20230226-20230304

2023年2月26日(日)

 朝起きて、パン屋に朝食を買いに行ったり、溜まった洗濯物に手をつけたりしていたら、気付いた時にはバンドのミーティング開始の五分前になっていた。そのタイミングで洗濯機から洗い上がりの音が聞こえて、まずい、五分で干し終わるだろうかと思案しながら、一秒一秒を大切に思いながら急いで洗濯物を干した。結果的には間に合って、スムーズにZOOMを開くことができた。こうして分単位で予定がある方が、時間を大切に思うことができるかもしれない。けれどその一方で、時間に悩まされない穏やかな暮らしを望んでいる自分もいる。時計を気にせずに、ゆっくりと日々の雑事を愉しむことができればどんなに幸せだろう、とつくづく思うけれど、それは今時間に追われるように生きているからで、きっと茫漠とした時間を過ごすようになったらもっと過密なスケジュールを求めるようになるのだと思う。手に入れた瞬間に色褪せる喜びが、生活の中にはたくさんある。僕ら人間はそういう意味で、いつも矛盾しているし、いつまで経っても自分の中の理想には追いつけないのかもしれない。そう考えると、人生は本当に不条理だ。

 


 ミーティングが終わってから夕方まで小説を書いて、それから町に出て古本屋を二軒梯子した。昨日もブックオフで五冊本を買ったし、今朝もネットで四冊の本をポチっていたから、さすがにもう買わないだろうと気を抜いていたけれど、久々に足を運んだ古本屋の蔵書はやはり素晴らしくて、パウル・クレーの展覧会図録を意気揚々と購入してしまった。

 今自宅にある積読本の山を考えれば、どう考えても全てを読み切れるわけがないのだ。それを百も承知の上で、本を買う、あるいは古本屋に足を運ぶという行為を続けているのは、正気な沙汰でないとしか言いようがない。どこかの町に出掛ければ本屋さんに行きたくなるし、本屋さんに行けば本が買いたくなる。金銭的余裕も、それを読む時間的余裕も無いのだから最初から行かなければ良い話だが、どうしても自分の中の何かが、自分を本屋さんへと導いていく。それはよく考えてみれば、ギャンブル中毒に溺れていく人たちとなんら変わりのない行動のメカニズムのようにも思える。「本を読む」ということがなんとなく高尚なものとされているから、誰からも咎められないだけで。いい加減やめなければいけない、と思うけれど、自宅の本棚に増えていく、というか本棚にすら入りきっていない本の山を見るたびに、心が満たされる感覚になるのも確かだ。

 そんなことを考えながら、又吉直樹BS朝日で始めた新番組、「本屋さんに住みたい」を見た。僕も大好きな、吉祥寺の「百年」という古本屋で撮影されており、そこで又吉が本を選んだり、何かをゆっくりと考えたり、執筆したりする風景は、本屋好き・又吉好きとしては見ていて幸福な気持ちになった。僕も本屋さんに住みたい。というより、もっと極論すれば、本屋さんになりたい。それは本屋さんの店主、ということだけでは決してなくて、僕は本屋さんの一部になりたい。何を言っているのだろうか。

 本屋さんが愛情を持って育てている対象の一部になりたい。それは自分の書いている文章を本にして並べてほしい、という思いでもあるし、静かな本屋さんに控えめに流れている音楽を自分の手で作りたい、という思いでもある。欲を言えば本棚の脇に据えられた額に入っている作品が自分の作ったものであったら嬉しいし、なんなら本棚や額すらも僕が木を買ってきてDIYしたい。敷き詰められる絨毯は僕が色を染めたり手織りしたりしたいし、天井から吊るされる電球は僕が目黒の雑貨屋を回って選び抜きたい。店員が着る服は僕が選びたいし、さらに言えば、その服も自作したい。あれもしたい、これもしたい。夢想がどんどんと広がっていく。

 そんなことが生きている間に全て叶うはずがないことはわかっている。けれど、本屋さんに行くと自分の中のそうした創作欲求が止め処無く溢れ出してくるのだ。又吉はその番組の中で、「自分が本を出してから、本屋さんに行くのが怖くなった時期があった」と語っていた。これも先に書いたような、手に入れた瞬間に色褪せてしまう喜びの一つだろうか。そう考えると今の僕が、こうして足繁く古本屋に足を運び、自分の中で夢想を膨らませている時間の方が本当は幸福で、贅沢な時間なのかもしれない。

 けれど、そんなことを考えていたらいつまでも理想は理想のままだ。自分の中の理想を更新していくために、これからも色々なことに足を踏み出し続けていきたい。僕は本屋さんになりたい、それを叶えることは、きっと一生かかっても難しいだろう。だからこそ、自分がやっていることを信じて、続けていく意味があるのかもしれない。来週は、どこの本屋さんに行こうか。

 

2023年2月27日(月)

 家で仕事をして、それから職場の人と飲みに行った。楽しかったけれど、本当に楽しかったのかはよくわからない。

 

2023年2月28日(火)

 昨日の夜は驚くほど寝付けず、布団の中で4時近くまで起きていた。寝付けないことがずっと苦しくて、ほとんど泣き出しそうだった。というか、少しだけ泣いたような気もする。調べたら、アルコールに起因する不眠症の一種のようだった。もう金輪際、お酒はやめよう、と思った。今まで何度、同じことを思っただろうか。

 仕事に行って、仕事をした。忙しくて、たくさん残業した。仕事をしている間は不思議なくらい眠くならなかったけれど、何か細い糸の両端を持って強く引っ張っているような、何かの拍子でぷつんと切れてもおかしくない、ぎりぎりで保っている感覚だった。家に辿り着くまで、なんとかその糸は切れずに済んだ。

 

2023年3月1日(水)

 家で仕事をした。忙しくて、ずっと白目を剥いていた。


2023年3月2日(木)

 仕事に行った。白目が一周回って、黒目に戻っていた。

 

2023年3月3日(金)

 仕事に行った。


 職場の子持ちの先輩が、「仕事をするために保育園に預けているのに、保育園の費用がその分の給料を上回っている」みたいな話をしていた。僕はなるほどなと思いながら、なんだか世の中、そういうことばっかりだな、と思った。

 僕らは生きるために仕事をしているはずなのに、気付いたら仕事をするために生きている。そう思った時に、なんのために仕事をしているのかよくわからなくなったりする。

 もっと言えば、何のために生きているのかすらよくわからない。それっぽい理屈はたくさん思い浮かぶけれど、それは結局のところ理屈というかこじつけに過ぎない、と思ってしまうこともあるし、思わないこともある。どれだけやりたいことややりがいがあっても、それを「生きる理由」と思うのは短絡的すぎる気がするし、いや、それこそが生きる理由だ、と単純に思えるぐらい、自分が突き動かされる何かに出会ったりもする。そして出会わなかったりもするし、結局何が正しいのか、正しい何かなんてあるのか、それすらもよくわからない。きっと、ずっとわからないままだろう。

 生きている、ということがそれ自体、生きる理由、と考えたらどうだろう。「生きているために、生きている」。うん、なんとなくしっくりくる考え方だ。でも、生きていてもいつかは死んでしまう。何かを頑張って、何かに情熱を燃やしたとて、いつかは死んでしまう。そう考えるとどんどんかなしい気持ちになってくる。死ぬために生きているのか、と、もしかしたら真理はそこなのかもしれないけれど、だとしても、生きているために生きている、と思っていたい。そう思っていなければ、生きていくことはただただかなしい。

 生きているために生きる。そのために、僕が今するべきことはなんだろうか。生きているということを強く実感するために、自分は今何をすれば良いのだろうか。


 そんなことを考えながら、帰り道にU-zhaan & Ryuichi Sakamoto feat.環ROY×鎮座DOPENESSの「エナジー風呂」を聴いた。最近ハマっていて、疲れた夜にいつも聴いてしまう。小気味良いタブラのビートに載せて、環ROYのリリックが心地良く耳に飛び込んでくる。

 

働いて 腹が減る

腹が減る から働いて

働かなきゃ腹減らないってわけじゃなく

腹減り続けるから働く


 僕はこのリリックをぼんやりと聴きながら、これこそが人生の真理だ、と思ったりする。というか、人生に真理なんて無い、ということに気付く、という意味での真理が、ここにはある。このリリックは少なくとも、言葉が発される理由、という次元を軽々と超えている。当たり前すぎてこれを歌詞にする必要なんて全く無いのに、言葉にされてしまったような言葉だ。けれど、だからこそ、そうして発されたこの言葉こそが人生の意味だと、強く頷くことができる。よくわからないけれど、多分そういうことだと思う。

 人生の意味、なんていうものが、言葉の次元で表現できるわけがない。僕がこうして、何のために生きているのか、考えて、言葉にしようとしている間も、ただ単純に腹が減っている。腹が減った。それを言葉にすることこそが、生きている理由と思えた時に、僕らは「生きているために生きている」と、自信を持って言えるのかもしれない。

 疲れた夜は、いつもこんなことばかり考えてしまう。風呂に入りたいけれど、風呂を入れる元気がない。でも、よくよく考えると入浴って贅沢だ。金曜日だし、贅沢しよう。明日を生きるためのエナジー、風呂。

 

2023年3月4日(土)

 日本民藝館に、柚木沙弥郎展を見に行った。民藝館の建物と作品の親和性の高い、素晴らしい展示だった。柚木沙弥郎の作品は、色も模様も作品によって様々なのに、そこには彼の作品にしかないオリジナリティが通底しているように思える。それが僕には不思議だった。

 作品と一緒に、柚木沙弥郎が寄贈した、数々の身の回りの物たちが展示されていた。僕はそれらを見ながら、彼のオリジナリティはここから生まれているのかもしれない、と考え始めた。自分の目を通して見て、美しいと思える物を、購入して身の回りに置く。それらの物に生活の中で囲まれ、愛で続けることを通して、彼は長い間、新たな価値のある作品を生み出し続けてきたのかもしれない。

 何かを愛することは、何かを生み出すことに繋がる。そんな希望の片鱗が散りばめられた、素晴らしい展覧会だった。