20230108-20230115

2023年1月8日(日)

 10時間以上寝ていた。今まで生きてきた全ての時間を忘れてしまうぐらい、ぐっすりと眠っていた。起きたらたくさん汗をかいていて、体温計で測ると、熱はいつの間にか下がっていた。買ってきてもらった第一類医薬品の検査キットでもう一度検査すると、しっかり陰性だった。昨日見た赤いラインは何だったのだろうか。

 それでもまだ体の節々が痛むようで、一日中寝て過ごした。一日中寝て過ごしていると、時間は本当にあっという間に過ぎていた。部屋のカーテンを開けよう、と思って開けてみると、もう外は暗くなり始めていた。何かをしていても、何もしなくても、結局のところ時間はあっという間に過ぎていくみたいだ。こんなことをしていたら、あっという間に死んでしまうような気がした。それで良いのかも悪いのかも、よくわからなかった。そんなことは、考える必要もないのかもしれない。

 

 今年の頭から、毎日何かしら書こうと思って、この場に書き続けている。ブログを始めてからもう6年以上も月日が経っていて、何かを見たり、何かを聴いたりして思った記録をひたすらここに書き溜めてきたが、「時間がある時に書こう」と思っていると、なかなか更新ができない。それにSNSが苦手だからか、ここに何かを書いたとしても、「ここに何かを書きました」と言ってTwitterInstagramで告知をしたりするのがなんだかすごく嫌で、書けば書くほど、あれこれ考えてしまう自分も嫌だった。昔から本当に、自意識だけが異常にうるさい。だから、誰がこの日記を読んでいようと読んでいまいと、毎日ここに何かしらを書いてみるのも良いかもしれない、と思って、年始の区切りで書き始めてみた。

 これがいつまで続くのかもよくわからない。すぐにやめるかもしれないし、やめないかもしれない。少しでも読んでくれる人がいたら嬉しいけれど、何より、僕は何かを書いている時間が、本当に楽しい。それだけでも良いのかもしれない。

 

 最近、一番大事なのは、「日常を楽しむことだ」と思うようになった。今までは、そんなことを、思ったこともなかった。仕事を始めたからかもしれない。曲がりなりにも夢を追いかけ続けて生きてきて、ステージに立っている時や、何か作品を公開した時に感じる最上の幸福感や、そこから派生して来るべき未来にやってくる何かに対する憧憬を糧にして生きてきたけれど、生活が変化してそんな瞬間もどんどん少なくなり、仕事が終わって家に帰り、洗濯をしたり皿洗いをしたり、体を洗ったりする間に考え事をすることが多くなった。僕はそうしている間、「この時間も人生だ」と思うようになった、というか、そう思わないと自分を保つことができなくなってしまった。年を取ったからかもしれない。

 誰しも自分の中での「やりたいこと」の優先順位があって、そのために仕事をしたり、あるいは直接的にそのためではないにせよ仕事をしたりしているのだと思うが、それらの時間も含めて、日々生きていれば当たり前のように習慣化していき、全てが「日常の時間」の中に平準化されていく。そうして平準化された、限りある時間の中でも、スマホを通して知る娯楽の選択肢はどんどんと増えていって、それらの中から何を選択するかをいちいち頭で考えながら、したいこととしたくないことのバランスをうまく保って生きている。僕は子供もいないし、結婚もしていないけれど、だからと言って暇というわけではなくて、読みたい本や観たい映画は無限にあるし、作りたいものや書きたいこともたくさんあるから、それらを上手く「日常の時間」の中に溶け込ませるためにはどうしたら良いのか、いつも考えながら生活している気がする。

 そんな風に生活しているうちにふと、このままで良いのだろうかと、意味のない感情に囚われて立ち止まってしまったりもする。あるいは、何かを考えることが嫌になって、ただ窓の外をじっと眺めていたり、遠くで鳴いているカラスの声を聞いていたりする。これらの時間は、客観的にみると意味のない時間に思えるような時間で、後々こうした時間をのうのうと過ごしてしまったことを後悔してしまったりするのだが、こうして忙しく毎日を生きていると、これらの時間こそが「日常を楽しむ」ということなのではないか、という気もしてくる。作家の保坂和志は、これらの時間を<人生の素顔>と表現した。

 

 たとえば、人が生きている主観的な時間は、楽しいことは短くあっという間に過ぎてしまい、苦しいことは長くいつまでも終わらない。酒を飲んで騒いでいる一晩は短く、歯の痛みに苦しむ一晩は朝が来ないのではないかと思うほどに長い。あるいは、気を紛らわす何も持たずに人を待っている時間の長さ。もちろん、そのすべてが人生の時間なわけだけれど、私には長く感じられる時間の方こそが人生の本質というか、<人生の素顔>のようなものではないかと思えるのだ。

               ーー保坂和志『人生を感じる時間』より抜粋

 

 目的を持って何かに努めている時間よりも、そうした無意味に思えるような時間の方にこそ、人生の本質はあるのかもしれない。そう思うと、自分が生きているどんな時間すらも、愛せるような気がしてくる。

 

 何が言いたいのかというと、僕はここでこうやって文章を書くことで、<人生の素顔>に触れてみたい、と思っている。何か目的を持って書いているわけではないし、誰かに向けて書いているわけでもない。しかしそんな曖昧な態度でこうして何かを書きつけている時間は、僕にとって、僕の人生を見つめる時間であることだけは確かだ。窓の外を眺めるみたいに、あるいは遠くで鳴いているカラスの声をただ聞いているみたいに、ここに文章を書き続けてみたい。この時間を大切に思う気持ちを忘れずに生きていたい、と思う。

 時々読んでくれたら嬉しい。

 

2023年1月9日(月)

 体調が良くなってきたので外に出てみると、日差しがあたたかくて優しい気持ちになった。しばらく何も聴かずに歩いていたけれど、人の声が恋しくなってYouTube松重豊の朗読をヘッドホンで流しながら電車に乗った。独特なテンポで包容力のある、それでいて何を話していても哲学的な含みや渋みを感じる松重豊の声に身を委ねながら電車に揺られていると、途中の駅で振袖や袴に身を包んだ若者が乗車してきて、今日が成人の日だと気づいた。松重豊の温厚な声を聴いていたからか、僕もいつになく優しい気持ちになって、みんなに「おめでとう」と心の中で言ってみた。

 ブックオフ佐伯一麦「Nさんの机で」、柳美里「JR上野駅公園口」、舞城王太郎阿修羅ガール」、保坂和志「<私>という演算」を買った。家に帰り、「Nさんの机で」をしばらく読んだ。作家生活30年目の著者が、初めて手にしたオーダーメイドの机に向かい、身の回りの道具から喚起される文学的半生を書き綴る、というエッセイ本で、これがすごく面白い。僕は物を大切にする人が好きだ。自分自身が飽き性で、どんどん身の回りの物を買い替えてしまう性格だからか、何か一つの道具を丁寧に使い込み、その経年劣化を楽しむ姿勢を持った人にはいつも憧れと嫉妬を感じてしまう。物を丁寧に見続けることができる人は、きっと人に対しても優しい。僕はいつになったら優しくなれるのだろうか。

 明日から仕事が始まるらしい。怠惰に過ごす朝に慣れてしまい、早く起きれるのかという不安もあるが、何よりこの日記を書き続けることができるか不安で仕方ない。先のエッセイの中で、著者が稲田堤のアパートに住み、電気工をしながら小説を書いていた時期に自転車を飛ばして通った川崎市多摩図書館で読んだという、庄野潤三のエッセイの一節が紹介されていた。その一節を引用して、明日からの自分に向けたエールというか警鐘というか、何らかのメッセージとして記しておきたいと思う。

 

 私は会社勤めをしながら、文学をやろうとしている友人に言うことは一つしかない。ただ気力を振い起す意外に道はなく、それが辛ければ止めるより仕様がない。

               ーー庄野潤三『文学を志す人々へ』より

 

2023年1月10日(火)

 朝起きたらとんでもない時間だった。これはまずい、間に合わない、と思ったけれど、なぜか全然間に合った。ギリギリに起きた方が意外と神経が研ぎ澄まされ、無駄なく身支度ができる、という、本当に無意味で腑抜けな教訓を得た。

 いつか必ず痛い目を見る。

 


 仕事から帰って、「Nさんの机で」の続きを読んだ。原稿用紙に筆書きで執筆していた著者が初めてワープロを購入し、左右の中指だけを使って必死に文字を打ち込んでいた若き日のエピソードが綴られていた。僕は小学校の頃からパソコンの授業があったし、物心ついた時からブラインドタッチは身体に染み付いていて文字の打ち込みで苦労した経験は全く無いが、こうしたエピソードに触れる度に、当時と今では「言葉の重み」に雲泥の差があるように感じることがある。一つの言葉を打ち込むための労力が、今と昔とでは全然違う。僕は今ベッドに寝そべりながら、学生時代に体得した超高速フリック入力でこの文章を打ち込んでいるが、ここで書かれる言葉と、時間をかけ、苦心して書き上げられた言葉は、言葉そのものの重みが全く違うのではないか、と思ってしまう。

 もっと昔の話で言えば、何か文字を書くためにはまず文机の前に座り、硯に水を垂らし、ゆっくりと墨を磨り、水と墨の配合を丁寧に調整しながら紙に書き付けるのに適した黒色を時間をかけて作って、そこに筆を浸し、ゆっくりと紙に文字を書き始める、といった一連の作業が必要だったはずだ。その作業をしている間、かつての文豪は何を考えていただろうか。僕はそれに、思いを馳せることしかできない。ちなみに僕はさっきまでYouTubeかまいたちのコントを見ていて、いいねを押した親指をピッと上に跳ね除けるだけでその画面を消失させ、その親指の放物線上に置かれたメモ帳のアイコンをクリック、瞬時に開いた画面にこの文章を書き始めた。かかった時間は恐らく0.3秒。足掛け0.3秒、苦節0.3秒。あまりにも無理がある。僕はその0.3秒の間に、何を考えることができたのだろうか。

 だからと言って、文明の利器に囲まれた現代を生きながら、敢えて硯に墨を磨ったり、ワープロを持ち出してきて文章を打ち込むようなことが適しているかと言えば、必ずしもそうとは言えない。きっとそんなことをしたら雰囲気だけ気取ったイタい奴だと詰られるし、何より僕は硯に墨を磨っている間も、きっとスマホでタイムフリーのオールナイトニッポンを流し出すだろう。小気味良いリズムのビートに合わせて墨を前後に動かし、色が出来上がって筆を浸す頃にはパーソナリティが最近のエピソードトークに華を咲かせているのを熱心に聞き始めている。今日のゲストは誰だろう、と期待し始めた頃には一度浸した筆も見事に乾き切り、我に返って紙に文字を書きつけようとしても乾いて先が固まった筆で書かれた文字は散り散りになって、読むも無惨な状態の文章が出来上がるだろう。結局どちらにせよ、同じことなのかもしれない。

 

 別にオールナイトニッポンが悪いわけじゃない。何が言いたいかというと、僕は自分の書く言葉を大切にしたい。フリック入力で上滑りしていくような言葉を、しっかりと掴んで一度自分の胸に引き戻し、熟思黙想した上で放つような度量を、自分の中に少しでも持っていたい。

 言葉とは、きっと本来そういうものだ。誰かのことを時間をかけて思いやり、いくつもある自分の感情から相手との距離を探って、選び取った一言を丁寧に包んで相手に受け渡すものだ。そうやって言葉を大切にしていたら、誰かを深く傷つけたり、前途有望な若者を死に追いやってしまうような言葉も、きっと生まれないはずなのに。

 

2023年1月11日(水)

 家で仕事をして、その後机上のパソコンを置き換えて、バンドで出す予定の新曲のコーラスを録音した。何年も前に原型を作ったその曲の歌詞を歌っていると、自分はあの頃から何も変わっていないどころか、自分が今知っている以上のことを過去の自分は知っているのではないか、と訝しく思い耽ってしまうことがある。感受性とはなんだろうか。若さ故の感受性は、いつか枯渇してしまうのだろうか。そんなことを考え始める齢ではないと言われることも重々承知の上で、僕はどうしても今の自分が抜け殻のように思えてしまうことがある。単調な暮らしを続けているからだろうか。これからずっと、そう思うのかもしれない。しかしそうなのだとしても、少なくとも今の自分は、未来の自分にとって輝かしい「過去の自分」でありたい。そんなことを思いながら、歌を録音した。

 


 舞城王太郎阿修羅ガール」を少し読んだ。思考がそのまま文章になったような小説だ。考えていることと書かれていることに、時間的な差異が全く感じられない。いや、著者自身も、別に何一つ考えていないのかもしれない。小説というフィールドの上で、自由演奏法のように書き繋がれていく言葉たち。ヒップホップのフリースタイルのような文章のリズム。心地良い一方で、書いてはいけない何かが書かれているような緊張感が、終始続いていく。

 著者は何度も芥川賞の候補になっているが、度々受賞を逃している。確かに文学的な修辞や含みの持つ曖昧さを徹底的に排除したこのような小説を読んだら、年配で堅物な選者は腰を抜かしてしまうような気がしたが、過去の候補作の選評を読むと、予想外に肯定的な意見が多かった。真っ直ぐに作品を見据えた選者の評の数々を目にすると、やっぱり文学が好きで良かった、と思える。特に良かったのは相変わらず堀江敏幸で、この著者の作品について「計算によらないひと筆書きの緊張は、読み手にも感じられる。うまく説明はできないけれど、私は書き手との、その体感の共有を信じる」という選評を残していた。自身も作家として生きる中、自分とは対極にいるような作風の小説を読んでも、「書き手との体感の共有を信じる」とはっきりと告げるその姿勢からは、歴史ある文学賞の選者としての覚悟を感じるし、何より真正面から作品に向き合う態度が「読み手」としても一流であることを、まざまざと見せつけられる。同著者による他の作品についても、「明るさの質がよすぎるのではないかという、読み手としてとても贅沢な不満も感じられた」という選評を残していて、自分を「贅沢だ」と半ば卑下するような口ぶりで作品の欠点を匂わせる語調からも、優しさや寛大さが隠しきれず溢れ出していた。

 場に見合った適切な言葉を選ぶのは、服装や作法と同じく、公共の場で否応無く必要とされる振る舞いのひとつだ。自己の主張と周囲の状況を冷静な目で見つめて、そのあわいの一点を突くような言葉を選び取るためには、並大抵ではない努力と経験、そして読書量が必要になるのかもしれない。それこそを、本当の意味での「ダンディズム」というのではないか。

 今日も思わぬ方向に話が進んでいってしまった。

 

2023年1月12日(木)

 具体の明言は避けるが、ある教会の元2世信者の方が日本外国特派員協会で行なった会見をYouTubeでフルで見た。僕はそれについて何かコメントしたり、この団体の是非がどうだとか、宗教の善悪だとか、そういうことを殊更に書くことはできない。僕にはそうした経験を身を持ってしたことが全く無いし、宗教の実情について何かを語るには自分はあまりに無知だからだ。無知な上で発される言葉は、必ず誰かを傷つけてしまう。ただ僕は、会見で流された涙を画面越しに目にして、僕が生きているこの世界で、自分にとっての「普通」とは何なのか、ということについて、真剣に問い続けなければいけないと思った。

 

 「普通」とは一体何なのだろうか。


 「普通」という言葉を辞書で引くと、「特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それがあたりまえであること。また、そのさま。」とある。副詞として、「たいてい。通常。一般に。」という意味もある。日本でこの言葉が使われる場面は非常に多く、僕も日常の場面で何度もこの言葉を口にしてしまう。

 対して英語で考えてみるとどうだろう。「普通」の訳として当てられるのは、normal、general、usual、ordinary、common、と、非常に多くの言葉が並ぶ。それぞれには明確に言葉の定義の違いがあって、無理やり先の順で日本語に置き換えるとすれば、「正常」「一般」「いつも通り」「平凡」「共通」といった訳になるだろうか。それらが一つの言葉に集約されているのが、「普通」だ。

 それなのに僕らはこの言葉を使う時、それらの微妙なニュアンスの差異を意識することはない。「普通こうだよね」という時の「普通」が、「それは正常だよね」という意味と、「それは平凡だよね」という意味の二重を兼ね備えているということは、会話の上ではほとんど意識されない。というか、それを意識した瞬間に、会話は成立しなくなる。というか、今言った「正常」とか「平凡」という言葉もそれぞれが枝分かれした多義的な意味を内包していて、そこまで考え始めると言葉では何も伝えられなくなってしまう。日本語と英語の違い、他の言語の違いについても同様だ。それぞれが異なる環境で、異なる言葉を使って会話をしている。その中で何かを伝え合うことには限界があるから、なんとなく語り手と受け手の共通認識として理解されているであろう「普通」という言葉を担保に、僕らは会話をしたり、文章を書いたりする。そこから派生してしまう多義的な意味は、暗黙の了解として、削ぎ落とされた上でやり取りは進められていく。

 僕が目を向けたいのは、ここで削ぎ落とされた多義性についてだ。今言ったように、言葉というのはどんなものでも多義性を持っている。でなければ、辞書はあんなに分厚くならない。だから何かの真実に触れたいのであれば、それを「普通」なんていう言葉で説明するのではなく、それぞれの置かれた状況や、生きてきた日々のことを一つ一つ語り続けなければいけない。そこに広がるのは、それぞれの宇宙だ。その宇宙の中で「普通」を共有するということは、一つの星から、他の星まで自力で辿り着くようなものだ。それだけの覚悟を持って伝え続けなければ、何かを、誰かと共有できる「普通」にすることはできない。ジェンダー差別や経済格差、ハラスメントといった問題も、こうした「普通」に対する安易な思い込みの上で生じているのではないだろうか。それらを失くしていくためには、やはりそれぞれが言葉を尽くし続けることしかできないし、またそれらの言葉を、偏見なく聞き取る耳を常に持っていなければいけない、と思うのだ。

 


 僕は会見で涙ながらに言葉を尽くした彼女の姿勢に心から敬意を表する。彼女の生きてきた状況は僕から見れば明らかに「普通」ではないことのように思えるが、彼女にとっては否応なくそれが「普通」であった。その差異に僕が気付くことができたのは、彼女が自分の家庭の中での「普通」と戦い抜き、そこに蔓延っていた「普通」について、言葉を尽くしたからだ。語弊があるかもしれないが、僕はその動画と出会うことができて本当によかった。その上で僕にできることは、僕自身が、自分の中に持っている「普通」について、僕なりに言葉を尽くし続けることなのかもしれない。

 

2022年1月13日(金)

 家で仕事をした。終わってからパスタを茹でて食べた。後は風呂に入って、だらだらと過ごした。「だらだら」という日本語は誰が考えたのだろう。「ごろごろ」はなんとなくわかるけれど、「だらだら」は全然わからない。それでも「だらだら」としか言いようがないし、それが一番しっくりくるから不思議だ。「だらだら」「ごろごろ」「のうのう」「のそのそ」「ゆるゆる」「うかうか」「ぐうたら」「のらくら」。似たような表現はいくつかあるが、今日の夜は「だらだら」という言葉が一番しっくり当てはまるような夜だった。どういうことやねん。明日は土曜日なのに仕事だ。あーあ。

 

2023年1月14日(土)

 仕事に行った。今日はいろいろなことがあって、ひどく疲れた。久々にビールを飲んだらすぐに酔った。別に飲まなくてもよかったな、と飲んだ後に思った。


 朝、雨が降っていたな、と思って、帰り道は雨が降っていなかったけれど、なんだか今も雨が降っているような気がした。そう考えているうちに、窓の外から雨の音が聞こえてきた。すごくはっきりと聞こえた。また雨が降り始めたんだな、と思って、カーテンを開けて窓の外を見てみると、雨なんて全く降っていなかった。僕が「雨が降っているようだ」と思ったその時から、起き上がって窓の外を見るまでの間に雨が止んだのか、それとも雨なんてずっと降っていなかったのか、それすらわからなくなるぐらいに、僕は疲れているみたいだった。


 瀧井孝作の「旅」を読んだ。自分の身に起きた、なんでもないことを書き綴るうちに、それがなんでもないことではないということを、自分自身で見つけていくような文章だった。なんでもないようなことでも、それを丁寧に見つめる目と物思う心さえ持っていれば、なんでもないことなんて何一つ無いのかもしれない。けれど今日の僕にとっては、なんでもないことは、別になんでもないことのままでよかった。

 本の表紙裏を見ると、瀧井孝作の直筆で「制作ハ発見也」と青い字で書かれていた。空白のスペースを大きく使って書かれたその文字は、すごく力強く見えた。僕はそれが少しだけ悔しかった。