偶然と想像、あるいは言葉とやさしさの創造について

 今日はとにかく沢山好きな作品に触れて、ひとつひとつへの感慨を正確に記録しようと昨日の夜から心に決めていたので、朝から近所の喫茶店でモーニングトーストを食べながら堀江敏幸『定形外郵便』を読み、その足で厚木の映画館に向かった。道中の車内では、小野正嗣のラジオを流していた。ちょうど村上春樹の特集回を聞くことができて気分もバッチリ、これから観る濱口竜介の映画に対する高揚感を高めていたのだけれど、河川敷を車で走らせていると厚木周辺の橋梁に巨大なウンチの落書きがされているのを目にして、すごく不快な気分になった。橋にウンチの落書きをする人の気持ちが僕には全くわからないけれど、橋にウンチの落書きをする人からしたら、橋にウンチの落書きを見かけていやな気分になる人の気持ちが全くわからないのだろう。それはすごく悲しいことだと思った。そしてそれを「すごく悲しいことだ」と思う気持ちを、あくまで僕自身は失ってはいけないと思った。

 また当たり前のことを書いてしまった。

 

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 濱口竜介『偶然と想像』を観た。ものすごく大切な何かに気付いたような気がするけれど、その「何か」を具体的な言葉に置き換えようとするのは野暮なのかもしれない。そう思ってしまうほど、ひとつひとつの言葉に対して真摯に向き合って作られた、素晴らしい映画だった。

 何かが「見えている」と認識していることは、「見えていない」ことと同じなのかもしれないし、何かに対して「わかっている」つもりでいることは、本当のところ全く「わかっていない」ことと同義なのかもしれない。社会で生きていて、誰かに対してわかってもらえない、あるいはわかることができないというもどかしさを感じる瞬間があるけれど、そうした欠落を埋める瞬間も、不思議なことに他者とのコミュニケーションの中で生まれる。誰かの欠落を埋めようとするやさしさは、誰かに「確実に届けよう」とする言葉の選択によって為されると思う。

 劇中の第三話「もう一度」で描かれていたのは、その言葉が発せられるべき対象が「偶然」によって置き換えられたことによって生じる言葉そのものの広がりと、それを「想像」の力によって補おうとする相互の努力の果てに生まれる、強靭なあたたかさだった。そのあたたかさに触れることができた二人は、きっと幸福だったはずだ。想像力の先に生まれるあたたかさを全力で肯定しようとしたこの映画は、今の時代にこそ沢山の人に観られるべき作品だと思った。

 

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 夜は、本屋B&B主催の堀江敏幸朝吹真理子のライブ対談をみた。配信のタイトルは、「言葉と郵便をめぐる対話」。タイトルには全く関係ないような話がずっと続いていたような気がするけれど、ある意味ではそうやって本筋では無い会話の中から生まれる真理のようなものがあるのかもしれない、と思いながら聞いていた。

 どんなに時間をかけて考えられた言葉も、複雑で多層的な感情も、SNSの発達により瞬時に相手に届けることができるようになった現代。それは素晴らしいことだけど、この環境で生き続けていると、言葉の重みがどんどん軽くなっていくように感じることがある。「言葉というものは、本来遅れて届くものだ」と、二人は繰り返し語っていた。それはもちろん、手紙を書いてから切手を貼ってポストに投函し、それが長い距離を経て誰かの元に辿り着く、という物理的な「遅れ」の意味でもあるし、その言葉を受け取った時には何とも思わなかったことが、その先の経験を通してふと思い出したように実感に変わる、という内的な感覚としての「遅れ」の意味もあると思う。こうした「遅れ」に対して思いを馳せることは、どんなに伝達のスピードが早くなったとしても、失ってはいけない感覚だと思った。

 誰かから投げられ、キャッチした球が描いた放物線の軌道や球の重み、それが投げられた方角は本来どこを目指していて、なぜ自分のところに届いてしまったのか。それらを確かな手触りを持って知ることができないのであれば、僕らはそれ相応の想像力を持って、言葉と対峙しなければならない。言葉とはきっと、それだけ複雑で、確かな質量や触感をもって相手に伝わるべきものなのだ。二人の作家が、丁寧に言葉を選び取りながらゆっくりと話す二時間をパソコンの画面越しに聞きながら、そんなことを思った。

 

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 当たり前のことを書き記すことから、当たり前ではない何かが立ち上がってくる瞬間を、今日も追い求めて文章を書いている。そしてそうやって言葉を探っている時間や、この文章を読んでくれる数少ない誰かのやさしさを想像することこそが、僕にとっての幸せだったりする。橋梁に巨大なウンチを書いた誰かは、今、幸せなのだろうか。