生に希望を見出した時、それに向かって真っ直ぐにひた走る無邪気さが、ある意味では創作に必要になってくるだろう。

 諦めながらも、諦めない。そんな矛盾した感情のことを、小島信夫はここで「複雑」と言ったのかもしれない。僕は本を閉じ、自分の中に存在するであろう、あるいは存在していてほしい「複雑」の声に耳を澄ませながら、小説を書いた。

 

2023年2月22日(水)

 今日は有給を取って、車で遠出をした。昼過ぎに家を出、まずは埼玉県深谷市に行って、三百年の歴史を持つ七ツ梅酒造跡に居を構える古本屋に足を運んだ。土地の歴史と記憶の数々が詰まった場所に新たに店を開くのは、すごく難しいことだと思う。ややもすれば詰られてしまうようなその行為が、僕の目に凛として美しいものに映ったのは、きっと店主や本をその場所に寄贈してきた人たちが、その土地を本当に愛しているからだと思う。愛のある場所に、非難や憐憫は生まれない。その場所にいっしんに向けられた愛の一つ一つを見つめてみたいと、本棚をじっくりと眺めていたら、思いの外長居をしてしまった。


 夕方になって日が暮れ始めたところで、事前に調べていた温泉に行った。先の酒造跡を散歩して冷え切った身体を温めるには、これ以上ない素敵な場所だった。美しい景色の露天風呂に浸かりながら、また温かい岩盤の上に寝転びながら、僕は何かを考えていた気がするけれど、何を考えていたか今となっては全く覚えていない。いつも背突かれるように何かを考え続けている自分だが、この時だけは、自分が何を考えていたかわからない、ということが心地良かった。今、その時何も考えていなかった、ということを考えている、というのも、なんだか不思議なことだ。

 何かを考えていたい欲求と、何も考えたくないという相反する欲求が、常に自分の中で拮抗して存在しているらしい。僕が芸術を好きでいるのは、そうした自分を受け入れる大きな度量が芸術にはあるからだ。深く考えようと思えばいくらでも掘り下げていくことのできる深度を持ちながら、疲れた身体を五感を通して癒していくような効果も芸術にはある。見る者や聴く者のその時々の感情や、身体的な疲労の度合いによって、そこで生まれる芸術の意味は大きく変わる。そう考えると、自分が何か作品に触れるということは、自分という存在がその芸術作品が存在する価値のために、何かしら能動的な行為であるような気もしてくる。少なからず、そこには達成感もある。

 温泉に浸かったり、サウナに入ったりすることは、そう考えてみると芸術体験よりはかなり受動的な行為だ。達成感は全く無い。けれど時には、そうして何も考えずに身体や精神の疲れを癒していくことも必要かもしれない。けれど結局それでは飽き足らず、そうした体験を何かしら能動的なものとして自分の中で考え直すために、今日も文章を書くことができてよかった。

 

2023年2月23日(木)

 昨日は伊勢崎に宿泊し、朝から桐生に行った。大好きな町だ。高い建物が少なく見晴らしが良いにも関わらず、四方が山に囲まれているからか、そこには世界から見放されていない不思議な安心感がある。人が少ないにも関わらず、その土地への愛によって作られた店々には、人の優しさが溢れている。風は柔らかく、日差しはあたたかい。辺りは静かで、時間の流れも緩やかだ。ここに来るたびに、僕は大袈裟ではなく、生きていて良かったと思う。

 車で坂道を上って、大川美術館に辿り着いた。今回の旅の目的は他でもなく、この美術館で開催されている松本竣介のデッサン展示を見に行くことだった。駐車場から緩やかな坂道を徒歩で下り、美術館の門をくぐる。その先で見た美しい絵画の数々と、至上の幸福が詰まった展示空間で得た感慨は、簡単には言葉にはできない。というか、言葉が思いに追いつかない。本当に書きたいことは、いつも上手く言葉にできない。僕はここで得た感慨や目にした作品のことを、この日記で書き殴るだけでなく、何かもっと適切なやり方で表現したい。その表現のやり方を探すことに、人生を賭しても良いかもしれない。そう思ってしまうぐらい、僕はそこで過ごした時間の中に、抑えきれない愛情の種を感じていた。

 

 その後近くの歴史あるレストランで遅い昼食を取り、大好きな喫茶店伊東屋珈琲で一服した後、車で太田市に向かった。以前から気になっていた太田市立美術館・図書館は、建築家の情熱に溢れた素晴らしい場所だった。高い所の本を手に取るために本棚が踏み台になっていたり、各フロアが明確に階で分けられているわけではなく、スロープで渦巻くように設計されていたり、そこには図書館の機能を最大限に発揮しようとする建築家の創造性が、全ての要素において溢れ出していた。僕はそこで大好きな本に囲まれた席に腰を下ろし、昨日の分の日記を書いた。遅れてやってきた思いを言葉にする活力を、これでもかと言うほど刺激し、鼓舞してくれるような場所だった。

 一通り書き上げて連れ合いと外に出て、車の横でふと見上げた空は、まるで宇宙の果てまで続くように高く、際限の無い青が広がっていた。考えてみれば、比喩でもなんでもなく、ここは宇宙の一部だった。僕が見ている世界とか、隣の誰かが見ている世界とか、そんなことばかり考えて生きていたけれど、僕はそうした世界よりもっと大きな宇宙があることを、頭ではわかっているようで何一つわかっていないのかもしれない、と思った。

 

 旅で得た感慨を言葉にしようとすればするほど、どうしてこんなに言葉にできないことばかりなのだろう、と溜息が出る。僕が過ごした時間は紛れもなく美しく、優しさや愛に満ち溢れているはずなのに、それらを表現する言葉だけがどうしても見つからない。「生きていて良かった」とか、「素晴らしい」とか、そんな陳腐な言葉で表現するだけでは満たされない思いが、常にある。悔しい。幸福な体験に触れるたびに、それと同じぐらいの強度で、それを表現することができない悔しさが、否応なく僕の胸に生まれてしまう。

 それでも今日は無理やりにでも筆を止め、明日に向けて寝た方が良いかもしれない。人生は旅だ。生きている限り、まだ見ぬ素晴らしい景色にきっと出会えるし、そうした景色を通して僕がこれからの人生で見つける言葉は、きっと先に見上げた澄み渡った空の青さみたいに際限無く、生まれ続けていくかもしれない。そこに生まれるかもしれない世界、あるいは宇宙を、確かな覚悟を持って信じ続けていくためには、明日からまた当たり前のように続いていく日常を、ひたむきに生きていくしかないのだ。

 

2023年2月24日(金)

 仕事に行った。忙しかった。帰り道に秦基博の「メトロ・フィルム」を聴いたらなんだか泣きたくなった。けれど結局泣かなかった。

 

2023年2月25日(土)

 朝から車で図書館を二軒梯子して、本を読んだり小説を書いたりしていた。外は晴れていたり、曇っていたり、雨が降っていたり、雪が降っていたりしていた。

 帰り道にブックオフで五冊、本を買った。五冊で880円だった。あの頃とやっていることは全く変わらないな、と思った。別に変わりたくもなかった。