20210811

東京国立近代美術館に行って、隈研吾展をみてきた。コロナ禍にも関わらず会場は多くの人で賑わっていて、文字通り息つく暇もなく一気に展示を見ていたのだが、まず圧倒されたのが彼の建築物の途轍もない量だった。60代後半という年齢にも関わらず、近年も国立競技場や高輪ゲートウェイ駅という日本の主要な建築の設計から、小さな居酒屋、海外のミュージアムの設計に至るまで、規模的にも距離的にも幅の広い多くの建築物の設計を手がけている。展覧会で流されていたインタビューを少し聞いた時に、彼がそうした幅広い建築に着手する姿勢には、どこか哲学的な原動力が隠されているような気がした。展覧会後のミュージアムショップで『僕の場所』という隈研吾の書き下ろし文章を購入し、家に帰ってから読み始めると、すごく興味深いことが書かれていた。

 

僕のことに触れたスピーチのことを、いつも鮮明に思い出します。「えてして人間というものは境界を作りたがる。境界の外側にいる人間を排除しようとする。しかし、隈にはそれがない。境界という概念すらないのかもしれない」という話でした。(中略)都市の中で建築を作る時と、自然環境の中で作る時と、やり方が違いますかとよく質問されます。「同じです。どんな場所も、世界に一つしかない場所だという点では、まったく同じです。」と答えます。都市の中にも、光は降ってくるし、風は抜けるし、雨も降るし、お隣さんもいます。それだけで十分に、自然があるということです。すべての場所に自然は溢れています。それが僕の場所に対する基本的なスタンスです。

 

文章の中で彼はこう語っていて、それは展覧会を見た僕にとってすごく腑に落ちる言葉だった。彼の建築は、無数の木の板が張り巡らされた建築が多いのが印象的だった。そのようなパターンが好きなのかな、と短絡的に考えていたが、それは極めて意識的に選び取られた方法なのだと思う。彼の建築を実際に見たことはまだないけれど、高層ビルに囲まれた都市の中で、木の板が張り巡らされた建築は束の間「自然」を感じる時間にもなるだろう。木の板の隙間からも、実際にはガラスで区切られていたとしてもどことなく風の吹き抜ける質感や、光の匂いを感じることができるのだと思う。逆に森に囲まれた土地に佇む彼の建築を見ると、周囲に溶け込みながらも疑いようもなく人為的な設計を施された建造物に、社会の進歩や技術の発達を垣間見る瞬間になるのだろう。自然の中に、小高い山を思わせる形の建築が建てられている写真が、とても印象的だった。

 

「境界がない」という考え方は、人と人との関係や、芸術作品の鑑賞にも通じる意識だと思う。芸術作品に触れる時に、それらが共感できたか、共感できなかったか、それだけでその作品の価値が語られる機会がすごく多くなっていると思う。それはきっと作品にとってすごく不幸な捉われ方だと思う。自分が理解できないものに出会った時にそれがどうして理解できないのか、を考えること自体が、「自分」という境界の外側に出る方法にもなるし、そういった捉え方をしない限り、誰かとわかり合うことなんてできない。そういった考え方をみんながするようになれば、差別なんてものは世の中からなくなっていくのだろうと思うけれど、なかなかそうも行かない世の中だし、自分自身も徹底できていない気がする。けれど、隈研吾建築のような多くの人が行き来する建築物は、根本的に「境界がない」という意識で作られていないと、それらは公共の場ではなくなってしまうのだろう。彼の建築が世界的に愛される理由は、彼がここで語っているような、根底にある哲学から生まれるものなのだろう、と漠然と感じた。

きっと隈研吾にとっての「僕の場所」は、僕にとっての「僕の場所」にも成り得る。それは、彼の建築にそもそも「境界」という概念が存在しないからだ。近い内に、実際の彼の建築物を見に行きたいと思う。