20230205-20230211

2023年2月5日(日)

 一日中、バンドで新たにリリースする新曲のMV制作に明け暮れた。もう二度とやりたくないような細かい作業に時間をかけ、何度も失敗して再試行を繰り返したけれど、それらの時間は疑いようもなく楽しかった。楽しめば楽しむほど、良い作品ができていくような実感があった。早く色んな人に見てもらいたい。

 明日からの仕事に備えて米を2合分炊いたものの、夕飯で一息に食べ切ってしまった。何かを作るということは、実際に体を動かしていなくても知らず知らずエネルギーを消費しているらしい。

 今日はよく眠れそうだ。

 

 

2023年2月6日(月)

 家で仕事をした。仕事が終わって、というより終わらず、定時を過ぎたから諦めて業務用パソコンを閉じてすぐに、パソコンを入れ替えてMVの作業に取り掛かった。

 何かを作っていると、そこにどれだけ説明を入れるべきか迷うことがある。例えば歌詞を書いている時、「寂しい」という言葉をできるだけ使わずに、どうしたら「寂しい」という感情を表現できるか、まず考えてみる。それは「寂しい」という感情をそのまま言葉にするより、何か別の情景に仮託して表現した方が、聴き手にとってそれがすんなりと自分の感情として受け入れられるような気がするから。というか、そもそも「寂しい」という感情をそのまま伝える必要などない(自分自身も、それが「寂しい」という感情なのかどうかは本当の意味ではわからない)し、自分がそうした感情を持った理由や背景を凝視することで立ち上がってくる景色は、それを作品の形で表現したところで受け取り手にとっては毎度違った意味で受け取られる。その余白や揺らぎにこそ作品の本質があり、そうであるからこそ芸術には価値があるのであって、そうして作られた芸術は何か大きな力の源となる、と、僕はこれまでの人生で数々の作品に触れた体験を通して実感してきた。それはきっと確かだと思う。けれどその一方で、自分が何かを作っていると、その作品の中に「必要な説明」というものが、確実にあるような気がしてくる。

 濱口竜介の「ドライブ・マイ・カー」は、もちろんそこらのエンターテインメント映画と比較すれば説明と言える描写は少ないし、この映画を観て「何が言いたかったのかわからない」という感慨を持つ人も少なからずいるようだ。けれど、例えば家福が映画祭に向かうために空港に車で向かい、駐車場に着いたタイミングで携帯に届くフライトの欠航を知らせるメール文は、それが実際には家福にしか見えていないにも関わらず、画面いっぱいに文字の羅列が浮かび上がってくる。あるいはそれから時間が経過し、飛行機が空港に着陸するシーンでは、安易とも思えるほどに「一週間後」という文字が唐突に画面に立ち現れてくる。先に言ったような芸術の本質を突き詰めるのであれば、メール文の内容は家福の表情をもって観客に伝えた方がなんとなく良いような気がするし、時間の経過は文字として画面に表すのではなく、例えば天気の変化や演者の髭の濃さといった、切り取られる対象物自体の変化をもって観客に知らせた方が良いような気がする。それはそのシーンに深さを与えるために、必要な描き方だ。けれど実際、メール文の内容も、時の経過も、むやみに遠回しに表現されるより、ストレートに伝えられた方が観客として気持ちが良いのも確かだ。そして何より、それらは作品全体を見通してから考えてみると、全体の曖昧さや深さを支えるために必要な説明だった、という気がしてくる。そこで提示された安易さが、逆に映画全体の深さを担保している、とでも言えば良いだろうか。こうした作品を観ていると、芸術はとにかく曖昧に、余白を散りばめた作品が良い、というわけでは決してなくて、全体を踏まえ、必要な場面ではきっちりと説明をする、という労力もある程度は必要なのではないか、と思わされる。

 自分で何かを作っていてそうした壁に当たった時、そこで説明をするか、あるいはしないかは、自分の目を信じるしかない。自分の目を信じることは、すごく難しい。そして時間や労力をかけ、自分の目を信じて作り上げたものを誰かに見せた時、その誰かの目を通して発された意見を受け入れることは、もっと難しい。けれど芸術の本質を信じている限り、それを受け入れなければいけないことも確かだ。僕は今作っている作品をもうじきバンドメンバーに見せることになるが、そこでメンバーから発される意見を、しかと受け止めることができるだろうか。

 

2023年2月7日(火)

 仕事に行った。帰って風呂に入り、夕飯を食べてから集中して作業をして、やっとMVが完成した。1ヶ月ぐらいかかっただろうか。ずっと何をしている時も、MVのことが頭の片隅にあったような気がする。動画を書き出してメンバーに送った。それがメンバーにせよ、誰かに自分が作ったものを届ける瞬間はいつも怖い。今回は少なからず自信もあったから、尚更それが強かったのかもしれない。

 メンバーは動画を見て喜んでくれた。僕は、よかった、と思った。

 

2023年2月8日(水)

 家で仕事をした。終わってからしばらくぼーっとして、思い立ったように日用品を買いにスーパーに行った。

 日用品をちゃんと買いに行ったのは久々な気がする。そう考えると、なんだか年始に入ってから、生活というものをろくにしていなかったのではないか、と疑わしく思えてくる。何かを作ったり書いたりしている時、あるいは何かを読んだり観たりしている時、僕はどんどん生活から遠ざかる自分を感じる。もちろん睡眠を取ったり、ご飯を食べたり、洗濯をしたり、といった必要最低限のことは当たり前にやるけれど、凝った料理を作ったり、棚と壁の間の隙間に落ちた埃を雑巾で拭き取ったり、靴磨きをしたり、といった緻密な労力を家事にかける時間は、何かに没頭している間、ほとんど失われてしまう。それを自分の集中力、と言ってしまえば聞こえは良いけれど、そんなにかっこいいものでもなく、とにかく創作以外の何もかもが怠惰に飲み込まれてしまう。丁寧な生活を送ることと、何かを作ることは、僕にとって相容れない営為のように思えてくる。

 それでも僕は、丁寧な生活を送りながら創作をしたい。朝はコーヒーミルで豆を挽き、温かいお湯を注いで時間をかけて丁寧にドリップして、骨董市で選びに選んだカップを使ってソファから窓の外を見つめながらゆっくりとコーヒーが飲みたい。そしてその洗い物をシンクに積み上げることなく、毎度丁寧にスポンジで洗ってから仕事に出かけたい。帰ってきたらまずは風呂に入り、檜の香りの入浴剤に心を満たされながら小一時間瞑想して、風呂から上がったらローテンポな80年代のシティポップにレコード針を落とし、朝から干していた洗濯物を取り込んで丁寧にアイロンをかけたい。それらが片付いたらお香に火を灯し、やっと机に向かい、パソコンの周りに散乱する埃を隅々まで拭き取ってから、創作を始めたい。けれどきっとそんなことをしている内に、僕は徐々に眠くなり始めているだろう。何かを書き始めたところで、ものの三行程度で諦め、パソコンを閉じるかもしれない。そうしてベッドで深い眠りにつき、また新しい朝がやってくる。

 こうして考えてみると、創作を蔑ろにして丁寧な生活を送ることも別段悪くないように思えてくる。というか、別に創作をしろだなんて誰にも言われていないし、何一つお金にならないのだから、創作に没頭して生活を蔑ろにする日常は馬鹿げているのかもしれない。生き甲斐がなんだとか言い始める前に、まずはちゃんと生活を見つめなければいけない。それも確かだ。

 それでも満たされない何かが、僕を創作に駆り立てる。どれだけ丁寧な生活を送っていても、生きている限り日常に生まれる些細な綻びから逃れることはできない。それは僕が創作をしながら丁寧な生活ができないことと同じように、その何かが丁寧な生活によって満たされることは、きっと永遠にない。何かをしている間、僕はそれによってできていない何かに対する憧憬を強く持ち始める。結局創作をせずにベッドに入ったところで、眠れず机に向かって朝を迎えるかもしれない。その朝に見える窓の外の景色は、格別に美しいことだろう。

 僕はこれからもずっと、こうして満たされない何かを追い求めながら生きていくのかもしれない。というか、そうして生きていきたい。だから今日も日記を書いた。

 

2023年2月9日(木)

 仕事に行った。それから職場の上司とジムに行って筋トレをした。暫くろくな運動もしていない身体でジムに向かう足取りは鉛のように重かったが、一通り身体を動かした後に外に出て感じる夜風は、案外気持ちの良いものだった。頑なに内向きがちな自分を、明るい場所へと引っ張り出してくれる存在に、僕は感謝しなければいけないと思った。

 家に帰って風呂に入り、しばらくだらだらとしていた。それからふと思い立って、小説を書き始めた。

 

2023年2月10日(金)

 いつもより早く起きて小説を書いた。それから家で仕事をした。外は雪が降っていた。僕がぼんやりと窓の外を眺めているあいだ、職場に行っている人たちは大変そうだったから、せめて優しくありたいと思った。けれどそれは、僕が「優しくありたい」と思っただけのことで、全然優しさじゃないのかもしれなかった。

 そんなことを考えてるうちに夜になった。全然仕事が終わらなくて、僕の「優しくありたい」という気持ちもどこかに行ってしまった。時計の秒針の音だけがやけに大きく聞こえて、僕は両手で耳を塞ぎたい気持ちを必死で抑えながら、キーボードを叩き続けた。


 退勤後、急に卵かけご飯が食べたくなって、雪の中ペンギンみたいにゆっくりと歩いてスーパーに行った。夜道は風も無く、雪の積もった夜の町は嘘みたいに静かだった。この世に存在するすべての音が、雪に吸い込まれたみたいだった。僕はそれだけで、少しだけ優しくなれたような気がした。気のせいかもしれなかった。

 

2023年2月11日(土)

 朝から小説を書いた。自分の中の何かが、確実に変わり始めている気がした。けれど結局の所、何一つ変わっていないのかもしれなかった。

 夜は映画館でマーティン・マクドナー監督「イニシェリン島の精霊」を見た。傍から見ればどうしようもなくくだらない諍いが生んでしまう数々の悲劇。生きることは死ぬまでの暇潰しだという、諦念とも言える人生へのアンチテーゼ。それらを観終わった後の、清々しいほどの後味の悪さ。生きている限り何事も、一つの正解には帰結しない。「くだらないこと」が発端で起きる「悲劇」もあるし、「死ぬ」ために「生きている」と思うこともあるし、「清々しい」ほど「後味が悪い」ということもある。そうした一見矛盾するような事象が、この映画の中では全ての場面において共存している。どちらかに振り切ってしまうことを徹底的に拒みながら、この映画はそうした人生の撞着や不確かさ、あるいは可笑しさを、身を以て体現していた。そしてこの映画を観た各人が抱く感情がそれぞれ異なるように、誰かと分かり合うことや誰かを信じることはどうしようもなく難しく、だからこそ、稀有で素晴らしいことなのだ。

 多数決的な正解や、進むべき道を示唆されることは時に人を安心に導くけれど、人によってはそれが自分への圧力と感じてしまうこともある。本当の意味での包容力とは、矛盾したものを矛盾したまま誰かに受け渡すことなのかもしれない。この映画は途轍もない絶望を描きながら、それを観た我々の心に、微かな希望の光を灯してくれる。