祖母の本棚

 「お前にとって大切なものはなんだ?」と、誰かから問われるまでもなく自分自身で問うてしまう僕にとって、何かに一心に向き合うことは途轍もなく難しいことだと思っていた。何をしていても、何か別のことから追われているような気がして何かに対して身が入らない。かと言って、雑誌やYouTubeの情報に触れて生まれた数々のやりたいことを沢山こなしていると、沢山「こなす」だけの自分に嫌気が差してしまうこともある。だから、特に取り立てて「僕にとって大切なもの」について考えることもしたことがないし(というより、それについて考えること自体が億劫で)、いろいろな経験を通して得た感慨をその時その時で掴み取ることに必死で生きてきた。誰もに等しく流れる時間の中で、僕は僕が大切にしている何かをわかっているようなつもりでいて、きっと何一つわからないまま、のうのうと生きてきてしまった。

 

 蜷川幸雄の映画「青の炎」の中で、二宮和也演じる主人公が「俺の好きな物」をテープレコーダーにひたすら羅列して記録した音声が流れるシーンがある。この映画を初めて観た時のことをよく覚えていないけれど、確か主人公と同じ17歳ぐらいの時で、このレコーダーのシーンを観て感銘を受けた僕は即座に適当な紙とペンを手に取り「僕の好きな物」を箇条書きで書き出したことだけはよく覚えている。もう10年近く前のことだ。その時に僕は何を書いたのか、今では想像もつかないし思い出したくもないけれど、あれから10年近く経った今、僕が「僕の好きな物はなんだろう」と考えていることは、当時は想像もしていなかった。想像もしていなかった、ということだけは、今の僕にはよくわかっている。

 過去の自分が「想像もしていなかった」ということだけが、今の自分にわかる唯一のことだとすれば、僕は僕の未来について確信を持って何かを語ることができるのだろうか?

 

 つい先日、亡くなった祖母の葬儀があり、遺品整理のため親と祖母の家を訪れた際、読書が好きだった祖母の本棚に並べられた数々の本の背表紙のことが忘れられない。(いや、忘れられないと言っても、きっと忘れてしまうだろうから、こうして書き記しておきたい。)曽野綾子さんの本を愛読していたようで、「老いの才覚」「終の暮らし」「『人生最期』の処方箋」…。今の僕が到底手を伸ばすことのないようなタイトルの本が並んでいて、大きな本棚の前で目眩がした。90歳近くまで生きた祖母は、祖父を亡くした後の数年間、何を想っていたのだろうか。その時に何を想っていたか、ということが、いったい何になるのだろうか。わからないけれど、祖母の本棚には、祖母が「何かを想っていた」という確かな真実が残されていた。そして、その真実に触れようとすることが、今の僕にとって必要なことだった、ということだけは確かだ。

 

 ウクライナでは戦争が起きていて、隣国は核実験に燃えている。血と涙の詰まった税金をネットカジノに注ぎ込む人がいれば、駐車場に生後間もない女児を捨て去る母親がいる。テレビやYouTubeで流れる残酷なニュースや、それに対する誹謗中傷のコメントを尻目に、町に出れば「何かできることを」と小さな支援活動を続ける人がたくさんいて、戦争反対を叫ぶミュージシャンが駅前でギターを持って歌っている。必要な物にすぐに手が届く現代で、簡単に見失ってしまう真実にはきっと価値がない。だからこそ、自分が信じた真実を、テープレコーダーでも良いし、日記でも良いし、誰かに話すことでも良いのだが、確かな手触りを持った何かに託して発信しようという姿勢自体を難じることは、誰にもできないのではないか、と思うのだ。

 

 この文章を書きながら僕が考えたのは、そういうことだ。考えたことにもならないかもしれないけれど、別にそれで良い。僕が好きな物は何か、今の僕にはわからない。けれど、僕は僕の中で燃えている青の炎を、こうして確かな手触りを持った言葉にして、発信し続けたい。