物思いの秋

 日が落ちるのがだいぶ早くなって、意味もなくあれこれと考え込んでしまう時間が多くなった。「読書の秋」「食欲の秋」「芸術の秋」という、誰が定めたのかもよく知らない連体修飾語たちは、秋の気候が醸し出す物悲しい印象とは裏腹に、各々が好きな趣味を前向きに楽しむための活力や勇気をもたらしてくれる。僕にとっての「秋」とは一体なんだろう?と考え始めると、色んなパターンが想起されて、結局どれを楽しむにも時間が足りない、とネガティブな感情になってしまうのだが、「僕にとっての「秋」とは一体なんだろう?」と考える時間自体が、実はとても価値のある、有意義なひとときなのかもしれない。そしてそのような意識の転換は、時間や金銭的な制約のストレスから逃れる為の一つの手段でもあるのだが、そうやって何事を考えるにも「実はこれは視点を変えれば前を向けるかもしれない」と折り合いをつけて生きていくことこそが、大人になるということなのかもしれない。だとしたら、大人になるということは、思っていたほど魅力的なものではないのかもしれない。云々。ここまで書いてきて、この文章のタイトルがやっと思いついた。

 


 「読書の秋」は、夏目漱石三四郎」の中で、韓愈という文人が詠んだ漢詩の一節「灯火親しむべし」が引用されたことに由来されているらしい。秋の夜長に灯火の下で愉しむのは、当時の生活ではあくまで書物であって、テレビでもYouTubeでは無かった。最近ではめっきり読書に勤しむ時間も減ってしまい、暇さえあればYouTubeで「ちょっといい生活」をしている人たちの動画を検索して視聴しながら、パスタを茹でている。こんな生活を見たら、きっと昔の文人たちは鼻で笑うだろうなと思いながらも、僕自身は過ぎ去った文人たちが燭台の前で書物に触れ合う光景に憧れを抱き続けている。だから今日も、携帯片手にではあるが、こうして文章を書いてみようと思った。

 


 今日のパスタは、洋麺屋ピエトロの「絶望スパゲティ」だ。イタリアでは、いわしと香味野菜のペペロンチーノは「絶望している時でも美味しく食べられる」と、広く親しまれているらしい。悲しみに荒んでいる時、食べ物が喉を通らないような気になることがあるけれど、いわしの酸味とニンニクの香りを舌に乗せた瞬間、これはなんとしても胃に運ばなければ勿体ない、という使命感に駆られ始める。刻まれた野菜と潰れたいわしは、閉ざされていた喉をいとも簡単に通り抜け、胃に落ち着いてもなお、鼻から抜ける香ばしさで食欲を刺激する。成る程、これが絶望スパゲティと呼ばれる所以なのかとここまで書いてきて納得したが、予期せず食レポみたいな文章になってしまった。

 調べてみると、絶望スパゲティの由来はたっぷりの野菜を極小に刻むことに料理人が絶望してしまうことから来ている、と言う説もあった。誰かの絶望の果てに生まれたこのレトルトソースを味わうほど、僕は価値のある人生を送っているのか不安になった。

 


 誰かの「絶望」に向き合うことは、それなりの痛みを伴うものだ。そうして痛みを分かち合うことこそが、優しさであり、あたたかさであり、愛なのだと教えてくれたのは、今もなお生き続ける芸術の数々だった。ムンクの「接吻」という絵は、抱き合う二人の男女の顔が溶け合い、境界を無くして一個の物体として描かれている。愛し合うということが、境界を乗り越えて一つになることだとすれば、僕らが生きるアクリル板だらけのこの時代に愛は存在し続けることができるのだろうか。

 その答えはわからないけれど、あくまで僕自身は、たとえ境界があったとしてもその壁を越えるような想像力を持ち続ける不断の努力は失いたくない。「理解できない」と切り捨てることは簡単だけど、本当の意味で分かり合うためには、誰かの境遇を思い、自分の価値観で捉え直し、丁寧に選び取った言葉をキャッチボールすることが絶対に必要だと思う。そして、そういう地道な努力を自分に向けてくれる存在を、全力で大切にしたい。

 


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 さて。先にあげた、秋に冠される連体修飾語たちは、この文章の中で全て回収できた気がする。満足して携帯のメモ帳を閉じようとしたけれど、はて、「スポーツの秋」はどうした?と問いかける内なる声が聞こえる。耳を塞いでも、内なる声は響き続けている。胃に溜まったいわしとニンニクを消化するためには、少し体を動かさなければいけない。そして「スポーツの秋」を回収してこそ、この文章は上手くまとまるのかもしれない。

 だけどもう、疲れてしまった。村上春樹の言うように、完璧な文章など存在しないし、完璧な絶望も存在しない。それでいいんじゃないか。

 


 秋の夜は長い。長いけれど、朝は等しく皆に訪れるのだから、きっと絶望するまでもないのだ。