20231224-20231230

2023年12月24日(日)

 昼に蕎麦を食べ、近場で買い物をした。帰り道に車中で、桑田佳祐白い恋人たち」を流して熱唱した。別に浮かれているわけではない。街の雰囲気に浮かされているだけだ、と、意味の無い言い訳を並べてみる。

 クリスマスイブにどこで何をして、誰と過ごしていたか、ということを具体的に書くことが、自分の身辺を赤裸々に語ることになる、という世の中が怖い。別に誰といたって良いし、何をしていたって良いじゃないか。と書いてみたところで、何を怒っているのだろうか、と急に阿呆らしくなってくる。


2023年12月25日(月)

 LINEで「クリスマス」と打つと、LINEキャラクターの可愛い画像が表示されるらしい。季節ごとに適用されるこうしたギミックを見ていると、この機能は実際どれだけ必要なのだろうか? と懐疑的に思ってしまう自分がいる。「わ、すごい!」と素直に喜べる人には楽しいものだと思うけれど、割合的に言うと、こうした機能が日々の連絡の合間に発動してしまうことに対し、煙たさというか、「良いよ、もう」と疎ましく感じている人間の方が多いような気がする。僕の目を通して見る世界は、曇り過ぎているのだろうか。

 しかし考えてみると、「クリスマスうぜー」「クリスマスとかマジで興味無いわ」と不平を漏らす人や、「クリスマスに浮かれてる奴ら、全員くたばれ!」と強い語気で怒る人にも、等しく降り続ける雪の背景の上に可愛い画像が表示されている、と思うと、なんだか笑えてきて、優しい気持ちになれる。クリスマス特有のこうしたギミックは、人々の間に起きる諍いや、怒りの芽を、強引に無効化していく。その力が悪い方向に向かうことは無さそうだ。そう考えると、こうした機能もあながち不要とも言えないのかもしれない。

 恋人と過ごす人、友人と集って飲み騒ぐ人。そうした人に対して不平をこぼす人、一人でいつもと変わらぬ日常を送る人。全ての人に、きっと平等にクリスマスは存在している。メリークリスマス。

 

2023年12月26日(火)

 仕事に行った。年内最後の出勤日。それなのに仕事は驚くほど終わらず、一分一秒を争う猛攻の果て、結局ほとんど片付けることができなかった資料の入ったPCと、ざらっとした後ろめたさを携えながら、周囲に頭を下げ、急いで先輩達との飲み会に向かった。

 何一つ果たせていない気がするけれど、何一つ果たしていない方が認められる、ということも少しだけわかってきた。認められるために仕事をしているわけでは無いけれど、認められた方がスムーズに事が進む場合もある。そのためには適度な肩の力の抜き方と、緊張感のバランスが重要なんだ、とある先輩が話していた。その人が緊張感を持っているような場面を、僕は見たことがない。それでも、その人はそういうあり方で、ずっと何かを果たし続けているのだ、と思う。そこには、善も悪も無い。人はそれぞれ、自分なりのやり方で人生と向き合いながら、生きているのだ。

 人の良し悪しを他人が判断できないのであれば、本当の意味で自分に向けることのできる目は、自分の目でしかないのかもしれない。僕がなりたい自分は、どういう人間なのか。僕が作りたいものは、どういうものなのだろうか。それを探す旅に、明日から出掛けようと思う。

 

2023年12月27日(水)

 午前8時49分、起床。窓越しに見える空は、旅立ちを後押しするように青く晴れ渡っている。

 車中泊の旅に出よう、と決意したのは、ほんの二週間ほど前のことだった。車を購入した時から一抹の憧れはあったものの、他にやりたいことも沢山あるし、何よりアウトドアが苦手な自分が自宅以外の環境で穏やかに時を過ごす、ということが、俄かに想像できずにいた。しかし季節は冬の初め、山には恐らく、虫もいなければ騒ぎ散らす観光客もいない。加えて今年は記録的な暖冬、ときた。そんな絶好のタイミングでインパルス・板倉俊之のYouTubeチャンネルに上げられている「ハイエース一人旅」の動画を見てしまった僕は、もはや旅立ちへの切望を抑えきれなくなっていた。どこへ行っても良い、何をしても良い、完璧な自由。心の赴くままに飯を食い、風呂に入り、好きなだけ眠る、という、生物にとってこれ以上無い贅沢な幸福。それが車内で行われている光景を目にしてしまってからというもの、日々の雑事の合間を縫っては必要なキャンプ用品をAmazonで買い揃え、仕事中も愛車の中で時を過ごす自分を夢想しながら送る日々が続いた。

 そして今日、ついに旅立ちの日がやってきた。

 家事を済ませ、準備した大量の荷物を、座席を倒してフラットにした車の後部に詰め込む。寒さに耐えるための電気毛布やヒーター、明け方にコーヒーを楽しむための電気ポット、ミル、ドリッパー。そして車内で読むためのいくつかの本。それら全てが僕のためだけに存在していて、僕は僕自身のために、それらを車に詰め込んでいた。その事実が、日々の雑事で疲れ切った僕の心を隙間なく満たしていく。

 車のエンジンを入れ、ゆっくりとブレーキから足を離し、発進する。車が道中の段差を乗り越えると、後部に詰め込んだ大量の荷物が軋みをたて、車全体が大きく揺れる。その度に、僕はこの揺れのために生きているのだ、という奇妙な思いが頭を掠める。大袈裟かもしれないが、大袈裟に思えるようなことが、自分にとって一番の真実であったりする。僕も長いこと、この日記を書き続けてきた。改めて読み返してみると、それは言い過ぎだ、とか、誇張ではないか、と思うことも多々あるけれど、その時その瞬間の自分にとってそれが真実であった、ということは確かだ。自分の目は、今、ここについている。自分の目に映る景色と、そこから受け取る感慨を、そのまま真実として素直に受け止めたい。そんな思いを奮い立たせながら、重い車を走らせて高速に乗り込んだ。

 サービスエリアで休憩を挟み、目的地の秩父に辿り着いた。秩父の里に入るためには、高速を降りて下道を走ってから有料道路を通る必要がある。料金所で車を一度停め、財布から小銭を出し、数百円を払って中に入る。それが何だか、現実と遠く離れた夢の国への切符を買っているように思えて、無性に心が弾んだ。まだこんな気持ちになってしまうのか、というより、まだこんな気持ちになれるのか、という前向きな思いが、胸に湧き上がってくる。斜に構え、世界を燻んだ目で見つめるだけだった過去の自分が、秩父の澄んだ山の空気にゆっくりと浄化されていくのを強く感じる。

 スーパーで食料品を買い込み、目的地のRVパークに辿り着いた。RVパークとは、各駐車位置に電源が設置された駐車場で、車中泊を愛するものは皆ここに延長コードを持ち込み、車の中で至福の時を過ごすことができる。幸運なことに駐車場には僕の車一台しかおらず、かつてはテニスコートだったらしい広い駐車場は完全に貸切の状態だった。人影も見えず、鳥の声も聞こえない。車を降りて周囲を見渡すと、青空の下、澄んだ冬の空気の向こうで、山の稜線が四方に渡って広がっていた。完璧な静けさと、完璧な自由。僕は大きく深呼吸をして、しばらくベンチに腰掛けてゆっくりと流れていく時間を楽しんだ。

 それから車中で呑むための焼酎を道の駅で購入し、ホテルに戻って温泉に入った。温泉も、途中から人は入ってきたものの最初はほぼ貸切の状態で、どうしてこんなに素晴らしい場所があるのに誰も来ないのだろう、ということが、不思議で仕方なかった。都心に行けば人に溢れ、ゆっくりと座って深呼吸することすらできない。そんな環境に居て、自分を見つめることなどできやしない。そうだ、僕は自分を見つめたいと思っていたのだ、ということに、人気の無い浴場で体を流しながら、ふと思い至る。

 日々仕事に追われ、その傍らで日記を書き、忙しない一年を過ごしてきた。日記を書き続けた、ということは自分にとって一つの達成ではあったが、それが目的であったわけではない。目的と手段、それを取り違えるな、と方々から釘を刺される毎日ではあるが、そもそも僕の中に、目的と手段が明確に分けられるものなのだろうか、という迷いが深く根付いている。それは、こうして日記を書き続けることで、何となく身に付いてきたことだ。

 僕は日記を書くことで何らかの創作の糸口を見つけたい、と思っていたことは確かだが、こうして書き続けてみると、それは創作の糸口を見つける、ということよりも、自分を深く見つめる、ということでしかないことに気付かされた。いや、あるいは自分を深く見つめる、ということが創作の糸口になる、というか、創作とはそもそも自分自身を深く見つめることでしかないのだ、と、今となっては思うのだ。しかしそれは、何かをしている最中に思い至ることのできることではない。大切なことは、いつも遅れてやってくる。何かに没頭し、夢中でやり続けることが、後から何らかの意味というか、それをやっていたことの輪郭を、自分自身の手で明確になぞらえることができるようになる。そんな実感を得ることができたのは、自分にとって、今後の財産となるかもしれない。

 こうして温泉に浸かり、曇った窓の向こうに広がる夜空をぼんやりと眺めていると、自分が今ここにいる、という紛れもない事実を、強く実感することができる。自分が今考えていることを、いつも以上にすんなりと受け止めることができるような気がする。何をしていても、そうじゃない、それは間違っている、と自分を否定する気持ちを忘れないように生きてきたが、時には自分の感情を真っ直ぐに受け止めること、そしてそれがそのまま創作に繋がる、と信じることも、必要なのではないか。こうして静かな場所で、穏やかな時間を過ごしていると、そうやって素直に思える。

 風呂から上がり、少し湯冷めした身体で寝床を準備して、秩父焼酎をあおってから寝袋に入った。胸は高鳴り続けていて眠れる気がしないが、明日は朝から、日の出を見に行こうと思っていた。今日はしっかりと眠って、明日また、素晴らしい景色を見に行こう。旅はまだ始まったばかりだ。

 

2023年12月28日(木)

 午前5時45分、時計の音で目を覚ました。2時あたりに一度目を覚ましてしまったが、大方問題なく眠ることができた。一番不安視していた夜の時間を乗り越えた以上、もはや恐れることは何も無かった。これから何が起きてもきっと大丈夫だ、という自信が、根強く自分の中に芽生えるのを感じる。きっと、キャンプや登山に魅力を感じる人は、こうした感慨を糧に生きているのだろうな、と思う。他人の気持ちを実感し、体験できることは、きっとそれだけで尊いことだ。

 寝床を片付け、車で山の頂き付近まで行って町を眺めた。気候が良い時には雲海が見れるらしいが、今日はほんの少ししか見ることができなかった。けれど別に良い。雲海を見るためではなくて、僕はここにいるために、ここにいるのだ。繰り返すようだが、人の少ない静かな場所で自分を深く見つめることさえできれば、今回の旅は僕にとって成功なのだ。そのためには、絶好の場所のように思えた。

 僕はそこで見た美しい景色を思い返し、上手く言葉で描写したい、と思いながら、ここで何度も書いては消して、を繰り返していたが、一向に上手く書ける気がしない。それは僕自身の文章力の無さも多分にあるが、そこで見た景色の美しさは、そこでしか見られないものだったことも確かだ。初めての車中泊の夜を乗り越え、明け方に車で山を登り、寒さに凍えながら見た景色やそこで得た感慨を、僕の稚拙な文章で再現することなど到底できない。そうした反省を嘘偽りなく書く、ということが、その景色の素晴らしさを語ることになる、ということを信じているからこそ、僕はそうやってここで書くことしかできない。見たものを見えたままに、感じたことを感じたままに書け、とは言われるが、僕が今思い返すことは、今ここで僕が思い返していること、でしかない、という思いも同時にある。だから、とにかく美しい景色だった、と、小学生の作文みたいに書いてみる。

 しばらくそこで景色を眺めてから、ホテルに戻ってもう一度風呂に入った。それからチェックアウトの時間まで、車の中でコーヒーを飲みながら読書をした。いつも当たり前のようにしていることが、何か途轍もなく素晴らしいことのように思えた。僕はその時間、本当に幸せだったのだ、と書いている今、改めて思う。それから山を下り、有名な蕎麦屋に行って蕎麦を食べ、ブックオフに立ち寄り、ソフトクリームを食べてから帰路に着いた。

 

 旅の最中、僕は何となく思い立ち、ずっとiPhoneで旅の様子を動画に回し続けていた。それは僕がここに来るまでに見た、YouTubeにアップされている沢山の動画の真似事に過ぎないのだが、しかし実際に自分の手で動画を回してみると、そうした動画をアップしている人たちの気持ちが少なからずわかったような気持ちになり、嬉しかった。音楽も、絵画も、小説もそうだが、自分が好きなことを実際に自分の手で作ってみると、それを作る前には気付かなかったような細部に気付くことができるようになって、鑑賞がさらに楽しくなる。そうして得ることのできる楽しさは、常に無限で、どこまでやっても先が見えない。そうした先の見えなさ、あるいは無限な宇宙のような広がりが、僕の心を満たし、僕の目に見える世界を、日々彩り続けている。

 これから先、僕はどのような人生を歩んでいくのか。僕は僕自身の手で、一体何を作ることができるのだろうか。それはわからないけれど、何かをしたい、やりたいと思った気持ちに素直に、これからも取り組み続けていきたい。そうして形にした何かが、誰かの世界を新しい色で彩ることができるのならば、それ以上に幸福なことは無い。

 しかしそうならなくても、きっと僕はやり続けていくだろう。創作とはきっと、僕が、僕自身の世界を彩り続けることでしかないのだ。道中で回していた動画を見返しながら、こうして日記に文字を打ち込み終わってふと、そう思う。良い旅だった。

 

2023年12月29日(金)

 朝から、昨日までの旅の記録を書こう、と何度も机に向かったけれど、どうにも上手く書くことができず挫折。代わりに、道中に回していた動画を繋ぎ合わせてYouTubeに動画をアップしてみた。映像の力はすごい。その時々に見た景色、抱いた感情を、限りなく実際に近い形で誰かに伝えることができる。そうした意味で、映像を撮る、ということは人に何かを伝える手段として手っ取り早いものだ。しかしそれと同時に、映像には「何もかもを映してしまう」という危うさもある。きっと、その危うさから目を逸らしてはいけない。

 夜はバンドメンバーと酒を飲む約束をしていたけれど、急遽小竹が来ることができなくなり熊谷と二人で酒を飲んだ。最近どうだ、とか、これからどうして行こうか、といった「今」と「未来」の話をしているはずが、思えば昔からずっとこういう話をし続けているな、と気付き、「過去」と「今」が倒錯していくような、不思議な感覚を覚えた。「今」を共に生きている、ということは、きっと同時に「過去」や「未来」を共に生きることでもあるのかもしれない。僕が今、熊谷とした話は、過去の話でもあり、未来の話でもある。厳密に言うとそれすらも、今となっては過去のことで、と書いていてよくわからなくなってきたけれど、とにかくそうした長い時間軸を共に過ごしているのだ、ということは、すごく尊いことのように思える。

 とにかく元気そうで何よりだった。また彼と、小竹と一緒に音楽が作りたい、と、素直に思う。まずは自分が曲を作らなければいけない、ということも、痛いほどわかっている。

 

2023年12月30日(土)

 朝から急いで年末の大掃除を済ませ、目黒シネマに行ってイ・チャンドン『オアシス』を観た。

 他者への想像力を獲得することがいかに難しいか。自分以外の誰かが、自分が想像している以上の何かを想像している、と気付くことが、いかに難しいか。その難しさは、決して物事の表面を撫でるだけで汲み取れたり、実感できることではない。

 一本の映画を通して、観客の身に現実としての世界の見え方の変化と、カタルシスを巻き起こすこと。限られた時間の制約や言語の壁、映像技術の限界に誰もがそうした理想を諦める中、愚直に映画が人の心に与える大きな力を信じ、作品を撮り続けているのが、監督・イ・チャンドンである、と思う。彼の撮った映画を観ていると、彼にとって「人間を信じる」ということと「芸術を信じる」ということが、限りなくイコールに近いのだ、ということを強く思わされる。芸術を想像=創造することの中に、他人の気持ちや自分自身を深く見つめるための契機が潜んでいる。そうした相互作用の間にしか、作品というものは生まれ得ない。しかしそうして芸術や人間と真っ向から向き合うことこそが一番難しく、表現者にとっての厳しい試練であることも間違いない。

 脳性麻痺を抱えた主人公の女性は、孤独な部屋の中で、手鏡に窓から差し込む日差しを反射させ、壁に光を当てる。何故そんなことをしているのかは、誰にもわからない。けれどそこに投射された光から、鳥や、美しい蝶が実際の形を得て、この世界に生きる存在として羽ばたき出す瞬間は、何度見ても美しい。僕はそのシーンを見る度、イ・チャンドンが伝えようとしていた「想像力の美しさ」を強く思う。彼女は彼女なりの世界の見つめ方で、何かを想像し、創造し続けているのだ。他人から見れば理由が無く、くだらないと笑われるようなことも、その人の世界にとっては必要不可欠なことがきっと沢山ある。自分の目に見えている世界は、他人の目に見えている世界と絶対にイコールではあり得ない。それは当たり前のことではあるけれど、つい忘れてしまうことでもある。

 こうして日記を書くのも、明日で一年になる。何のためにしているのか、と問われれば、僕にとって必要なことだからだ、としか答えられない。僕には僕の世界があって、誰かには、誰かの世界がある。それらの善し悪しを、他人の物差しで測ることはできない。

 時々、何をしているのだろうか、と不安になることがある。自分の世界が信じられなくなり、今までやってきたことを全て投げ出したくなることがある。それでも、想像し続けることをやめるな、と強く訴えるイ・チャンドンの声が、僕の中で響き続けている。