20230312-20230318

2023年3月12日(日)

 ブランドが終了するというバッドニュースを聞いて、朝からシャノアールに行った。店内は朝にも関わらず多数の客がいて、窓際の席で朝からとんでもない大きさのパフェを食べている客の寂しそうな後ろ姿や、店の前に貼られている様々な客の思いがこもったメッセージを見るだけで、涙が出そうだった。


 シャノアールの思い出は、話し出せば切りがない。学生時代、神保町で紙袋の底が破れそうなほど大量の本を買ってきて、営業終了ギリギリまで読み耽ったり、友達と「シャノ行こうぜ」を合言葉に集まって、何時間もアイスココアだけで粘ってくだらないことを話し続けたり。


 他の喫茶店に比べて価格帯が安いにも関わらず店内は落ち着いていて席間も広く、営業時間も長かったから、金の無い学生の自分にとってはこれ以上ない快適な場所だった。この場所に持ち込んで読んだ本が、たくさんあった。聴いた音楽がたくさんあった。シャノアールは自分にとって、心や身体を休めるくつろぎの場であると同時に、たくさんの文化芸術に触れる、貴重な時間を過ごした場所でもあったと思う。


 自分にとって大切な場所が失われてしまうのは、いつもすごく悲しい。けれどだからこそ、そういう場所を増やすためにこれからも町に出続けよう、と思う。そして一度そうやって大切に思った場所に、時間と労力を惜しみなく費やす熱量を、これからも持ち続けていたい。

 

2023年3月13日(月)

 仕事に行った。


 嘘をつきたくなくても嘘をつかなければいけない場面が往々にしてあって、その度に嘘をついている自分と嘘をつかなくてはいけない状況の間の葛藤で苦しくなる。たぶん自分は、どちらかと言うと真面目な方で、できる限り誰かに嘘をつきたくない。というか、嘘をついたことで生じる何らかの辻褄の合わなさが面倒臭いから、基本的には嘘をつきたくない。けれど嘘をついた方が誰も傷つけない、とか、その方が円滑に事が進む場面もある、と思って、時々嘘をつく。あるいは、それが嘘にならないギリギリのラインで、言葉を選んで発することがすごく多い。それらを考えるのが面倒臭くなって、急に全部投げ出してしまうようなこともあるけれど。

 そうした時に、嘘をついてしまった自己嫌悪を、無理やり「そうせざるを得ない状況だったんだ」と納得させようとしても、少なからず胸の内に蟠りは残る。その蟠りが自分の中に残ることが嫌になって、無口でいる自分を演じたり、極力何事にも深入りしないように努めたりする。けれど嫌われるのも嫌だ、というか、嫌われることで生じるコミュニケーションの弊害を被ることは、先を見据えれば避けて通った方がきっと良い。そうやっていつも、僕は「嘘」を巡る内省の袋小路で、感情の行き場をなくしてしまう。

 考えてみれば、僕は全てが面倒臭い。自分がやりたいこと以外の何もかもが面倒臭い。そうやって考えれば、やりたいことのためについた嘘であれば、それがたとえ面倒臭くても、避けては通れない道のような気もしてくる。その「やりたいこと」の思いの強度は、きっと人によって違う。僕は自分で思っている以上に、何かをやりたいと思った時にそれに向かって突き進もうとするエネルギーが、人に比べて強いのかもしれない。

 けれどその「やりたいこと」は、別に何らかの創作に励むことや、読書で自分を鍛錬する、といった精力的なことに限らず、「何もせずゆっくりすること」であったりもする。「何もせずゆっくりすること」に向かうエネルギーが人より大きい、と言ってしまうと、なんだかすごく自分の怠惰が露呈しているような気もする。みんな、きっとゆっくりしたいことは一緒だ。けれどその一方で、「何もせずゆっくりすること」に対しても、人に比べて自分を焚きつける推進力が過剰に大きいような気もしている。やりたいことが多過ぎて、ゆっくりする時間が貴重になり過ぎていることが原因のような気もするけれど。

 何が言いたいのか自分でもよくわからないが、急に誘われた飲み会への断り方を考えていたら、こんな長ったらしい文章を書いてしまった。きっと、「今日予定あるので」の一言が咄嗟に出て来れば済む話だ。けれど別に今日は予定も無いし、嘘をつくのも嫌だった。それなのに、曖昧な返事をしてしまった後になって考えてみると、今日はどうしても家でゆっくりしたい。やっぱり行けば良いだろうか。いや、やっぱり行きたくない。その葛藤の繰り返しの間にも、無情に時間は進み続けていく。

 僕は心を決め、これから嘘をつくだろう。嘘をついたことにならないようなギリギリのラインで、とどれだけ努めたとしても、結局それは嘘になるだろう。僕は嘘をつくことを自分で肯定するために、この日記を書いた。「日記を書く」ということが自分にとってやりたいことである限り、僕は僕自身の中で、嘘をついたことを納得できるような気がする。

 

 駐車場でくだらない葛藤を繰り返していた僕の視線の向こうで、真っ黒な猫がふいに現れ、こちらを一瞥し、嘲笑うようにして闇の向こうへ去って行った。

 

2023年3月14日(火)

 仕事に行った。疲れ果てて、早めに帰ろう、と思って無理やり帰ったら、全然早くなくてうんざりした。なんだか最近、うんざりしてばかりだな、と思った。


2023年3月15日(水)

 家で仕事をした。それからパスタを茹でて食べて、小説を書いた。


 自分が間違っているのか、間違っていないのか。人と仕事をしていると、そうしたことに悩んでしまう場面が多い。「自分が間違っている」と気付いた時に得られる成長がきっとある、と思う一方で、「自分は間違っていない」と信じる力が自分の内に無ければ、自己否定の感情に立ち直れなくなってしまうこともあるだろう。そうした弱さは、人間誰しもが抱えているはずだ。

 そう考えると、自分が間違っているのか、間違っていないのか、それを評価するのは、自分以外の他者の目に委ねた方が良いような気もする。けれど、その他者の価値判断の基準自体が間違っている、あるいは、自分にとって間違っている、と思えてしまうような時、その価値判断を与えられた自分の感情の行き場が、どこにも無くなってしまう。自我と他我が摩擦を起こして、自分の心身が熱暴走を起こしてしまう。それが一番恐ろしい。

 自分の価値判断も信じられず、他人の価値判断も信じられない。そうした時に、人は何か縋るものを求め始めるのかもしれない。それは誰か特定の他者であったり、宗教であったりする。それはそれで、間違っていない、と思う。僕は特定の宗教を信仰しているわけではないから、実際に何かを信じている人のことをわかったように語ることはできないけれど、それで冷静な自分を保つことができたり、前を向いて生きることさえできれば、そこに意味があることは間違いない。けれどその一方で、そうした何かに縋っていくことの怖さも、色んなニュースを目にするたびになんとなく感じてしまうことも確かだ。

 僕が文学や、芸術が好きなのは、自分が間違っているのか、間違っていないのかという問いに立ち向かうために、押し付けがましい価値判断の基準を与えてこないところだ。素晴らしい小説を読んだ時、それを読んだ自分の内に立ち上がるのは、他者が他者なりに、自分が間違っているのか、間違っていないのかという問いに真剣に向き合った姿だ。そこに答えが描かれているとしても、それは「他者の答え」であって、「自分の答え」ではない。それが大前提にあるからこそ、その作品が直接的に自分の価値判断を肯定したり、否定したりすることもない。けれどそうした作品世界に一定期間身を委ねた後には、他でもない自分の内に、「他者の目」が育まれた実感が残る。そうした適度な距離感を持った「他者の目」を自分の内に持つことができれば、自分が間違っているのか、間違っていないのかという問いを、少しだけ大きな目で見つめることができるようになる気がする。僕はこれまでも、そうして数々の作品に救われてきた。

 僕はそんな小説が書きたい。誰かの中に新しい「他者の目」を息吹かせるような、そんな作品を生み出したい。だとしたら、僕は僕なりに、自分の価値判断と徹底的に向き合いながら、書き続けるしかないのかもしれない。自分が間違っているのか、間違っていないのか。それはわからないけれど、それがわからないということをずっと書き続けるしか、きっと方法は無い。そしてそうした作品を生み出そうと努めることが、他でも無い自分にとって、自分を保つために必要な営為であるような気も、している。

 

2023年3月16日(木)

 仕事に行った。どれだけ仕事が忙しくても、自分の中にある大切なものは、絶対に失いたくない、と思って、帰り道にハナレグミの「深呼吸」を聴いた。涙が出そうだった。

 

2023年3月17日(金)

 仕事に行った。月曜に待っている大仕事と、明日のMV公開に伴う緊張感で、ずっと肩を張って過ごしているような一日だった。風呂にゆっくりと浸かってビールを飲んだら、色々な糸が急に緩んで、自分の精神がぶよぶよになったような気がした。ずっと気を引き締めて生きることはできないな、と自身の限界を思い知らされながら、ベッドに倒れ込んで泥のように寝た。


2023年3月18日(土)

 永田町にある国立国会図書館に行った。じっくり文章を書こうと思っていたのに、昼に本格的なインドカレーをたらふく食べたせいか、書き物への意欲より眠気が勝り、ほとんど何も書くことができなかった。結局どれだけ環境を整えたところで、その時の天気や体調、心の具合によって何かを作ることができるか、できないかは変わってしまうのだ、とつくづく思う。何かに没頭して作業する時間が限られた毎日を生きながら、少ない時間に完璧なコンディションで創作に向き合うことはすごく難しい。ただそうした戯言を言い訳にする前に、まず手を動かせ、と自分を背突く声が聞こえたような気がしたが、どうしても眠かった。

 諦めてパソコンを閉じ、松山巌「本を読む」に収められた書評をいくつか読んだ。誰かが本を読んだ記憶を後から辿りながら、それを読んだ自身の記憶がオーバーラップしていくような感じ、と言えば良いだろうか。僕はそうした、何重にも読書体験が連なっていくような感覚が好きで、だからこそ誰かの書評を読むことが好きだ。松山氏の本への愛が溢れた、素晴らしい本だった。


 夜はバンドの新曲のMVを公開した。自分の作った映像が世に放たれたのが嬉しかった。その一方で、他の友人バンドに比べて再生数が上がらない現状を、見て見ぬ振りはできなかった。わかる人だけにわかれば良い、という言葉は、いつになったら吐くことが許されるだろうか。それだけは、まだ言ってはいけないような気がした。