日常と非日常のあわいで

 自分の脳が揺れているのか機体が揺れているのか、判然としない内に頭上のベルト着用サインが点灯し、やっと飛行機が滑走路を走り始めたことに気付く。高く飛ぶための助走は、スピードが速ければ速いほど良い、というわけでは決して無い。自身の外側から受ける抵抗を念入りに計算し、新たな世界へと踏み出だすための入射角を内省的に調整することでやっと、風を我が物として掴み、その力を利用して遠くへ、あるいは高く飛ぶことができる。そうした、力任せに先端技術を愚弄するだけでは果たせない、微妙で細やかな調整の集積による偉業に静かに心を揺らされていると、そんな腑の抜けた自分を置き去りにするように飛行機は凄まじい勢いでスピードを上げ、旅の始まりを告げる轟音を吹き鳴らしながら離陸し、曇天の空へと突入して行った。

 家族旅行、という何の変哲も無い目的での旅だが、それでも初めての海外旅行となると少なからず緊張するもので、昨日の夜はなかなか寝付けなかった。イギリス・ロンドンの街並みは何度も写真や動画を通して目にしたことがあったが、実際に自分がそこに立ち、土地の空気に触れて過ごしている状況は想像もつかない。何かを「見る」ということは、何も視覚に限った話ではなく、五感を通して初めて得られる体験なのだ、と、頭では分かっていながら、その事実すらも未だ本当の意味で理解できていない自分は、今回の旅を家族から提案された時、長く仕事の手を開けることの不安など頭の端に追いやり、出不精な自分にしては珍しく二つ返事で同行を決意したのだった。

 東回りの空の旅は、気が遠くなるほど長い時間だった。前日は寝不足だったにも関わらず、アイマスクに耳栓を施しても慣れない座席ではなかなか眠れず、一度観た映画を何度も繰り返し観て過ごした。上手く説明できないけれど、新しい何かを見る前に、新しい何かを見る、ということが嫌だった。それでも結局の所、「新しさ」とは一度見たものの中にも無限に宿っているのだな、と、素晴らしい映画を見ると思い知らされる。しかしそれはもしかすると、日常から非日常に踏み出すこの瞬間だからこそ生まれた感慨なのかもしれない。そうした思いを大切に胸に仕舞っておくためにも、既に旅から帰還した後始末にはなるけれど、旅先での思い出を振り返りながらここに何かを書き留めておくことも悪くない、と思い、この旅行記を書き始めた。

 十数時間ぶりにベルト着用サインが点灯し、気圧によって詰まった耳のせいか音も無く、飛行機は緩やかに下降を始め、ロンドンのヒースロー空港に着陸した。痺れた足と痛んだ腰を庇いながら重いリュックサックを積荷から下ろし、機体から空港へと続く通路を抜けて迎えの車が待つ駐車場に辿り着くと、海外特有の甘ったるい石鹸のような匂いと共に、何処からともなく優しい風が吹いた。それが追い風だったか、向かい風だったか、今となってはよくわからない。けれど別に良い。旅はまだ始まったばかりだ。