「僕」と「世界」の間に

 正月から不穏なニュースが続いている。能登半島震源とした大きな地震が起き、津波があった。羽田空港では着陸した航空機と別の航空機が接触し、炎が上がり、死者が出た。僕はそうした痛ましい報道をテレビ越しに見つめながら、空腹を満たすため一人、コンビニで買ってきたカップヌードルを食べている。

 「僕」と「世界」の間に、何か明確な境界線はあるのだろうか、とテレビを眺めながら思う。僕にも大切な人がいて、そうした人たちが被災地に居たり、けたたましい炎を上げる航空機に乗っていたら、と想像すると、恐ろしくてたまらない。しかし、それはあくまで想像でしかない。現に僕は今ここで、平然といつもと変わらぬ日常を生きていて、大切な人からラインも届いた。昨日は家族と食卓を囲みながら、流れるテレビの報道をBGMに、笑顔で満ち足りた食事をした。僕はそれを、今となっては後ろめたいことのように思う、けれど、きっとそれは後ろめたいことでもなんでもない。僕や周囲にいる人たちは、ただ真っ直ぐに、自分自身の生活をまっとうしているだけだ。ニュースや報道、SNSを流れる言葉に対して、何をどう受け取り、どう感じるかは人によって異なる。それは当たり前のことだし、実際に悲惨な状況に遭った人たちにとっても、それは同じことなのかもしれない。

 いつ何が起きるかわからない。誰が何にどう感じ、どういう言葉を発するかどうかは、それが起きるまでは絶対にわからない。それでも想像してしまう。頭では「何もわからない」ということがわかっていても、しかし、とか、とはいえ、といったように、何もわからない現状に対する否定的な言葉が、次第に脳内を埋め尽くしていく。そうしたむず痒さに我慢ならなくなった人たちが、曖昧模糊とした現状を打破するべく、物事の原因と勝手に決めつけた誰かに対する批判や、世直しへの叫びを、言葉という矢に乗せて世界に放つ。それが誰かを傷つける。そしてあるいは、誰かを助けることにもなる。それすらもどちらに転ぶかはわからない。わからないけれど、わからないなりに行動するしかない。しかし、行動することが正しいことなのかもわからない。何一つわからない世界で、何一つわかっていない自分が今、ここにいる。

 SNSで、災害緊急支援金の寄付が募られていることを知った。僕はそれを見て、寄付をしたい、と思った。どうしてそう思ったのかはわからない。ただ直感的に、寄付をしなければいけない、と思ったことは事実だ。しかしいざサイトのページに飛んでみると、自分が登録していないアカウントでログインをする必要があるようで、僕はそこで急に面倒になって、スマホを閉じた。誤解を恐れず正直に言えば、そのために時間を割いて、新しいアカウントを作成するほどの気持ちの強さを、僕は持ち合わせていなかった。そして、その募金にいくら入れれば良いのかもよくわからない。募金というと大体これぐらいだよな、という額も、きっと人によって異なるし、お金の価値と思いの強さとが比例するなどとも、到底思えない。大富豪が募金に入れる五万円と、少ない小遣いをもらっている小学生が募金箱に入れる五百円玉の価値が、同じとは絶対に思えない。そこにはそれぞれの思いがあり、それぞれの努力がある。だから自分にでき得る限りの努力を、と思うのだが、自分にでき得る限りの努力がいくらになるのか、僕には判断がつかない。誰かに決めてほしい、と思うが、それを誰が決めてくれるのかもわからない。それでも今まさに、お金を必要としている人たちがいる。しかしそれがどれほどのものなのか、実際に言葉を交わしているわけではないからわからない。わからない、わからない、ばかりが先行し、どうしたら良いのか本当にわからない。

 こうして「わからない」とばかり述べている文章に対して、そうやって迷っているからいけないのだ、という野次が飛んでくるような気がするが、とりあえず無視する。僕は僕なりに、僕と世界の間に起きていることに対して、真剣に向き合っているつもりだ。

 テレビのチャンネルを回すと、いつもと変わらぬお笑い番組がやっている。そこで芸人が落とし穴に落とされ、それを見るワイプの芸能人が大声で笑っている。何もこんな時に、と不快な気持ちになり、批判する人もいるだろう。それでも芸人やテレビ局のスタッフは真っ直ぐに、こんな時だからこそ、世界を明るくするために誰かを笑わせようとし続けているのだ。どちらも悪くない。どちらかが間違っているわけでもない。それでも争いは起きる。それぞれが真剣に生きているからこそ、そこに争いが起きる。しかしそれは、それぞれの「僕」が、それぞれのやり方で「世界」と向き合い続けた結果でしかない。

 どうして戦争が起きてしまうのか。その原因を決めつけることは不可能だ。それを決めようとするから、戦争が起きるのだ。人災、天災、と明確な区別が引かれるが、人災も天災も、結局の所いつどこで起きるかはわからない。その点において、両者に明確な違いはない、と思う。明確な区別が引けるとしたら、きっと、「生きている」か、「死んでいる」か、でしかない。死者に言葉はない。死んでしまったら、何かを感じ、感じたことを言葉にして発することもできなくなる。それはつまり、生者にしか言葉はない、ということでもあるのだ、と、ここでやっと僕は思い至る。

 僕は今ここで、文章を書いている。文章を書くことができる、ということは、僕が今生きている、ということの証拠でもある。だとすれば、今まさに息絶えようとしている誰かのため、ではなく、僕が今生きている、ということへの感謝を、募金に込めることはできるかもしれない。

 

 この文章を読んでくれたあなたは、どういうやり方で、世界と向き合っているのだろうか。どこで何をして、何を思って生きているのだろうか。たぶん、それを伝え合うために、僕らはここで生きているのだ。「僕」と「世界」の間、ではなく、「僕」と「世界」と「あなた」の間には、きっと無限の可能性が広がっている。