風に揺れるレースのように

 定時で無理やり退勤した。近くの映画館で、大好きな監督の作品が20時から上映されるらしい。一度観た作品だが、もう一度観たい、とも思う。何度観てもきっと、沢山の得るものがあるだろう。けれどもう一度観たら鑑賞料で2000円ぐらいかかるし、2000円あれば新品で一冊ぐらい単行本が買える。文庫本だったら、四冊買えるかもしれない。それに考えてみれば明日も仕事だ、映画を観て帰ってきたら、それだけで大体23時ぐらいになってしまう。久々の仕事で疲れた気もするし、読みたい本も沢山あるから今日はまっすぐ家に帰るか、と思って帰路に着き、家のドアを開けると、誰もいない室内は空気がこもっていて初夏のように蒸し暑かった。クーラーをつけるべきか、いやまだ早いか、夏はまだまだ先のことだ、と逡巡した挙句、おもむろに窓を開け放つと、夕暮れの涼しい風が室内に入り込んで来て、レースのカーテンが音も無く揺れた。風は目には見えない、けれど、風が揺らす何かは目で見ることはできる。そんな当たり前のことを思った時、僕はなぜか衝動的に「何かを書きたい」と思って、久しく更新していなかったこのブログに、文章を書き始めた。

 

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 例えばそうやって僕たちは、毎日沢山のことを選択しながら生きている。何かをしよう、と思って何かをする。しかしそうすると、否応無く「しなかった何か」が生まれてしまう。あの時こうしていたら良かった、と思うのは絶対に何かを選択した後で、それを何かをする前に思うことは原理的に不可能だ。それなのに時間は限られていて、無理やり優先順位をつけて物事に取り組もうとする、けれど、人生において「優先順位」なんてものが本当につけられるのだろうか。僕が今日、映画を観に行ったら良かったのか、あるいはこうして文章を書いているのが正しい選択なのか。それを判断してくれるのは誰だ。誰もいない。僕は一人ぼっちでここに居て、何をすることが正しいのか、あるいは間違っているのか、というかそうやって「正しい」とか「間違い」を判断することが本当にできるものなのか、わからないながらも無理やり何かを判断し、選択して、日々生きている。

 そんな当たり前のことを書いてどうするのだ、と問い掛ける内なる声を無視して、とりあえず書き進める。というか、僕にはこんな当たり前のことしか書けない。僕にとっての当たり前のこと、それはつまり、「何かがわからない」という袋小路に迷い込むことを通してしか、その先にある言葉を掴むことができない。なんとなく、そんな実感がある。

 今日僕が「書きたい」と思ったのは、風に揺れるレースを見たからだ。風に揺れるレースを見なければ、僕は「書きたい」とは思わなかったかもしれない。それでも日々、やっぱり何かを書きたい、と思っていることは確かだ。その「書きたい」という衝動は一体どこから来るのか。自尊心? 自信? あるいは「何者かになりたい」という、漠然とした渇望、不安だろうか。それを突き詰めて考えたことはあまり無かった。というより、それを突き詰めて考えることからずっと逃げ続けていた。それを考えてしまったら、僕は何も作れなくなってしまうーーそんな恐怖が、いつも隣にあった。それは恐怖なのか、あるいは救いなのか。それすらもわからないけれど、なんとなくそれについて考えると、胸がざわつくのは確かだ。

 映画監督・濱口竜介は、クリエイターに必要なことを問われた時、それは「満たされなさ」だ、と言った。それは何も家庭環境がどうとか、苦い経験の有無だとか、そうしたことだけに限らない。何か素晴らしい作品に出会った時に打ちのめされる、あの感覚。自分が、自分自身の手でこのような素晴らしい作品を生み出すことができていない、ということに対する苛立ちーーつまりは「芸術的満たされなさ」を、他者の作品から受け取ることも、作品を作り続ける原動力になる、と語っていた。僕にはそれがよくわかる、というより、僕の中には元々、それしか創作における原動力と呼べるものは無かったような気がする。素晴らしい作品に出会い、そうした作品を自分の手で作りたい、と願いながら、今までも色々なことに手をつけてきた。その欲求が始めから自分の内に存在していたわけでは決して無い。毎回そうした外的要因に触発されながら、沢山の他者の言葉を受け取り、それを自分の中でこねくり回してなんとか消化して、自分の言葉で発信する。そんなやり方で、別にそれを生業にするわけでもなく、なんとなくこの歳まで続けてきた。

 ここでふと、立ち止まって思うのが、そうした「原動力」を自ら求めに行く、ということの矛盾だ。何かを書きたいけれど、何も書く気が起きない。そんな時に誰かの作品に触れて、無理やり自分の中にあるエンジンを稼働させることは簡単だ。しかしその根幹の、「何かを書きたい」という欲求が、一体どこにあるのか。それがわからない以上、何かを書くことがただの目的と化し、本当の意味で「書く」ことはできない。そうやって、色々な作家の本や音楽、映画を通して学んできた。けれどそれは、それを生業にしている人たちの考えでしかない。別に僕は仕事柄、こうやって文章を書くことを求められているわけでも無いし、僕が何も書かなくたって誰も困らない。それなのに、書きたい。書かなければいけない。その衝動が湧き上がる根幹に、今はとにかく目を凝らしたい。けれどそれも、一体何のために?

 そうやって考えながら書き進めながら、僕にとってはつくづく、こうやって何かを作ることと「生きる」ことは似ている、と思う。何もそれは、「作ることが生きることだ」なんていう御託を並べたいわけでは無い。生きていることも、突き詰めて考えるとやっぱり意味なんて無い、と思うのだ。僕が死んだところで、少ないながらもそれを悲しんでくれる人はいるかもしれない、けれど、その人たちもやがては死ぬだろう。子供を作ってその孫ができたって、あるいはベートーヴェン「第九」のような至上の名曲だって、それが何億年も先に、自分が死んだ後の世界で連綿と続いて生き続けるわけでは無い。この地球上にあるものは全て、やがては滅びる。いつかは太陽や、他の宇宙に存在する何らかの光に全てが音も無く吸収されて、その光もやがては消える。原子レベルでも、僕たちが生きていることは何一つ残らない。死後の世界を信じているわけでも無い。だとしたらやっぱり、生きている意味なんてどこにも無い、と、別にそれは悲観的なわけでも無く、単純な事実としてそう思う。

 それでもやっぱり、生きたい、と思う。そこに意味なんてものは存在しない。ただ生きたいのだ。それと同じように、僕は今、何の理由も無く書きたい、と思っている。それがたぶん、全てなのだと思う。よくわからないし、言葉では上手く説明できないけれど、きっとたぶんそういうことなのだ。

 

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 結局何一つ言葉にできないまま、当たり前のような結論に行き着いてしまった。気付けばもう、映画が始まる時間だ。少しだけ腹が減ってきた。生きている意味なんて無い、とどれだけ信じていようと、それでも腹は減るから不思議だ。そろそろ何かを食べよう。

 こういう感じでのうのうと生きていたら、きっとすぐに夏がやって来る。夏が終われば秋が来て、それから冬を越えたらまた、あたたかい春がやって来るだろう。そしてその春を、僕は僕の周りにいる優しい人たちと共に迎えるだろう。そこに意味なんてなくたって、やっぱりそれはそれだけで素晴らしいことだ、と思う。僕はただそうやって生き続ける中で、風に揺れるレースのように、これからも何かを書き続けたい。