創作へ向かう必然

 書きたくて仕方がない、わけではないが、何かを書き始める。

 去年は一年間、そうやって毎日「日記」という形で何かを書き続けてきた。何も書く日が無い日でも兎に角iPhoneのメモ帳を開き、その日一日に起きた感慨を絞り出すように、日々書くことを捻出してきた。時には書き始めても具体が浮かばず、ぼんやりとした取り留めの無い感情を掴む、あるいは掴み損ねるだけの日も多々あったが、大抵の場合は書いている内に、言葉に引き摺られるようにして書きたいことが浮かんできて、その運動に素直に身を委ねることで、文章を書き続けてきた。その結果として、日々仕事や日常の雑事に追われている割には、沢山の文章を書くことができたと、今では少なからず満足している。

 しかしそれも正直な所、「毎日何かを書く」と決めたから続けられてきたことであって、そうした自分の中での縛りが無ければ一年間も日記を書き続けることは到底できなかっただろう、と思う。そしてそれは、自分が音楽活動をしていた時に関しても同じことが言えて、僕はバンドメンバーと共に定めた締切や、ライブの予定に合わせて曲を作ったり、ミュージックビデオを作ったり、そうした外的な要因があったからこそ創作を続けることができていた。一人でパソコンに向き合っているだけでは作ることができない曲が沢山あったし、なるほど作ることとは、自分一人の力や、日々の感慨だけでは続けることができないことだ、と、今となっては痛いほど思う。

 何かを生み出す、ということは、それなりにエネルギーが必要なことだ。そのエネルギーは、例えば誰かの作品を見たり読んだり聞いたりして、素晴らしい、と思い、そうしたものを自分の手で作りたい、という欲求から生まれる場合もあるし、自分の中に消化し切れない感情が芽生え、それを形にしたい、という不満の感情から生まれる場合もあるが、いずれにせよ何かを生み出すためには、それ相応のエネルギーを自分の内に育てる必要がある。それが無い場合には、先に書いたように自分で決まりを作ったり、誰かから決められた締め切りに向かって書く、ということでしか創作を続けることは難しい。

 しかしそうして外的な要因で決めたものは、何となく嘘くさい。というか、作品にはやっぱりそういう嘘くささがどうしても反映されてしまうものだ。創作をする、ということは、すなわち裸になることで、自らの根源に向かうことこそが創作なのだ、とすれば、誰かから言われて書いたり書きたくも無いのに書いたりした文章には、そうした「誰かから言われて書いた」ということや「書きたくも無いのに書いた」ということが、隠しようも無く色濃く滲んでしまうものだ。それは、僕が今までに触れてきた沢山の素晴らしい作家の作品を通して、よくわかってきた。それを骨の髄まで理解するために、これまでに沢山の作品に触れてきた、と言っても過言では無いかもしれない。

 僕が今までに沢山の本を読んだり、音楽を聴いたり、映画や絵画作品に触れてきたことは、結局の所すべて創作に通ずる予感を胸にやってきたことなのかもしれない、と、ふと思う。僕が高校の頃、ギターを手にして創作を始めなければ、ここまでの半生、と言えるほどの長い年月をかけて、これだけ多くの作品に触れることはしてこなかったはずだ。もちろん、純粋に創作ということを抜きにして作品に救われることは沢山あったし、元々文化芸術が好きだ、という面もあったが、それでもやっぱり「創作をしたい」という欲求が僕を作品に向かわせ、その作品から自分が創作をするエンジンを稼働させる、というサイクルを自分の中に育て、続けてきたことは確かだ。「生まれながらの表現者」なんてものはいない、ということは重々わかっているけれど、何となく自分は「創作をすることが自分にとっての全てだ」という感覚が恐らく人よりも強くて、そうした感覚を自分の中で大切に、ずっと育ててきた。けれど一度立ち止まって考えてみると、その感覚が生まれたことすらほんの小さな偶然に過ぎないのだ、と思い、今自分がここでこうして文章を書いていること自体も、不思議なことに思えてくる。

 もう後戻りはできないのだろうか、と思う。費やしてきた日々、蔑ろにしてきた友と過ごす時間、そうした全ての集積として今の自分があるのなら、やっぱり後戻りはできない、けれど、僕は今日書き始めた通り、書きたくて仕方がない、わけではないが、今日も何かを書き始めた。その創作へ向かう必然が、どこか自分の中では無い外側にあってほしい、と願う気持ちは捨てがたい。人にこう言われたから、こうしたい、とか、人がこうだから、こうしたい、とか、そうした外側の要因でしか自分の生の実感を持てないように、いつしか人間はなってしまったのかもしれない。それは醜いことのように思える、けれど、そうした醜さに、少しく愛おしさを感じるのも確かだ。

 何かを書きたい、わけでは無いが、何かを書く、ということを通して、それが書きたいことになってくる。そんな毎日をこれからも、何のためでもなく続けることでしか、僕は生きていくことができない。今日は仕事が終わって家に帰り、YouTubeを見始めるでも、ご飯を食べ始めるでもなく、何かに導かれるようにしてこの文章を書き始めた。僕は生まれながらの表現者、では無いけれど、僕にとってそれはやっぱり確かなことだ、と強く思う。だからこそあなたにとって、これを読まなければいけない、わけでは無いけれど、読んでしまう、そんな文章を、僕はやっぱりどうしても、書きたい。