映画「ハッピーアワー」を現実において生きること

 千葉県柏市にあるキネマ旬報シアターで、濱口竜介『ハッピーアワー』をみた。圧巻の長尺317分。5時間を超える壮大な人間ドラマの中で描かれていたのは、ありふれた「普通」の生活を送る4人の女性の、明らかに「普通」ではない人生の軌跡だ。

 上であえて「普通」を強調させたのは、この映画が自分の中にある「普通」という観念を大きく揺り動かすほどの凄烈なパワーを持った作品だと思ったからだ。誰かにとっての普通は、当たり前のことだけれど誰かにとっては普通では無い。傍から見れば些細なことだと見られてしまうような出来事が、当事者にとっては生きてきた日々を根底から覆してしまうような、重大な出来事になる、ということは往々にしてあり得る。僕はこの映画を観て、描かれる4人の人生を確かに生きた実感を得た。だからこそ僕にとっては、この映画で描かれていた「普通」の出来事は、「普通」ではない、重大な経験として骨身に沁み入るような映画体験をすることができた。なぜこの作品は、その実感を観客に与える強度を持つことができたのか。いくつかの要素に分けて考えてみたい。

 

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 まずひとつ目は、この映画が現代の日本映画では稀に見る長尺の作品であることが挙げられると思う。この映画を見るためには丸一日を費やさなければいけないし、よほどの映画好きで無い限り観始めることすら億劫になるほどの長さだろう。それなのに、観始めると少しも時間の経過や徒労を感じさせなかったのは、この映画が登場人物の人生経験に真剣に向き合った映画だったからだ。誰かをより深く理解するためには、当たり前のことだけれど長い時間をかけなければいけない。感情を表現するためにはTwitterの140文字じゃ足りないのと同じで、ひとつの映画で4人の人生を照らし出すためには、2時間では全く足りないのかもしれない。劇中で、4人の女性のうちの1人・純の不倫に対して腹を立てたもう1人の女性・あかりが、「いま言葉にしたら、全部ちがう気がする」と言い放って立ち去って行くシーンがある。ここで何かしらの言葉を発して、感情を説明してしまうのがありふれた商業映画だが、この映画ではその言葉が登場人物の中に立ち上がってくるまで辛抱強く、時間をかけて待ち続けていた。この場面の描き方は素直にとても「芸術的」だと思ったし、こういう時間を丁寧に描こうという姿勢を持った作品はとても信用ができる。登場人物の感情を、最適な密度で、余すことなく観客に体験させるために、この映画には317分という長さが必要だったのだと思う。

 


 ふたつ目に、この作品の主人公4人が全くの素人であったことも看過できないだろう。4人は濱口竜介即興演技ワークショップの受講生だっただけで、今までドラマや映画への出演経験が全くない、完全なアマチュアの女性だったらしい。こんなことを言うと失礼かもしれないが、確かに顔面は際立って整っているわけでもないし、発言も棒読みのように感じる場面が多くあった。けれど4人の目尻や口元にはそれぞれの現実世界での経験が色濃く刻み込まれていて、発言の棒読み口調は無駄なアレンジの無い、純粋な言葉選びとして映画の中で昇華されていた。それらは映画を見る僕達に、現実と地続きにある作品だという確かな手応えを感じさせてくれた。この素人女優4人に、あのジム・ジャームッシュを排出したロカルノ映画祭で最優秀主演女優賞を揃って受賞させる偉業を成し遂げた濱口竜介の演出は、もっと大々的に報じられても良いことだと思う。

 


 最後に、この映画がとことん細部にこだわって描かれていることも強調したい。芸術作品において、徹底的に細部のディテールにこだわることで作品全体の強度が立ち上がってくる、ということがある。それはハッピーアワーにおいても同じで、僕が特に注目したのは芙美とその夫・拓也が、自宅で会話するシーン。編集者の拓也は、自分の担当する作家の講演を学芸員の芙美に依頼したところ、「仕事とプライベートを混同したくない」とぶっきらぼうに断られてしまう。その直後、仕事に向かうため家を出た拓也は車の鍵を忘れて戻ってくるのだが、その数秒間の間で芙美は考えを変えて、先の拓也の依頼をすんなりと受け入れる。何でもないシーンだが、鍵を忘れてしまった拓也の胸に沸いた微かな動揺や怒り、そして、拓也の話をストレートに断ってしまったことに対する芙美の内省、それらが、車の鍵を忘れるというありふれた小さな出来事から、妙に現実味を帯びて観客である僕の胸に迫って来た。これらの細部に対する真摯な視線が、作品全体に現実感という強度を与えていたと思う。

 

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 色々書いてしまったが、何が言いたいのかというと、とにかく素晴らしい映画だった。ハッピーアワーというタイトルでビールを飲みたくなったのは、僕だけではないだろう。監督もこの作品のタイトルを、呑み屋のタイムサービスの看板を見て思いついたらしい。帰ったら一缶あけよう。そんな小晦日の一日。