過去に向けた言葉たち

自分より何十歳も年齢が上の人が、毎日何冊も何冊も本を読み、性懲りも無く「人生ってなんだろう」「幸せってなんだろう」と考えて、考えても考えても答えが見つからずに、そして見つからなくても、あるいは見つからないがゆえに、どこか前を向く手掛かりを本の中から見つけ出して、生き続けている。

僕にとってそれは、ものすごく救いのあることだ。若い僕らがあれこれと悩み、傷付き、不安に怯えていること、それに対して何世代も上の作家が「その反復こそが人生だ」とでも言うかのような泰然自若とした態度で諭してくること、それが結構好きだ。年寄りにはわからないとか、若いなりの葛藤があるんだとか、もちろん思うけれど、僕にとってはそのお節介じみた言葉は救い以外の何物でもない。そりゃ、色んな人がいる。心根から楽観的で、何が起きても別に自分とは関係ないの一点張りで人生をゆうゆうと生きてきた人は、そこまで尊敬に値しないのかもしれない。しかし、反論されることも承知で言うと、僕は「長く生きている」というそれだけである種の尊敬に値するものがあると思っている。そして、長く生きれば生きるほど魅力的な人間になれる、そう思い続けていると、長く苦しいように思える人生が、少しだけ明るくなる気がするのだ。

そんなことを、今日も懲りずにおじいさんが書いた本を読みながら考えている。

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最近ブログを書くペースがまた落ちてしまっているのは、日々忙しく生きているからだと言いたいところではあるが、大して忙しく生きているわけでもないし逆に忙しくしていればしているほど書き記したい感慨は増えていくもので、つまり、何も言えないのである。読んでくれている人がいる限り、何かにつけて思ったことを書き続けたい。

 

ライブが近いので、テンションが高い。

 

今日も早稲田の古本市で世界文学全集などの大型本含む三冊を購入し、また友人から荒木飛呂彦の漫画をもらって図書館で二冊の本を借りるなどしたうえで、ぜえぜえと息を切らしながら大荷物を持って家に帰ったのだが、これはもう病気ではないかと思う。読みきれるはずがないのだ。わかっている。読みたい本を見ると反射的に買ってしまって、それがどんどん積み上がっていくのをただ崖下から眺めている。なんと言えばいいだろう、絶対に勝てない敵を前にした時に感じる無力感が何とも言えない心地良さにつながっていると言えば良いか…圧倒的に打ちのめされた時に人はある種心地良さを感じるものだと思う。その壁を、自分でせっせと働いた金をはたいて築き上げている自分は阿呆としか言いようがないのだが。

 

現代は、合理性が何よりも大事とされている社会だ。どこに行くにも最速最短が求められ、不必要な荷物はスッキリと処分させ、徐々に小さくなっていくスマホに全てを収斂させることだけに皆が尽力している。その時代に対して、古本屋で阿呆のように大量の本を買って部屋の範囲を狭めたり、ストリーミングでいくらでも聴けるのにCDを現物購入してジャケットを惚れ惚れと眺めていたり、YouTubeで観れるのにわざわざライブに出かけたりするのは、圧倒的に合理的ではない。そんなこと、わかっているのだ。わかっているけれど、決して合理的ではないことやものが大好きな僕らが、大好きなものを斥けてしまったらそれはもう駄目だと思うのだ。これは、ある種の使命感であり、社会にとって必要な考え方だと言いたい。

好きなものは、好きと言い続けなければきっとなくなってしまう。それが嫌だから、僕はこうして毎日リュックをパンパンに膨れ上がらせながら大量の書物を持ち歩いているのである。

うーん。わかっている。これは、阿呆の言い訳だ。

1107

体調を崩して丸一日寝ていた。おかげで本をたくさん読めた。鷺沢萠「川べりの道」は、何回読んだかわからないほど読んだけれどやっぱりいい小説だ。この小説を読むと、普段生きていても中々気付かない、けれど自分が大切にしている、失くしたくない何かに知らず知らず触れることができる気がする。「何か」というふうに、漠然としか言えないのだ。うまく言葉では言えない、一筋縄ではいかないことが生きていると当たり前のようにたくさんあって、それらがわからないにせよ丁寧に考える機会を小説が与えてくれると言えばいいか。わからない。わからないけどわからないなりに、こんなことをあれこれ考える時間は大切だと、思い続けたい。

 

夕方、喉の痛みと熱が徐々に引いてきたら、それだけでなんとなく前向きになれた。生きていくのは大変だし、あまり意味がないのかもしれない。なら、なんとなく好きなことをのんびりとやるのが一番いいのだ。使命感なんていらない。闘争心もいらない。自己顕示もいらない。自己実現なんてもっと必要ない。本当に必要なのは、何かを好きでいることだけだ。僕はカレーが好きで、本が好きで、空いている電車が好きで、家の布団が好きで、クサい映画が好きで、暑苦しい音楽が好きだ。そして好きな人を、自分を好きでいてくれる人を大切にできれば、それできっと十分なのだ。

淘汰されていくもの

あなたは何が好きですか?

こうして何年も、のうのうと生きていると、自分が大切にしているものが無茶苦茶に破壊されている場面に遭遇することがある。それはものに限らない。風景、場所、ひと、優しさ、愛、あたたかさ、そういった類のすべてのものが。

それらが跡形も無く破壊されるのを、黙って見ていられる人がいるわけがない。その破壊の場面に遭遇したら、誰もが何かしら言葉を発するものだ。たとえ発せられた言葉が、誰にも受け取られず崩れ去ってしまうとわかっていても、誰もがどこか、自分の入り込む僅かな隙間を探して、そこに全力を込めて、言葉を送り込む。

僕にとってのその僅かな隙間は、周りにいる大切な人たちだったり、音楽だったり、今書いている文章だったりする。そういう場自体がもし失われてしまったら、僕はどうするだろう。文藝春秋に載っている国語についての論争を見て、そんなことを思った。

社会の刃が悪い方向に向かって、自分の大切にしている場が淘汰されることになったら。歴史を見れば、そんなことは沢山あるのだ。僕がこうして、なんのしがらみもなく生きていること自体が奇跡なのだと思う反面、その甘ったれた現状を嘲笑うような圧倒的な現実が自分に覆い被さってきた時の絶望を、僕はまだ想像できずに、嵐の前の静けさのようなこの生活に少し不安を感じている。

とにかく僕は、自分の大切なものが本当に大切なんだと声を上げ続けよう。たとえそれが無意味だとしても、そうすること自体に意味があると願えば、それを願う余地があれば、きっと僕らはまだ大丈夫だ。

 

1027

何でもないことが頭から離れず、何でもないにも関わらず何らかの意味を持った悪い出来事の兆候のように頭のどこかに居座っていることがある。どんな出来事も自分が非難されているように映る時は、大概自分が自分の生活に後ろめたさを感じていることが多い。どこか頑張れていないとか、どこか心の余裕を感じてしまっているとか。

そういう時は、何かしていないと不安になるのでとりあえず本を読む。映画を観る。ラジオを聴く。そうして何かしら、考える。活字を追いながら、画面を見ながら、物語を追いながら、人の話を聞きながら、頭の隅で別の何かを常に考え続けている。芸術鑑賞とはもしかしたらこの「頭の隅」にある何かに思いを馳せること、つまり、自分の思考を活性化させ、普段の生活では行き届かない無意識の深い深い部分へと自分を誘う役割があるのではないか。

そしてそれが、もしかしたらいちばん大事なことなんじゃないか。

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気狂いピエロを途中までみた。全然ちがうことを考えてた。

 

「文学的」な歌詞、というやつがどうにも無理になった。とりあえず難しい漢字を使っておけばいいと思っている人は漢字検定でも取ればいい。平易でわかりやすい言葉で、複雑でわかりにくいことを体現するのが一番面白い。なんでかって言われたら困るけど、僕はそういう方が好きだしなんとなくそうあるべきだと思っている自分が自分にとって正しいと思ってる。

1024

カメラを止めるな!」をやっと見た。評判通り面白かった。帰りの電車では堀江敏幸「曇天記」を読んだけれど、疲れていたからかあまり頭に入ってこなかった。本当は大好きなのだ。最寄駅からの歩きでは、最近聴いているラジオ「学問のススメ」の都甲幸治さんの回を聴いた。なんだかむちゃくちゃ馬鹿なことを言っているようで、核心をついた言葉を持っている人はずるいなあと思うが、その「ずるさ」こそ文学の役割だったりする。逆に当たり前のことをさも大事なことのように話す人だって、その落差自体に実はむちゃくちゃ意味があるんじゃないか。つまり、物事の本質は表面には全然あらわれなくて「なんで?」とか「あれこの人嘘ついてる?」とか疑ってかかる、想像力を巡らすことができるから。そういう思考の厚みみたいなものをもたらしてくれるのが芸術や文学の役割で、「芸術的な人」ってそういう人だよなとおもう。と思ったのも、たぶん映画世界が何度もひっくり返る映画を観たからで、なんだか恥ずかしいので風呂に入って寝る。